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野犬と不覚と水苔と

リュンヌは魔獣になど一度も遭遇したことがない。


おばちゃんの一人が「リュンヌちゃんは魔王城になんか行っちゃあダメだよ」と真剣に言う。リュンヌは苦笑する。


「……魔王城。……聞くだけ……遠い、……予算外」


リュンヌは短く応じ、困ったように眉を下げた。


彼女の戦歴は、路地裏の酔っ払いか、せいぜい家畜を襲う狼止まりだ。


世界を滅ぼす巨悪など、ベリー味の粉末よりも現実味がない。


「そうよ、リュンヌちゃんみたいな綺麗な子が、そんな物騒なとこ行ったらお母さん泣いちゃうわ!」


おばちゃんの切実な剣幕に、リュンヌは胸の奥をチクリと刺された。


母はもういないが、その心配は温かい。


「……大丈夫。……私、……身の丈、……知ってる。……高望み、……しない」


苦笑いを浮かべ、薙刀の石突で地面を軽く叩く。彼女にとっての「戦い」は、魔王討伐という英雄譚ではない。


今日を生き抜くためのコスト管理と、もしかすると今も宿で眠る強欲な神官の平穏を守ることなのだ。


目的地である湿地に着くとリュンヌはナギナタをふるいスライムを引っ掛けてはヤブの向こうへポイポイする。


「ギャイン!」


想定外にもスライムを捨てた先に野犬が居たらしい。


「……ちっ、……想定外。……手間、……増えた」


リュンヌは短く舌打ちし、ナギナタを低く構え直した。研いだ青銅の刃が、湿地の重い空気の中で鈍い光を放つ。


藪の向こうから、低い唸り声と共に体にスライムの粘液がついた薄汚れた野犬が姿を現した。


スライムをぶつけられた怒りか、飢えゆえの凶暴さか。


血走った眼が、リュンヌの細い喉元を値踏みするように射抜く。


「……おばちゃん達、……下がって。……これ、……私、……仕事」


背後で怯える依頼人たちを片手で制し、リュンヌは地を蹴った。


一歩。泥を跳ね上げる予備動作すら最小限に。


「……早く、……終わらす」


無駄な殺生は避けたかったが、向かってくるなら話は別だ。


彼女は鋭い踏み込みと共にナギナタを下から直角に野犬の下から跳ね上げる。


しかし、野犬は素早く躱し、リュンヌに突っ込んで来た。


リュンヌは素早く右に移動しつつ跳ね上げたナギナタを今度はそのまま降り下ろす。


上手く野犬の鼻面をしたたかに打つことが出来た。


鼻面を強打された野犬が、悲鳴を上げて後退する。だが、リュンヌの表情に安堵はない。


「……ズレた。……漏れる?、……増大。……マズい」


急激な転換ステップの反動で、腰の布が不吉な滑りを見せた。


ルナの薬の効果で身体は軽いが、物理的な重ねた布の固定までは薬の効果も神の加護も及ばない。


「……おばちゃん達、……もっと、……離れて!」


一歩踏み込むたび、布の摩擦が焦燥を煽る。不快感と、万が一の「大惨事ロスト」への恐怖。


リュンヌは唇を噛み、薙刀をさらに低く構えた。


「……急ぐ、……凄く急ぐ。……一撃で、……決める」


漏れ出る不安を押し殺し、彼女は野犬の眉間へと、素早く石突を突き出した。


なんとか野犬を追い払うと、リュンヌはおばちゃん達に断って藪の中へ入る。


「……不覚。……洗濯……必要、……発生」


リュンヌは藪の陰で布を整え、汚れのついた太ももを忌々しげに睨んだ。


激しい動きでズレる布、漏れ出す不安、そして一度汚れたら落ちにくい麻の質感。

すべてが「低効率」だ。


「……使って……捨てる、……それか、……動いても、……ズレない、……何か」


おばちゃんたちが楽しげに薬草を引っこ抜く姿を眺めながら、リュンヌの脳内では無意識にルナに影響されての「コスト計算」が始まっていた。


「……布を重ねる、……限界。……もっと、……専用、……装備、……必要」


自作のナギナタを握り直し、彼女は決意する。

この不快感は、戦士としての集中力を削ぐ「見えない非効率」だ。


帰ったらあの強引かつ強欲で聡明な相棒に、この「生活の質(QOL)向上」の案件を突きつけてみよう。


「……ルナ、……カネ……匂い、……発明する、……はず」


湿地の風に吹かれながら、リュンヌは自分では気づかぬうちに、銀髪の少女の「知恵」を頼りにし始めていた。


おばちゃんの一人が湿地にある乾いた草のような物を拾っている。


リュンヌは思わず、「……おばちゃん……薬……違う。」と言う。


おばちゃんは、「これは水苔って言ってねえ。めちゃくちゃ水を吸うんだよ。」

とリュンヌに草の名を告げた。


「貴族様で花がお好きな人が、生花用に買ったりするらしいの。売りもんだよ。」


リュンヌは変わった物が売れるもんだと感心する。


「……水苔。……綿、……みたい。……不思議。」


リュンヌは興味深げに、そのカサカサした塊を指先で突いた。


ただの枯れ草にしか見えないものが、水を吸い、貴族の部屋を彩るための「商品」になる。


「……これ、……使える。……かも。」


ふと、自分の腰回りに意識が向く。布を重ねるだけでは、どうしても限界がある。


だが、もしこの驚異的な吸水力を持つ苔を、薄く、肌当たりの良い布で包んで固定できたら。


「ルナなら、……これを『付加価値』って、……呼ぶはず」


頭の中で、銀髪の相棒が貨幣を弾く音が聞こえた気がした。



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