勇者、幻影に囚われる
「ツキ……? ほう、それがリュンヌの本名、あるいはかつてあなたが踏みにじった『資産』の呼称かしら。」
「王家が『所領なし』の貴族位を与えて隠蔽していた勇者様が、一人の東方の少女を見ただけで理性をデフォルト(不履行)させるとはね」
「……あ、……あ……」
男の喉が引きつる。その瞬間、リュンヌが一歩、前へ踏み出した。黒い一輪の花の彫りをあしらった柄が、石畳に長い影を落とす。
リュンヌが言う。
「……私……ツキじゃない……ミツミ リュンヌ……ツキ、お母さん、ミツミ ツキ。」
ルナは、隣で震えるリュンヌの手を、壊れ物を扱うように、けれどもしなやかな強さで握りしめた。
彼女の黄金色の瞳は、目の前の「勇者」と称される男を、もはや生物としてすら見ていない。
ルナは、男がかつて冒険者ギルドで呼ばれていた二つ名を、口にするのも汚らわしいと言わぬばかりに吐き捨てた。
「『暴虐の……』? ふん、下衆な二つ名。冒険者時代からそう呼ばれていた男を、王様は『勇者』という美辞麗句で上書きする。」
「そして不都合な貴族を「魔王」として『討伐』という名の不当な『強制収用』を行わせていたわけね」
ルナの声は、怒りを通り越して、絶対的な冷徹さへと至る。
「いい、勇者様? あなたが魔王を倒したという実績も、その煌びやかな鎧も、全ては国民という善良な投資家から奪い取った『横領品』」
ルナは断罪するように言う。
「そしてその横領を、王の認可という名の『公的なお墨付き』で正当化してきた……」
ルナは、青ざめて立ち尽くす男と、沈黙を貫くしかない王を、交互に冷酷な目で見据えた。
「これはもはや不祥事なんてレベルじゃないわ。王家による、国家規模の『資産洗浄』と、罪なき民への『信用破壊』」
「ねえ、光主様? この場にいる貴族の皆様、今すぐ自分の『勝ち馬』が、実はただの『破綻した偽造通貨』だったと認める勇気はあるかしら?」
リュンヌは、黒い花の鞘をその男へと突きつけた。
「……勇者。……私の……お母さんを、捨てた。お前もその名前、……今すぐ、……捨てて。」
少女の悲痛な、けれど濁りのない「請求」が、虚飾に満ちた貴族院の天井を震わせた。
「……あら、皆様。ご気分がよろしくないようですわね。ですが、これは私が捏造した物語ではありませんことよ」
ルナは意図的に声を一度高くして次の言葉を言った。
「これは、あなた方が『勇者』と崇めて投資し続けてきた男の、あまりに正確な『運用実績』ですのよ」
そして、ルナは手にした報告書を、まるで不渡り手形の山を整理するかのように、淡々と、しかし残酷なほど明瞭な声で読み上げ始めた。
仲間を後ろから斬り捨てて功績を独占した不祥事。
冒険者時代、逆らう女性を力でねじ伏せ、その未来を物理的に損壊させた暴行の数々。
そして、仲間だったリュンヌの母親を『魔王の協力者』という偽のラベルで断罪し、暴行し負傷を負わせ逃走した顛末の全貌。
一言、事実が積み上がるたびに、場内の温度が数度ずつ下がっていく。
王女たちが顔を覆い、嗚咽を漏らし吐き気を訴え始めた。
ルナが最初に自らが愛用する『聖女の祝福』の開発者として、女性の味方であるという強力なブランドイメージを確立させたからだ。
気づけば副光主がリュンヌの肩を抱きながらも、自分の方が泣き崩れている。
彼女たちの目には今、この勇者が「憧れの英雄」ではなく、自分たちの尊厳を脅かす「最悪の欠陥商品」として映っていた。
「いい、皆様? これを『穏便に』済ませるということは、この男の暴虐を王家が公認し、今後も同様の『損失』を出し続けると宣言すること」
ルナは努めて理性的に言葉を紡ぐ。
「それは国民に対する、国家規模の『背任行為』ではありませんこと?」
ルナの碧い瞳は、もはや獲物を逃さない猛禽類のそれだった。
「勇者様、なぜそんなに震えていらっしゃるの?
自分の犯してきた罪という名の『負債』が、複利で膨れ上がって自分を押し潰そうとしている。」
ルナはわざとらしく勇者に声をかける。
「その恐怖を、今ようやく実体として感じていらっしゃるのかしら?」
貴族たちの間には、もはや勝ち馬に乗る熱狂など微塵も残っていない。
ルナが作り出したのは、この男を庇うことがそのまま「自分たちの家庭と社会的格付けの破滅」に直結するという、逃げ場のない包囲網だ。




