不発……
勘定方の女性は、感情を殺した一礼とともに執務室を辞した。
扉が閉まる音を合図に、ギルドマスターは手近なベルを鳴らし、二人の男性若手職員を呼びつける。
「いいか、次にあの銀髪とナギナタ娘が何か持って来ても、まともに相手をするな。適当に『検討いたします』とだけ言い、私は不在だと伝えろ」
彼は背もたれに深く沈み込み、面倒な仕事を放り出した充足感に浸る。
「……はい、承知いたしました。……ですが、もし強引に食い下がられた場合は?」
若手職員が顔を見合わせ、不安げに問い返す。マスターは鼻で笑い、無造作に手を振った。
「居ないものは居ないのだ。死ぬ気で門前払いしろ。いいか、これ以上私の貴重なリソース(時間)を、ガキの空論に割かせるんじゃないぞ」
そして思い直したように付け加える。
「……そうだ、事務方の女共もよく見ておけ。もし妙なことを口走るようであれば、即座に私に報告しろ」
ギルドマスターは、去っていった勘定方の女性に不信の眼差しを向けながら、声を潜めて命じた。
組織の綻びは、常にこうした足元から始まることを彼は経験則で知っている。
一番若手の男性職員が、困惑気味に手元のメモを見返した。
「……承知いたしました。では、本日の件、あの二人への正式な回答はいかがいたしましょうか」
「ふん、決まっているだろう」
マスターは鼻を鳴らし、投げやりな手つきで空を仰いだ。
「『前例がなく、既に引退した功労者たちへの敬意を欠く暴挙である。よって再考を願いたい』――そう伝えておけ」
「引退者」という持ち出しやすい聖域を盾にする。
これこそが、変化を拒むための最もコストの低い防壁だ。
彼は満足げに半笑いを浮かべ、厄介な案件を思考の隅へと追いやった。
二日後、ギルドの受付カウンター。
ルナの銀髪が揺れるのを認めた瞬間、若手職員はあからさまに視線を泳がせ、準備していた台詞を吐き出した。
「……あ、本日はギルドマスターは外出しております。お二方へのお返事なら、私が言付かっておりますが」
「あら、ご多忙ですこと。して、どのようなご回答かしら?」
ルナが小首を傾げると、職員は丸暗記した内容をなぞるように、硬い声で告げた。
「……はい。『前例がなく、既に引退された功労者の方々への敬意を欠く内容につき、再考願いたい』とのことです」
ギルドマスターの指示を忠実に守った、血の通わない拒絶のテンプレート。
職員の額には、隠しきれない脂汗が浮かんでいた。
「わざわざご苦労様です。再考して、また参りますわ」
ルナは一切の動揺を見せず、むしろ清々しいほどの微笑みを残して背を向けた。
その徹底した「顧客対応」のような振る舞いが、かえって受付周辺に漂う重苦しい沈黙を際立たせる。
二人が去ってから数分後。嵐が過ぎ去ったと判断したのか、ギルドマスターが鼻歌混じりに執務室から顔を出した。
「ふん、ようやく消えたか。若いうちからあんな理屈をこねおって……」
「……なんで居るのに嘘つくんですかぁ?」
不意に投げかけられたのは、一番年下の受付嬢からの、隠しきれない軽蔑が混じった声だった。
彼女は頬を膨らませ、手元の台帳を叩きつけるように閉じる。
「神官さまは、私達の将来のことを真剣に考えてくれてるのにぃ! マスター、さっきからずっと奥でニヤニヤしてたの、丸見えですからねっ」
若手ゆえの遠慮のない糾弾に、ギルドマスターの顔から余裕の笑みが剥がれ落ちる。
背後では、勘定方の女性が無言でペンを走らせる音だけが、冷徹な秒読みのように響いている。
「新米だから甘い顔をしていたが……」
ギルドマスターはここは自分が〆るべきタイミングと取ったようだ。
「……いいか、このギルドを運営しているのは私だ。不満があるなら即刻辞めてもらう。」
いきなりの解雇宣言だ。更に警告を付け加える。
「そのうえでだ、二度と受付嬢として働く道はどこにもないと思え」
ギルドマスターの低く、湿り気を帯びた声がホールに響く。
いつもの温厚な仮面を脱ぎ捨て、露骨な権力を背景にした恫喝。
その豹変ぶりに、年下の受付嬢は息を飲み、もう一人の受付嬢と勘定方の女性も指先を震わせた。
ルナが精巧に組み上げた「権利」という名の希望が、独裁者の冷徹な一言で一瞬にして凍りつく。
「……わ、分かりました……。すみません、マスター」
若手が震える声で謝罪を口にすると、ギルドの女性達を包んでいた反抗の熱は、霧散するように消えていった。
無論、男性職員は無関心だ。
ルナが撒いた変革の種火は、マスターが踏みにじった「現状維持」という名の冷たい土に埋もれ、ギルドには重苦しい沈黙だけが残っていた。




