小さな黒い一輪の花
そんなリュンヌの全身が、冬の湖に放り込まれたかのように硬直した。
喧騒が遠のき、視界の全てがその一点に吸い寄せられる。天幕の奥、ひときわ異質な気配を放つ一振りがそこにあった。
「……うそ。……なんで、ここに……」
目の覚めるような朱塗りの柄。指先で触れずとも伝わる、滑らかでいて吸い付くような漆の質感。
そして石突の手前には、ひっそりと、しかし確かな存在感で刻まれた「黒い一輪の花」の彫刻。
何より、その刃だ。
波打つような、あるいは何かの蠢きを封じ込めたような不思議な形の刃紋。
独特の反りを持つその形状は、この街の武器屋が束になっても再現不可能な、至高の鍛造技術の結晶。
「……間違いない。……これ、……あの……」
紛れもなく、彼女の記憶の奥底に、消えない傷跡のように刻まれていた「それ」が、今、目の前に現実の質量を持って鎮座していた。
リュンヌは呼吸を忘れたまま、震える指先をその朱色の柄へと伸ばしかけ、途中で止めた。
それは、彼女の過去という名の「負債」か、あるいは失われた「資産」か。
「……見覚えが、……あるんですか。お嬢さん」
背後からかけられた行商人の低い声に、リュンヌの肩が小さく跳ねた。
「これはね。噂では勇者とともに戦い、どこかへその後旅立ったと言う女性冒険者の武器だと聞いています。おそらく東方の民の武器とか……」
行商人は、自慢の逸品を披露するように声を潜めて語った。
その言葉のひとつひとつが、リュンヌの心拍数を跳ね上げる重いコストとなって積み重なっていく。
「おや? お嬢さんも黒髪にその自作の武器って……この持ち主だったと聞く方の姿と通じる点が多いですねえ」
行商人の探るような視線が、リュンヌの背負った得物と、彼女自身の立ち姿を交互に捉えた。
その「市場評価」の重さに、リュンヌは指先が冷たくなるのを感じた。
「……勇者。……旅立った、人。……似てる……だけ。……私、……ただの、……冒険者。」
リュンヌは必死に声を絞り出し、感情の流出を食い止める。
だが、目の前の朱塗りの柄と、石突に咲く黒い一輪の花は、彼女の過去との共通点を雄弁に物語っていた。
「……これ、……売り物……? ……値段、……いくら。」
震える声で尋ねたその問いは、単なる好奇心ではない。
かつての自分の生活の一部が、どのような価値を付けられ、どのような場所へ流れ着こうとしているのか。
それを確かめずにはいられなかった。
「そうですね。申し訳ないのですが金貨20枚は譲れませんね。」
商人は、おそらくリュンヌの様子に何かを察しているのだろう伏し目がちに言った。
「金貨20枚……。……胸が、……苦しい。」
提示された対価に、リュンヌは心臓を掴まれたような衝撃を受けた。
金貨20枚。普通の冒険者が一生をかけて積み上げる、莫大な金額だ。
けれど、ルナなら。あの銀髪の相棒なら、投資のリターンだと言ってあっさりと決済してしまう額だということも知っている。
「聖女の祝福」の管理を丸投げしている自分にも、それだけの権利は蓄積されているはずだ。
「……これ……欲しいって人……いる?」
リュンヌはおずおずと、しかし祈るような心持ちで尋ねた。
「いや、なかなかいませんよ。使い方も分かりにくいですし、何よりこの独特な形状ですからねえ。市場価値としては狭すぎます」
行商人の言葉に、リュンヌの中で何かが決壊した。感情の奔流が、普段のたどたどしい言語化を飲み込んで溢れ出す。
「すぐ戻る! お金、ある! 置いといて! 絶対に、買う! 私が、買うから……!」
必死の形相で詰め寄るリュンヌの迫力に、行商人は思わず後ずさった。
「……これ、……私の。……誰にも、……渡さない。……絶対に」
かつての自分の生活の一部を買い戻す。その強烈な執着が、冷静な判断というコストを焼き尽くし、彼女を宿へと走らせた。
宿の階段を、心臓の鼓動が耳元で鳴り響くほどの勢いで駆け上がる。
バァン!
「なによ、どうしたのよ。……今、大事な収支シミュレーションの最中……」
驚いて顔を上げたルナの言葉を遮るように、リュンヌは肩で息をしながら、食らいつくような勢いで詰め寄った。
「……ルナ! ……お金、……金貨20枚! ……私、……持ってる? ……私の分、……ある!?」
普段の寡黙な彼女からは想像もつかない、必死で、どこか切羽詰まった叫び。
「……金貨20枚? 急にどうしたのよ。投資にでも手を出したわけ?」
ルナは銀髪をかき上げ、動揺を隠すように冷徹な投資家の目つきに戻る。
だが、リュンヌの瞳に宿る、過去を買い戻そうとする執念の炎を見て、即座にその「重み」を察知した。
「……あるわよ。あなたの『聖女の祝福』の配当、私がガチガチの安全資産で運用してたんだから。」
ルナは銭ゲバとして誇りを見せる。
「金貨20枚くらい、あなたの『即時決済』で十分落ちるわ」
ルナは手元の帳簿を開き、リュンヌの現在の資産残高を表示させる。
「で、何を買うつもり? その額、この街の物価なら家が一軒建つレベルのコストよ」
「母さんの、……薙刀。……行商人、……持ってる。……買い戻したい。……お願い。……こすととか、……りたーんとか……言わず、出して」
リュンヌの声は震えていた。
普段、ルナの「効率」や「収益」という言葉に黙って従ってきた彼女。
その彼女が、初めてその全財産を投げ打ってでも「過去」という非論理的な資産を求めていた




