生活の音、新しい風
「……先生、丸投げ。……ルナ、賢い。……あの化け物、……自分で選ばす、……死人、出ない方、……選ぶ」
リュンヌは背後の喧騒を突き放すように、ルナの歩調に合わせた。
振り返れば、三つの「死地」を巡ってスラムの空気がより一層、鋭く尖っていくのがわかる。
「……でも、……朝三つ目。遅刻、……即、終わり。……名前、……書けない、終わり。……試練、……もう、始まってる」
路地の泥を踏みしめながら、リュンヌは隣を歩く銀髪の少女を横目で見た。
希望と絶望を同時にバラ撒き、それを「祝福」と呼んで微笑む相棒。
その計算高さに呆れつつも、自分たちが作り出した嵐の予感に、彼女の心臓は静かに高鳴っていた。
「書類は明日は求めていないわよ。リュンヌ。ちゃんと書けるようになれって意味。私はそこまでサメじゃなくてサディストじゃないわよ」
ルナは心外だと言う顔をする。
「……サメ。……サディスト。……さでぃすとわからない?……こわい感じ」
リュンヌは歩調を緩めず、隣を歩く銀髪の横顔をじろりと睨んだ。
明日までに名前を自筆で書け、という無理難題ではなかったことに安堵しつつも、突きつけられた「自立」へのハードルの高さは変わらない。
「……書けないと、だめ。……知らないは、だめ。……ルナの優しさ、クソマズ粉末。……でも、効く」
自分の名前を刻む。それはスラムの住人にとって、ただの文字以上の意味を持つ。
誇りと責任。ルナの狙いはそこにあるのだと、リュンヌは溜息混じりに納得した。
「……明日、荒れる。……あのおじいちゃん。……誰、選ぶ? ……楽しみ半分、……不安、半分」
夕暮れに染まり始めた街並みを背に、二人の影が長く伸びる。
ルナの容赦ない「教育」が、静かに、だが確実にスラムの少年たちの運命を書き換えようとしていた。
数日後、託児所のあの堆肥製造場所は埋められ、託児所の庭は広くなっていた。
そこから割と離れた場所にロバ小屋と荷車があった。
そしてロバを気遣ったのか小屋から少し離れた場所に掘られた屋根の付いた一つの穴に託児所から持ってきた堆肥が移されていた。
男たちは今は、ロバ小屋の横に自分たちの休憩所とするための粗末な小屋を一生懸命に立てている。
「……臭い、ない。……場所決め、ルナの、……計算通り。」
リュンヌは鼻をひくつかせ、新設されたロバ小屋と堆肥穴を眺めた。
託児所の庭は広がり、子供たちの歓声が以前より遠くに響く。男たちは自分たちの居場所を確保しようと、不器用な手つきで資材を組み上げていた。
「……必死。……人の場所、……あるだけ、マシ。……ロバ、……一番、豪華」
人間よりも家畜であるロバの環境が優先されている事実に、リュンヌは苦笑する。
だが、その優先順位こそが「仕事」としての責任の証だ。
「……泥まみれ。……汗、すごい。……でも、……目、死んでない。……自分の、……場所、作ってる顔」
粗末な建てかけの小屋。けれどそれは、彼らが自らの手で掴み取った「居場所」だった。
ルナの冷徹な采配が、スラムの澱んだ空気から出て来た男達に、確かな生活の音を刻みさせ始めている。
「そのうちこの近くに住むって言い出すかも。」
とルナは笑いつつ踵を返し、人材育成紹介所へ向かう。
おじいちゃん、おばあちゃんたちの声が響いてくる。
商売の組が一番苦戦しているようだが、教えているおじいちゃんは、数字の『1』から根気よく何度も教えているようだ。
「……数字。……一番、難しい。……でも、逃げられない」
リュンヌは、眉間に皺を寄せて計算板と格闘する少年たちの背中を見守った。
商売の組を教える老人は、かつて数多の取引をくぐり抜けてきた男だろう。
その声は穏やかだが、1の位の狂いすら許さない商人の厳格さが滲んでいる。
「……おじいちゃん、根気ある。……子供たち、……熱、出そう。……でも、……これ、命と同じ」
ただの丸暗記ではない。文字と数字を刻み込むことは、搾取される側から抜け出すための唯一の武器だ。
ルナはそれを見越し、根気強さの化身のような老人を配した。
「……ルナ、……また笑ってる。楽しそう。……守銭奴の親分、見てるみたい。……でも、……あの子たち、……必死に、喰らいついてる」
建物の外まで漏れ聞こえる老若の声。それは、停滞していたスラムに抜け出すための、新しい風が吹き込み、歯車を力強く回し始めた音だった。




