第四章 走る文子
琥珀色の灯りが、戸の隙間から細く差していた。
遠くで、床がきしむ音がした。
目が覚めて、体の奥からちくちくと何か急かすような感覚がしたような気がする。
今、何時だろう。部屋も窓の外も真っ暗だった。だけれど、急がなければいけないと思う。宮坂さんが待っているのだから。
約束していた映画の、最終回の上映がそろそろ始まってしまうんじゃないかしら。
ずっと待っているのに宮坂さんが来てくれない。一緒に映画を観ましょうって約束したじゃない。
布団から出る。温められた布団の中とその外とで、ずいぶん差があって、ぶるりと体が震える。足が冷たいわ。
お布団から出たのだから当たり前だけれど、わたしは寝間着姿。このままじゃ映画に行けない。
僅かな灯りで見回してみても、ブラウスがない。真珠のブローチもない。次はあの赤いスカートを履こうって思っていたのに、それもない。着古したような毛糸のカーディガンがかけてあったから、寝間着だけよりはマシかと思って、それを借りて羽織ることにした。袖に腕を通す。
ああ、それに、お手洗いにも行きたいわ。早く向かわなくちゃならないのに。
漏れ入ってくる光に手を差し入れて、戸を開ける。
廊下があって、ずっと奥まで続いているみたい。床すれすれのところに琥珀色の灯りがぽつりぽつりと続いている。映画館の客席の足元の灯りみたいだわ。映画の本編が始まる前、暗くなった通路をあの灯りを頼りに歩いたことを思い出す。宮坂さんがいつも先に立ってくれていて、わたしの手を取って、振り返って足元に気をつけてと言ってくれたのが本当に頼もしかったの。この人となら一生添い遂げたっていいってその時思ったの。
壁に細い手すりがある。暗い中を一人で歩くのが恐ろしくて、それをぎゅっと握った。冷たくて、つるつるしていて、映画館の階段の手すりもこんな風だったわ。
走らなきゃ。
一歩。手すりを握り直して、もう一歩。膝が軋む。おかしいな、わたしの脚はこんなに重かっただろうか。でも行かなくちゃ。間に合わないと、宮坂さんにも会えない。会いたい。どうして会えないの。
宮坂さんが手を取ってくれていたみたいに、手すりを頼りに足を進める。手すりがあれば、わたしは走ることだって出来るわ。
足先に何かが当たった。
小さな銀色の筒だった。拾ってみると軽くて、少し冷たい。底の方でかすかに水の音がした。何に使うものか分からない。もしかしたら宮坂さんの落とし物かしら。
そうだったらお届けしなくっちゃ。わたしはそれをカーディガンのポケットに入れた。
一生懸命足を進める。廊下の先に誰かが立っているのが見えた。
背の高い、肩の線がまっすぐで、白いシャツを着ている。こちらに背を向けて、どこかの戸の前で壁に片手をついて、じっと動かないでいるみたい。
手首に小さな光が緑色に灯っていた。あれは宮坂さんの時計だ。暗いところで針が光るんだよと嬉しそうに見せてくれた。まるで蛍みたいで綺麗ねって答えたのを覚えている。
宮坂さんが待っていてくれた。
顔が熱くなる。寝間着だし、カーディガンには毛玉だって出来ている。髪の毛、ちゃんと出来ていたかしら。そんな格好でお会いするなんて恥ずかしい。母に知れたら、叱られてしまう。なんて言われるだろう。女の子は、見えないところこそ。見えているところだって尚更。
それにお手洗い。
お手洗いにも行きたいの、とても。
この焦るような気持ちは、宮坂さんがいると分かったからかしら。そうじゃないのかしら。よくわからない。
宮坂さんが立っているところの、あの戸。もしかして。
わたしは手すりを握りしめた。宮坂さんに会って、開口一番にお手洗いどちらかしらなんて聞けるはずもない。女の子は、乙女は我慢強くなくては。
わたしは我慢強いの。だから、三つ数えて、それから。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
「宮坂さん」
そう声を絞り出したら、背の高い人がゆっくりと振り向いた。




