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婚約破棄を「労災認定」しました 〜「冷たすぎる」と追放された監査令嬢、左遷先でブラックギルドに是正勧告を叩きつけます〜  作者: 小鳥遊ミント


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第14話:百件目の告発

 百件目は、なかなか来なかった。


 来ないはずである。放火の翌日から、監査院の周りに「見張り」が増えた。通りの角に二人、向かいの屋根に一人。告発に来る者を観察し、顔を覚える——それだけで、人の足は止まる。告発とは、勇気の出費なのだ。


「えげつないな。並ぶだけで目をつけられるんじゃ、誰も来れない」

「ええ。ですので、受付の方を動かします」


 私は受付を三つに分けた。一つはドルン工房の二階。一つは東市場の公証人事務所。一つは——移動式だ。ミリィが買い物籠を提げて市場を歩き、声を掛けられたら、その場で聞き取る。

 告発の窓口は、建物である必要はない。受理印を持つ人間がいる場所が、窓口だ。


 それでも、二日間、百件目は届かなかった。

 九十九件で止まった数字を、私は焦らないことにした。焦りは判断を歪める。歪んだ判断は、記録を歪める。


 三日目の夕方。

 廃止までの残り日数が二十六日になったその日、監査院の扉が、ためらいがちに叩かれた。


 立っていたのは、老婦人だった。

 粗末だが清潔な外套。固く結った白髪。皺の刻まれた手が、布に包んだ何かを胸に抱えている。


「……こちらは、ギルドの監査院様で、間違いないでしょうか」

「はい。監査官のアデル・クロイツェルです。どうぞ、中へ」


 老婦人は、エルマ・コッツェと名乗った。

 その名を、私は知っていた。書庫の告発文書、第三次。『夫は採掘現場の崩落で死んだのに、ギルドは夫の過失だと言って補償金を払わない』——五年前の、差出人。


「五年前にも、お手紙を出しました。お返事は、ありませんでした。当然です、誰もいなかったのですから。……でも、先日、市場で噂を聞きました。赤鷲の若い衆が、未払いのお金を取り戻してもらったと。黒槌に、勧告が出たと。それで、その……もう一度だけ、と思いまして」


 彼女は胸の包みを解いた。

 中から出てきたのは、古い手帳だった。革は擦り切れ、角は丸くなっている。


「夫の、作業手帳です。あの人は字が下手でしたけど、毎日つけていました。何時に坑道に入って、何時に出たか。どの支保が緩んでいたか。班長に何度、危ないと報告したか。……死ぬ前の晩も、書いています。『明日の区画は支保が三本足りない。報告したが、工期優先と言われた。心配だ』と」


 私は手帳を受け取り、最後の頁を開いた。

 不器用な、よく潰れた文字。日付は五年前の、彼が死ぬ前日。

 崩落は「予見不能の事故」で、死は「本人の過失」だと、黒槌の記録は言っていた。だがこの手帳は、危険が事前に報告され、無視されたことを記録している。本人の字で。死の前夜に。


「コッツェ夫人。確認します。これは原本ですか」

「はい。五年間、仏壇に置いていました。手放すのは、その、怖かったのです。これしか、あの人の残ったものがないので。でも」


 老婦人は、まっすぐに私を見た。


「読んでくださる方がいるなら、紙は、仏壇より働き口があったほうが、ようございます」


 私は両手で手帳を持ち直した。重さ、約二百グラム。一人の鉱夫の、十一年分の労働時間。


「ギルド監査院、本告発を正式に受理します。本手帳は最重要証拠として、複製三部を作成のうえ、原本は耐火金庫で保管します。調査の進捗は毎月、私が直接、あなたにご報告します」


 受理票に番号を書き入れる。

 受理番号——一〇〇。


 カン。


 受理印の音を聞き届けると、エルマ・コッツェは深々と頭を下げ、夕暮れの中を帰っていった。その背を、ミリィが角まで送った。


 そして、その夜。

 監査院の地下に、四人が集まった。私、ヴァン、ミリィ、そしてグレゴール院長。

 燭台の灯りの下、院長が懐から二枚の紙を並べた。


 一枚は、本日王宮から正式送達された『ギルド監査院の行政整理(廃止)決定通知。宰相府決裁・王命によらざる行政措置』。

 もう一枚は、ミリィの記した受理台帳の最終頁。『受理番号一〇〇、エルマ・コッツェ』。


「……『院の存続が王命によらずして脅かされ』」


 院長が、静かに読み上げた。


「『なお民の訴え、百を数うる時』。——揃ったのう、アデルや」


 黒ずんだ鉄の鍵が、机の上を滑って、私の前で止まった。


「三十年、油を差し続けた甲斐があったわい。……開けてきなさい。三百年ものの債権の、取り立ての時間じゃ」


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


百件目は、五年待った人の手から届きました。

次話、第十五話。三百年の封蝋を、ついに割ります。


ブックマークと評価(☆☆☆☆☆)、受理番号付きでお待ちしております。


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