第2話:廃墟の監査院と、最後の職員
出勤初日というものは、人生で何度あっても良いものだ。
新しい職場、新しい帳簿、新しい未処理案件。心が躍る。
……ただし、職場に屋根があれば、の話である。
現在時刻、八時五十八分。
王都の東外れ、旧穀物倉庫街の最奥。私は辞令に記された住所の前に立っていた。
「ギルド監査院……」
看板は斜めに傾き、「院」の字は半分朽ちて「ギルド監査阝」になっている。屋根瓦は三割が欠落。雨樋は植物に占拠され、扉の蝶番は赤錆で固着していた。
建物の資産価値を概算する。土地代を除けば、ほぼゼロ。むしろ解体費用で負債である。
「……まず、雨漏りの位置の記録からですね」
扉を押すと、固着していたはずの蝶番が、存外あっさりと回った。
最近、誰かが開けている。
埃の積もった広間。傾いた執務机。そして、その机に長い脚を投げ出して座る、一人の男がいた。
黒ずくめの剣士だ。歳は二十代半ば。無造作な銀髪の下から、灰色の目がこちらを値踏みするように見ていた。
「……新しい監査官か」
「ギルド監査院監査官、アデル・クロイツェルです。本日付で着任しました。あなたは職員名簿に……記載がありませんね。何者ですか」
「ヴァン・ガレット。ただの居候だ」
男は懐から一枚の札を放って寄越した。冒険者ギルドの身分証——ギルドカード。
A級。討伐実績、三百二十七件。そして、その全てを否定するように、カードの中央には焼印が押されていた。
【抹消】。
「元、A級冒険者だ。今は何者でもない」
「除名処分……。事由の記載がありませんが」
「あんたには関係ない」
ヴァンと名乗った男は立ち上がり、出口へ向かいながら、振り返らずに言った。
「忠告だ。やめとけ。ここに来た監査官は、あんたで四人目だ。一人目は脅されて辞めた。二人目は買収された。三人目は——ある朝、来なくなった」
「興味深い記録です。ですが私は辞めません。前職を解雇されたばかりですので、ここで実績を作る以外の選択肢が、経歴上存在しないのです」
「……変な女だ」
彼は出て行かなかった。扉の脇の椅子に座り直し、剣の手入れを始めた。居候の定位置、ということらしい。雇用関係は不明瞭だが、優先順位は低い。後で整理する。
私はまず、奥の書庫を開けた。
そして、息を呑んだ。
告発文書だった。
壁一面の棚に、紐で束ねられた訴状が、床から天井まで積み上がっている。日付の最も古いものは三十年前。最も新しいものは——先月。
未払い報酬。違法な斡旋料。安全装備の自己負担強制。死亡補償の不払い。
誰にも読まれないまま、それでも誰かが、ここに届け続けたのだ。
「……ヴァンさん。この書庫の告発は、なぜ処理されていないのですか」
「処理する人間がいなかったからだ。それでも持ち込む奴は絶えなかった。他に持ち込む場所がないからな」
私は懐中時計の蓋を開けた。九時十五分。
三十年分。概算八百件。一件あたりの目録化に三分として——。
「目録を作ります。全件です」
「……正気か。読んでどうする。監査院に、ギルドを動かす力なんてないんだぞ」
「力の有無は、読まない理由になりません。記録は、読まれた瞬間から効力の準備を始めるものです」
その夜。
目録化が九十一件目に達したとき、監査院の扉が、激しく叩かれた。
開けると、少女が立っていた。十六、七だろうか。受付嬢の制服のまま、髪は乱れ、目の下には濃い隈。腕に、分厚い紙束を抱きしめている。
「ここ……監査院、ですよね……っ。あの、わたし、赤鷲ギルドの受付の、ミリィ・ロッタといいます。これ、うちのギルドの、台帳の写しです。新人さんたちのお給金が、もう三月も……ぜんぶ、ここに、証拠……」
言い終える前に、少女の膝が崩れた。
ヴァンが素早く抱き留める。脈は正常。極度の過労と空腹。診断は三秒で済んだ。
私は彼女の腕から紙束をそっと抜き取り、最初の頁を開いた。
——驚いた。
依頼番号、報酬額、支払予定日、実支払額、差額。完璧な複式の写しだ。素人の、それも倒れる寸前の少女が作ったとは思えない精度だった。
「ヴァンさん。彼女を奥の長椅子へ。毛布は私の荷物の中に」
「あんた、どうする気だ」
「決まっています」
私は懐中時計の蓋を、パチン、と閉じた。
「明朝九時。赤鷲ギルドに、臨検に入ります」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
着任初日にして、告発八百件と職員一名(居候)を確保しました。
次話、いよいよ最初の臨検です。出勤簿は、嘘をつきません。
ブックマークと評価(☆☆☆☆☆)は、監査院の貴重な「活動記録」として永久保存されます。




