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毒という名の希望

バタン、と重厚な扉が閉まり、ルナとリュンヌの足音が廊下に遠のいていく。


入れ替わるように、一人の女性が執務室に入ってきた。


ギルドの金銭管理を預かる、実務に長けたベテランの職員だ。


ギルドマスターは、先ほどまでルナが熱弁を振るい、広げていた資料を、まるで机の上のゴミでも払うかのような無造作な動作で押しやった。


「……あ、これ。済んだら処分しておいてくれ」


「はい。……これは、先ほどの名誉会員の方の資料ですか?」


「ああ。ただのくだらない落書きだ」


ギルドマスターは、鼻で笑いながら背もたれに体を預けた。


彼にとって、ルナが持ってきた「改革案」。


それは、酔っ払った冒険者の「酒を安くしろ」という喚き声や、近隣住民からの「冒険者が騒がしい」という苦情と、何ら変わりはなかった。


ギルドという巨大な組織の支部を維持する彼にとって、重要なのは「波風を立てないこと」と「前例を守ること」だけだ。


「どいつもこいつも、自分の都合ばかりを『要望』という名の包み紙で持ってくる。」


もう飽き飽きしたという態度だ。


「あの小娘も、結局は他の連中と同じだよ。適当にあしらっておけばいい」


「検討」という文字は、彼にとって「却下」を丁寧に言い換えただけの、ただの記号に過ぎない。


ルナがどれほど精緻なグラフや数字を並べようとも、彼がそれらを「意味のある情報」として読み解くことはなかった。


「前例がない、と言えば引き下がると思ったのだがね。まあ、名誉会員の顔を立てて『検討』とは書いてやったが……。」


ギルドマスターのボヤきは続く。


「まったく、年長者の貴重な時間を奪うのは感心せんな」


彼は次の「本当の仕事」である予算書類に目を向け、ルナの存在を脳内から消去した。


だが、命じられた通りに資料をまとめ始めた勘定方の女性の手が、一瞬だけ止まる。


ギルドマスターが「落書き」と切り捨てたその紙束の端に、自分たち事務方の『待遇改善』と『産休』という、見たこともない文字がある。


それは、喉から手が出るほど欲しい言葉であることに、聡明な彼女は気づいてしまったのだ。


ギルドマスターの背後で、ルナが仕掛けた「毒」が、ゴミ箱に捨てられる寸前で静かに、けれど確実に、内部の者の心に染み込んでいった。


勘定方の女性は、ギルドマスターの目の前で恭しく資料をまとめると、ゴミ箱へ向かうふりをしてそのまま自席へと持ち帰った。


引き出しの奥、誰にも見つからない場所にそれを滑り込ませる。


(……『産休』。……『期間限定雇用』……)


ルナが書き連ねた、この世界には存在しないはずの単語が、彼女の胸の中で熱を帯びていた。


彼女は席に戻る際、二人の受付嬢と一瞬だけ視線を合わせた。そして、短く、けれど決意に満ちた声で告げる。


「今日の仕事が終わったら、見せたいものがあるわ。……今の私たちの『絶望』を変えるかもしれないものをね」


受付嬢たちは驚いたように顔を見合わせたが、勘定方の女性のただならぬ気迫に、黙って頷いた。


そこからの事務室の空気は、これまでとは一変した。


勘定方の女性は、羽ペンが折れんばかりの勢いで帳簿を埋めていく。


いつもなら挟まれるちょっとした私語も、お茶の時間も一切ない。


ただ、書類をめくる音と、計算を行う鋭い音だけが室内に響き渡る。


「ほう、今日はえらく気合が入っているじゃないか。私の訓示が効いたかな?」


その様子を、ギルドマスターは上機嫌で眺めていた。


自分が「落書き」と切り捨てたあの紙束が、彼女たちの労働意欲モティベーションをここまで爆発させている。


そんな事とは露ほども思わず、彼は鼻歌まじりに自分のパイプに火をつけた。


「よろしい。事務方がそれだけ効率的に動いてくれれば、ギルドの利益も上がるというものだ。ガハハ!」


呑気に笑うギルドマスターの背後で、女性たちのペン先はさらに加速する。


それは「忠誠心」などではない。


ルナが撒いた「毒」という名の希望を、一刻も早く共有するための、執念の「タイパ(タイムパフォーマンス)」だった。

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