第1話:婚約破棄の「議事録」
本作をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。
世の中には愛や絆で窮地を乗り越える物語が多いようですが、
残念ながら働く者を守るのは、愛ではなく「正しい記録」です。
この物語は、「冷たすぎる」と捨てられた監査令嬢が、
冒険者を使い潰すブラックギルドに、出勤簿と法規で現実を教えるお話です。
それでは、本日の臨検を開始します。所要時間、約5分。
私の婚約破棄は、開始から終了まで四分三十二秒だった。
懐中時計の蓋を、パチン、と閉じる。
記録は、嘘をつきません。
「アデル・クロイツェル! 貴様との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業夜会。シャンデリアの下で高らかに宣言したのは、私の婚約者——レオンハルト第二王子殿下である。その腕には、聖女様の側近を務める男爵令嬢マリア嬢が、庇護されるべき小鳥のように収まっていた。
「君は冷たすぎる。人の心の機微というものがない。マリアが涙ながらに教えてくれたぞ。君が彼女に浴びせた数々の侮辱をな!」
会場がざわめく。私は手袋を外し、手帳を開いた。
「殿下。発言の前に、確認をさせてください。ただいまの宣言は、王家とクロイツェル伯爵家の婚約契約に対する、殿下の正式な解約意思表示と記録してよろしいですか」
「な……なんだと?」
「議事録を取っております。後の紛争防止のためです。どうぞ、お続けください」
殿下は一瞬たじろぎ、それから声を張り上げた。撤回しないらしい。結構なことだ。私はペンを走らせる。
——二十時十四分。レオンハルト殿下、婚約破棄を宣言。事由は「冷たすぎる」「人の心の機微がない」、ならびにマリア・ロゼッタ男爵令嬢への侮辱行為(具体的日時・場所・証人の提示なし)。
「あの、アデル様……? わたくし、とても傷ついて……」
「マリア嬢。あなたの証言は『侮辱された』という結論のみで、事実の特定がありません。いつ、どこで、誰の面前で、私が何を申し上げたのか。備考欄に追記しますので、どうぞ」
「え、えっと……いろんなところで、いろいろと……」
「『いろんなところで、いろいろと』。記録しました。原文ママです」
会場の隅で、誰かが小さく噴き出した。
「とにかくだ!」殿下が割って入る。「貴様のような帳簿と規則しか愛せない女に、王子妃は務まらん! 父上の裁可も得ている。貴様は明日付で王宮監査局を解任、王都外れの『ギルド監査院』とやらへ異動だ! 二度と私の前に現れるな!」
ギルド監査院。
その名を、私は脳内の組織図から検索した。該当一件。冒険者ギルドを監督する……ことになっている、職員数不明、予算ほぼゼロ、過去三十年間の活動記録なしの部署。要するに、書類上にしか存在しない墓場である。
周囲の令嬢たちが扇の陰で囁いた。「あそこに送られたら終わりよ」「お可哀想に」。
可哀想、か。
私は懐中時計の蓋を開いた。母の形見の、古い銀時計。文字盤は今夜も正確に時を刻んでいる。誰の上でも、王子の上でも私の上でも、まったく同じ速さで。
「承知いたしました。異動命令、謹んで拝命いたします」
「……ず、随分と素直だな。泣いて縋るかと思ったが。やはり心がないと見える」
「殿下。最後に、こちらにご署名を」
私は書き上げた議事録を差し出した。本日の宣言の一部始終。日時、発言者、事由、立会人の欄まで完備した、完璧な記録である。
「な、なぜ私が署名など」
「ご自身の発言に、間違いがないことの確認です。それとも——間違いが、おありですか? この場で訂正なさるなら、いまなら備考欄に収まりますが」
衆人環視の中、王子が「間違いだった」と言えるはずもない。彼は顔を赤くして羽根ペンを引ったくり、署名を殴り書いた。
レオンハルト・ヴェルガンド。
よろしい。これであなたの四分三十二秒は、永久に保存される。
記録は、嘘をつきません。そして記録は——いつか必ず、利息をつけて戻ってくるのです。
「では皆様、ごきげんよう。明日より出勤がございますので、お先に失礼いたします」
私は完璧な角度で一礼し、会場を出た。誰も追ってこない。結構。引き留めの応対時間はゼロ分で済んだ。
夜風の中、馬車を待ちながら、私は手帳の新しいページを開く。
異動先、ギルド監査院。職員数不明。予算ほぼゼロ。活動記録なし。
……つまり、未処理の案件が三十年分、手つかずで眠っているということだ。
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。歯車が噛み合う音に、よく似ていた。
王宮の方々は知らないのだろう。監査官にとって「誰も触っていない帳簿」ほど、心躍るものはこの世にないということを。
現在時刻、二十時四十七分。
私の左遷は、いま始まった。
——後にブラックギルドの皆様から「王都で最も会いたくない女」と呼ばれる監査官の、これが初日の記録である。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「廃墟の監査院で、どうやってブラックギルドを詰めていくのか」
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