第三章 透子の夜更け
午後六時半。夕食は鰈の煮付けにした。母は箸を持ったまま、ときどき窓の外を見る。外はもう暗くて、ガラスには食卓と母と私が映っているだけだ。
「宮坂さんは」と母が言う。
「今日は来られないそうです。お仕事が長引いたって」と嘘をつく。訂正するよりずっと簡単なことだった。
母はしばらく黙って、それから胸元のブローチを外して、湯呑みの横に置いた。
「そう」
そう答えて、鰈の骨を一本ずつ丁寧に皿の端に並べた。
午後九時二十分。母はようやく藤色のブラウスを脱いだ。お風呂は明日にしましょう、と言うと素直に頷く。母は今日は一日中、来ることのない人を待っていて、もう疲れていた。
ブラウスを洗濯籠へ、ブローチはいつもの小箱へ戻す。蓋の裏には色褪せたインク字で日付だけが書いてある。父の字だと思うが、母に聞いたことはない。何か思い出があるのかもしれないが、それは私が生まれる前の二人のエピソードだ。
午後十一時八分。小さな家事を済ませながら、母の寝室の戸の向こうから物音が止むのを待つ。しばらくして、寝返り、布団が擦れる音。小さな咳をしてから、長い息の音。
頭の中で数を数える。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。もう一度、十まで数える。
足音を立てないようにして台所へ行って、冷蔵庫を開けた。奥の方に一本仕舞い込んだ缶ビールがある。週に一本と決めている、それ以上買うと際限がなくなりそうだから。
廊下に戻って、母の部屋の前の壁にもたれて座り込んだ。ここから戸が開いたり、何かあったらすぐに分かる。
プルタブを起こす音が思ったより大きく響いた。戸の向こうの様子を窺ったが、起きたような様子はない。そのまま一口、飲み下せば何かが滑り落ちていくような気がしてくる。
手首の時計を見て思う。お父さん、今日もなんとか終わったよ。そう心の中で言って缶を軽く持ち上げた。乾杯の相手は文字盤くらいしかいない。
飲み終えたらトイレに行こう。今夜は戸を閉めようか、と思う。母は眠っているし、三分でも五分でも、戸を閉めたその内側で誰の気配も聞かずに座っていたい。
それは私にとってはしばらく味わっていない贅沢だ。
缶の残りを揺らして、残量を測る。常夜灯が昼間には目につく壁の染みを薄めてくれているように見えた。手すりが通行止めのバーみたいに横に広がって通せんぼしてくる。あと一口、と思ったところまでは覚えている。
午前二時四十一分。ぱちりと自分の目が開いて、腕時計の上で夜光の針が斜めに横切っているのが見えた。
夢を見たような気がするけれど、よく覚えていない。廊下の床板の冷たさが横たわっていた自分の体の全部に伝わる。夜間も真っ暗にならないようにと設置した足元灯の灯りで、空き缶の転がるのが淡く照らされていた。
ゆっくりと壁に手をついて、母のために設置した手すりを使って立ち上がり、膝を伸ばす。立ち上がるという動作がこれほど気を使うものだとは知らなかった。自分の体が水風船のように感じた。廊下が長くも見える。実際、母の部屋から家のトイレまでは決して近い距離とは言えなかった。
トイレに行きたい。ああくそ。目が覚めた時点で限界が近いなんて、こんな風な目に遭うのは子どもの時以来かもしれない。頭の中で流れる電柱が浮かぶ。
慎重に且つ迅速に、辿り着かなければならない。大丈夫、下を向いて足元灯を数えていればそちらに意識がいって耐えられるはずだ。
私は一歩、右足を前に出した。
午前二時四十三分。
一歩目。
足裏に伝わる床板が冷たい。
靴下の裏から冷たさが脚を這い上がってくる。それだけで、下腹が身構える。
二歩目。
何かを蹴って、ちらと見ると空き缶だった。からからと乾いた音を立てて廊下を転がる。拾う余裕はない。いま腰を屈めたら明らかにまずい。
五歩目。
息を止める。止めると楽になる気がするが、気がするだけだ。
十歩目。
ここの床板は鳴る。鳴ると分かっていた。分かっていて踏んだ。それが進行方向にあるのだから仕方がないだろう。ぎいと長い音が寝静まった家の端から端まで響いたような気がする。
十四歩目。
波が来る。私は壁に手をついて止まった。
目を閉じて、波が引くのを待つ。時計の秒針の音がやけにはっきりと聞こえる気がする。手首は耳から遠いのに。焦らせるように錯覚させられる。
十五歩目。
走りたい。走れない。走れば体が揺れる、おそらく終わる。私は爪先立ちで、膝から下だけを動かした。舞台の上で、こんな歩き方をする役を見たことがあるが、もっと優雅だった。
二十歩目。
手を伸ばす。ドアノブまで、もう少しだけ足りない。
二十一歩目。
ドアノブが、手のひらに収まった。冷たくて、丸くて、こんなに頼もしいものを握ったことはない。
また波が来た。私はドアノブを握ったまま、壁に片手をついて動けなくなった。
背中の方で、手すりが小さく軋んだ。
午前二時四十七分。




