第五章 透子の未明
午前二時四十七分。振り向くと母がいた。
寝間着の上に裏返しの毛糸のカーディガン。後ろ髪が跳ねているのが分かる。片手で廊下の手すりを握りしめて、もう片方の手を胸の前でぎゅっと結んでいる。
「宮坂さん」
母の頬が常夜灯の色よりも赤く見えた。
私はトイレの戸の前に立っている。あと一歩だった。ドアノブはもう手の中にあった。
視線を落とすと、母の足が小刻みに足踏みしているのが見える。分かった。母も同じだ。
でもトイレはこの家にひとつしかない。
いつものことだ、と思った。
私が待てばいい。待つのは得意だ。数えるのも得意だ。母を先に入れて、戸を開けたまま、廊下で二十数えればいい。それでいつも、なんとかなってきたのだから。
妙に冷静になって、自分の体の感覚と心が切り離されたような心地になって、それから私は恭しくドアノブを回して、戸を大きく開けた。
「お先にどうぞ」
寝起きで初めて発声したせいか、自分の声が思ったより低く掠れた。
母は動かなかった。
手すりを握ったまま、私を見ていた。時計ではなかった。私の手首や、シャツでもなかった。母が私の顔をじっと見つめている。
足元から僅かに照らされる常夜灯で浮かび上がる、母の顔。
目の奥の靄がすっと引いていくのが分かった。
「あんた昔から我慢する子だったねえ」
徐にこちらに近づいて、母の手が私の背を押した。
老女の手とは思えない力だった。私はよろけて便座の前に立たされたと思うと、後ろで扉が閉まったのが分かった。
扉が、閉まった。
言葉が出てこなかった。膝の力が抜けて、肩が落ちた。
長い息が体の底から勝手に出ていったような感覚だった。
戸の向こうで、手すりが小さく軋む音がした。
笑いが喉の奥から迫り上がってきた。止めようとして止まらなかった。
無様にもズボンごとパンツをずり下ろして便座に座り込む。
戸を閉めたトイレの中で、何も数えずにただ笑っていた。
戸の向こうで、母も笑い出した。
母が何がおかしいのか私は知らないし、私がどうしておかしいのか母は知らない。私だって、正確に説明することはできない。
「宮坂さん、早くしてくださいな」
母の声がする。さっき久しぶりに聞いた母の声音とは違う、いつも聞いている頭の中だけ十七歳の母の喋り方だった。
「待つのにだって、限りがありますのよ」
私は用を済ませて、トイレットペーパーで涙も拭ってから、立ち上がった。
戸を開けると、母が何かを差し出してきた。
見ればそれは、銀色の空き缶だった。
「落とし物です」
私の手にそれをぎゅっと握らせて、母は私の脇をすり抜けて、トイレに入り、戸をきちんと閉めた。
廊下の壁にもたれて、私は空き缶を握ったまま、また笑った。
今夜は何も数えなくていいや。




