第21話:母の時計
老女の名は、ハンナ・ベルツといった。
息子のトマス・ベルツ、十九歳。王宮騎士団第三大隊付きの従士。三月前、「夜間訓練中の落馬事故」で死亡。
「従士というのは、騎士見習いの身分でございましょう。お給金は出ません。『修行の身』ですから。でも、あの子の手紙には、書いてあったんです。『訓練は夜中まである。馬の世話と先輩騎士の身の回りで、眠るのは二刻だけ』『食事が、減らされる。罰だと言われる』……それで、事故と言われましても、母には、その」
「分かりました。ベルツ夫人。息子さんの手紙は、お持ちですか」
「十一通、ぜんぶ取ってあります」
「お借りします。一通ごとに受領書を発行し、複製後、原本は必ずお返しします」
聞き取りを終え、夫人を送り出した後も、私は受理票を書く手を止めなかった。止めると、別のことを考えてしまうからだ。
眠るのは二刻だけ。食事を減らされる。
十九歳。
「……監査官さま、あの。今日はもう、お休みになったほうが」
「あと三件、処理してからにします」
「監査官さま、さっきから、同じ受理票を三回書き直してます」
手元を見た。ミリィの言う通りだった。記録する。当職、本日の事務効率、著しく低下。
ヴァンが、無言で椅子を引いてきて、私の机の向かいに座った。
「……あんた、騎士団の話になってから、ずっと様子が変だ。ヘリオンの時は、あんなに平熱だったのに」
「平熱です」
「嘘つけ。あんたは嘘が下手だ。帳簿の外じゃな」
私は、ペンを置いた。
しばらく、置いたペンを見ていた。それから、上着の隠しから懐中時計を出し、机の上に、そっと横たえた。
「……この時計の話を、まだ誰にもしていませんでした。記録の正確性のために、話しておきます」
銀の蓋には、細かい傷が無数にある。三十年分の傷だ。
「私の母は、平民でした。行商人の娘で、帳場の才覚を買われて、クロイツェル家の商務代理人になり、父と結婚しました。貴族の世界では『成り上がりの嫁』です。母は、家中の誰よりも働きました。領地の帳簿、商会との交渉、使用人の給金の設計。朝は誰より早く、夜は誰より遅く。……働きすぎたのです。私が十一歳の冬に、倒れて、そのまま」
ヴァンもミリィも、口を挟まなかった。
「葬儀のあと、親族の一人が言いました。『所詮、平民の体は貴族の務めに耐えぬのだ』と。誰も、訂正しませんでした。母の労働は、家のどの記録にも残っていなかったからです。貴族の妻の働きは『内助』であって、労働ではない。帳簿に載らない。載らないものは、なかったことになる。——母が遺したのは、この時計だけです。母の口癖は『時間は、誰にでも平等な唯一の通貨』でした。皮肉なものです。母自身の時間だけが、誰にも数えられなかった」
私は時計の蓋を開けた。文字盤は、今夜も正確に動いている。
「私が王宮で監査官になったのは、数字が得意だったからではありません。帳簿に載らない労働を、この世から一件ずつ減らすためです。……騎士団の従士は、給金が出ない。『修行の身』だから。帳簿に載らない。トマス・ベルツの二刻の睡眠は、どの記録にも残っていない。——ですから、ヴァンさん。私は平熱ではありません。これは私的な感情です。職務の判断からは、切り離します。ですが、なかったことには、しません」
長い沈黙のあと、ヴァンが言った。
「……切り離さなくていいんじゃねえか、別に」
「規程上——」
「規程の話じゃねえよ。あんたが言ったんだろ、受理番号〇九四のとき。『訊くべき時が来たら、訊く』って。だから俺も今、訊いただけだ。で、聞けた。それだけの話だ」
ミリィが、洟をすすりながら、濃いお茶を三つ、机に置いた。
「わたし……監査官さまの決め台詞、ちょっとだけ、意味が変わって聞こえます。『記録は、嘘をつきません』って——あれ、『記録だけは、お母さまに嘘をつかなかったらいい』ってことだったんですね」
「……そういう整理は、していませんでしたが」
していなかった。だが、否定する材料も、なかった。
私は時計の蓋を、パチン、と閉じて、立ち上がった。
「明日、騎士団に臨検の予告を出します。軍組織への配慮として、予告ありの正式手続きで——正面から、参ります」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
懐中時計の持ち主の話を、ようやくお話しできました。
帳簿に載らない労働を、一件ずつ。次話、騎士団へ正面から参ります。
ブックマークと評価(☆☆☆☆☆)は、帳簿に載せて、なかったことにいたしません。




