捨てたはずの感情(非効率)
ルナは冷徹に言い放つと、うなだれる王と、それを支える王妃、そして怒り狂う王女たちを総括するように、冷たく宣言し始める。
「あたしは、感情なんてとうの昔に全て捨てて効率を取ったの……」
とルナが口にし始めた瞬間、バシィっとものすごい音がルナの頬からした。
「……え?」
頬に走った衝撃と、鼓膜を震わせる残響。
ルナは、何が起きたのか理解できず、赤く腫れ始めた頬を押さえながら数歩よろめいた。
視線の先には、肩を怒らせ、普段の優雅な微笑みをかなぐり捨てた副光主が、烈火の如き形相で立っている。
「バカおっしゃい! 効率? 捨てた? 笑わせないでちょうだい!」
副光主の叫びは、聖域であるはずの広間に、王の怒号よりも重く響き渡った。
「感情を捨てた人間が、たった一人の少女の『過去』を清算するために、これだけの芝居。」
怒りのあまり副光主の言葉は途切れがちになる。
「教団の光主を動かし、王家を敵に回し、命懸けの盤面を組み上げるなんて理屈に合わない真似をするもんですか! 」
肩で息をする副光主。
「効率だけを考えるなら、リュンヌさんをどこかに売り飛ばして、もっと賢く立ち回れたはずでしょう!?」
周りが、全員副光主の剣幕に圧倒されている。
正義感権力美少女の本領発揮である。
「それは……この子は私の大事な『資産』で、管理責任が……」
ルナは弱々しく答える。
「言い訳してなさい! その『大事』っていうのが、あなたの隠しきれない愛情なのよ!」
副光主は再びリュンヌを力一杯抱きしめ、子供のように声を上げて泣き出した。
「ふざけないで……。この子が、こんなにあなたのことを信じて、あなたの隣にいるのに……」
リュンヌはちょっと違うとは言いづらい雰囲気を察して黙った。
「自分を欠陥品みたいに言うなんて、リュンヌさんに対しても失礼だわ!」
「……ルナ」
リュンヌが、副光主の腕の中から、そっとルナの裾を掴んだ。
その瞳は、怒りでも悲しみでもなく、ただルナの嘘を透かして見るような、静かで温かい光を宿していた。
「……ルナ、嘘つき。……私、……ルナが、怒ってるの、……知ってる。……計算じゃなくて、……心が、……痛いって、……顔してる」
「……っ……」
ルナは反論しようと口を開き、そのまま言葉を飲み込んだ。
碧色の瞳が揺れ、冷徹な仮面の下から、かつて自分でも「不採算」として切り捨てたはずの、熱く、苦しい感情が溢れそうになる。
「……全く……どいつもこいつも、不合理なことばかり言って。……これじゃ、損害賠償の計算も、……まともにできないじゃない……」
ルナは赤くなった頬を隠すように顔を背けたが、その声はもはや震えを隠せていなかった。
光主は、その様子を沈黙の中で見守りながら、自らの胸元にあるルス教の紋章を、少しだけ強く握りしめた。
「市場は時に、論理を超えた、暴騰を見せるものだ。ルナ、お前の心という名の、隠し財産はどうやら、私でも、買い叩けそうにないな」
「……わかったわよ。もう、今日の収支計算はめちゃくちゃだわ」
ルナは赤く腫れた頬を片手で押さえ、不貞腐れたように視線を逸らした。
副光主の激昂と、リュンヌの静かな肯定。それらがルナの中にあった「冷徹な投資家」としての防壁を、跡形もなく粉砕してしまったのだ。
「いい、王様。これが私の最終提示よ。条件はたった一つ」
ルナは腫れた頬を庇うこともなく、真っ直ぐに王を見据えた。
その瞳には、もはや敵対的買収を仕掛けるような鋭さではなく、一つの「居場所」を守り抜こうとする、不器用で強烈な意志が宿っている。
「私とこの子が、一生、誰にも脅かされず、何不自由なく平凡に生きていけるだけの——天文学的な額の『慰謝料』を即刻、一括で支払いなさい。」
要求としては、やはり無茶苦茶とリュンヌは思った。
「これは、あなたがたが踏みにじったミツミ家の資産と、あの老人の知性、そして私たちが今日まで費やした精神的コストに対する正当な清算よ」
「……ルナ、……平凡、いい。……ルナと、……お茶飲んで、……ご飯、食べる。それだけで、いい」
リュンヌが、ルナの腕にそっと自分の腕を絡める。その温もりに、ルナは一瞬だけ表情を緩ませたが、すぐにまた「銭導士」の顔を作った。
「勘違いしないで。この『清算金』を受け取ったら、当分は市井のどこかで、この国がどうなっていくかを特等席で眺めておいてあげるわ。」
ルナは、まだ言い足りないとばかりに言葉を続けた。
「……王家がルス教の管理下でまともな経営に立ち返るのか、それともこのまま腐ってデフォルトするのか。」
王にもう一度言い聞かせる様に声を張り上げる。
「監視役としてのコストだと思いなさい」
ルナは光主にちらりと視線を送り、それからまだ涙目の副光主に背を向けた。
「光主様、あとの細かい『契約条項』の詰めは任せるわ。……私はもう疲れた。」
そして少し微笑んで言う。。
「これからリュンヌと、この城で一番高い茶葉を『没収』して、宿に帰るんだから。」
そして頬をさすりながら言う。
「……ひかさま、そんな顔で見ないで。……あんなに叩かれたんだから、慰謝料に『治療費』もきっちり上乗せさせてもらうからね!」
ルナは、まだ赤みの残る顔を隠すように歩き出した。
その足取りは、先ほどまでの「執行官」の重苦しさから解放され、どこか晴れやかで、そして誰よりも「人間らしい」リズムを刻んでいた。




