リュンヌ、おばちゃんに真実を教わる
「……なんで……赤ちゃん……欲しくもない……そんな事……するかな?」
リュンヌは、自分の耳まで熱くなるのを感じながら、消え入りそうな声で絞り出した。
すると、おばちゃんはニヤリと深いシワを刻んで身を乗り出してきた。
「ああ、誰かに相談でもされたかねぇ。リュンヌちゃんは綺麗だから、それこそ気をつけんと危ないよ?」
「……私……違う。私じゃない……」
必死に首を振って否定するが、おばちゃんの耳には届いていない。
彼女の脳内では、すでにリュンヌをヒロインに据えた三流恋愛小説が書き換えられ始めていた。
「誰に言い寄られてるさね? もしかして、あの噂の勇者様みたいな人かい? ギルドの若手の有望株かい?」
「……違う……」
「勇者様なら、私だって一晩くらい夢見心地になりそうさねぇ! 英雄の種を授かるなんて、女冥利に尽きるじゃないさ!」
おばちゃんは頬を染め、あらぬ方向を見つめて妄想モードに突入している。
「…………あ、この人……ダメな人……」
リュンヌの心は、急速に氷点下まで冷え込んだ。
切実な先輩の悩みも、新しい命への戸惑いも、この「人生の大先輩」にとってはただの刺激的なゴシップの種でしかない。
そんなリュンヌを他所におばちゃんは暴走している。
「そりゃあもう、勇者様が相手なら、一晩で何度もお天道様……いや、天国が見られそうさねぇ!」
おばちゃんはもはや自分の世界に入り込み、あらぬ空を見上げて鼻息を荒くしている。
その卑俗で、それでいてあまりに剥き出しな言葉の暴力が、純真なリュンヌの脳内に強烈な化学反応を引き起こした。
(……天国……)
子供を産み育ててきた「人生のベテラン」が、恍惚とした表情で語るその単語。
リュンヌは、それが単なる比喩ではないと悟った。
赤ちゃんができるまでの「過程」に付随する、抗いがたい快楽の別名であることを、この瞬間、最悪の形で理解してしまったのだ。
(……そうか……先輩も……あの時……天国を……)
その光景を想像しただけで、リュンヌの顔は沸騰したヤカンのように赤く染まり、耳たぶまで熱を帯びる。
「リスク」や「不注意」という理屈の裏側に隠されていた、生々しい人間の本能。
「……っ、もういい! おばちゃん……バカ!」
リュンヌはたまらず叫ぶと、妄想に耽るおばちゃんを置き去りにして全力で走り出した。
頭の中では、泣きじゃくる先輩の顔と、おばちゃんが言った「天国」という言葉が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って回転している。
(……ダメ……私一人じゃ……処理……無理……!)
このドロドロとした人間の業を、冷徹な数字と効率でバッサリと切り捨て、なおかつ「救済」という名の商売に昇華できる唯一の存在。
リュンヌは、心臓の鼓動を鎮めるように自分の頬を両手で押さえながら、ルナの元へと帰る。
「嫌なのに無理矢理には、気をつけるんだよ……!」
おばちゃんの声が、背中に突き刺さるように追いかけてきた。
さっきまでの下世話な冷やかしとは打って変わった、低く、湿り気を帯びた真面目な声。
走り出していたリュンヌの足が、地面を削るようにピタッと止まった。
(……嫌なのに……無理矢理……)
心臓の鼓動が、ドクンと大きく跳ねる。
頭に浮かんでいた「天国」という不埒な言葉が、一瞬で氷のように冷えて消え去った。
先輩は「いっときの盛り上がり」と言った。
けれど、もしそれが、彼女が望んだ「盛り上がり」ではなかったとしたら?
もし、断れない空気や、抗えない力に押し切られた結果だとしたら?
「……おばちゃん……」
リュンヌは振り返る勇気が出なかった。
冒険者ギルドという、実力と荒事が支配する世界。
そこで「女の冒険者」として生きていくことの、本当の険しさが、おばちゃんの短い一言に凝縮されていた。
(……仕事……奪われたくない……って、言ってた……)
それは、単に自業自得で仕事を失いたくないという悩みではなく、理不尽な理由で人生を壊されたくないという、魂の叫びだったのかもしれない。
「……ルナ……」
リュンヌは今度こそ、迷いなく駆け出した。
もう顔を赤らめている暇なんてない。
これは「タイパ」や「投資」なんて言葉で片付けていい問題じゃない。
あの銭ゲバ神官に、この現実を叩きつけなければならない。
彼女が作った「受け皿」が、本当の意味で救うべきなのは、こういう「声にならない叫び」を上げている人たちなのだから。




