第二章 夢見る文子
霜の匂いがする。
鼻の奥がつんとして、わたしは目を覚ます。障子の白さで、今日がよく晴れていると分かった。
今日は宮坂さんと映画を観る日だ。
藤色のブラウスを出す。真珠のブローチを留める。鏡の前で髪を梳かすけれど、後ろだけがどうしても言うことを聞かない。母に見られたら叱られる。女の子は見えないところこそ、と母はよくわたしに言うから。
台所に背の高い人がいた。
髪が短くて、声が低い。わたしが頭を下げると、その人も下げた。おはよう、お母さんとその人は言ったけれど、誰のことを呼んだのだろう。振り向いたけれど、わたしの後ろには誰もいなかった。
焙じ茶が出てくる。わたしの湯呑みだ。ここはわたしの家ではないと思うのだけれど、これは確かにわたしのお気に入りの湯呑みだ。
その人は自分のカップに黒い飲み物を半分残して流しに捨てていた。もったいないことをする人だと思った。
朝、若い男の人が車で迎えに来た。
どこに連れていかれるのか分からなかったけれど、親切そうな人だった。だから尚更、きちんとお断りしなければと思って、折角ですけれどと丁寧にお伝えした。
今日は約束があるから。
男の人はしばらく門の前で待っていた。台所の人と何か話して、それから困ったように笑って帰っていった。悪いことをしたかもしれない。でも、約束は約束だから。
お手洗いの場所が分からなくて。廊下にいくつも戸があって、どれも同じような顔をしている。わたしが廊下で立ち止まっていると、台所の人が来て、こちらですよ、と教えてくれた。その人は案内してくれたけれど、戸を閉めなかった。わたしが出てくるまで、廊下の向こうで壁を見ていたみたい。恥ずかしかったけれど、親切な人ではあると思うから、文句は言わなかった。
台所の人の背中が、宮坂さんに見えた。
白いシャツの肩の線がそっくりだった。わたしは嬉しくなって声をかけた。宮坂さん、まだかしら。
その人の前の四角い箱の中に、小さな人たちがたくさん並んでいた。テレビかしら。テレビの中の人たちがこちらを見ていたような気がする。
その人が振り向いたけれど、宮坂さんではなかった。テレビの中の人が笑っていて、その人も笑った。わたしは何がおかしいのか分からなかったけれど、なんとなく笑われたような気になって、手に持ったままだった湯呑みと一緒に、台所まで戻った。
母はよく言っていた。女の子はね、我慢強くなくちゃいけないのよって。
寒い朝に足袋を履かせながら、熱いお風呂に肩まで浸からせながら。言いたいことがあっても、先に相手の顔を見なさい。欲しいものがあっても、立ち止まって三つ数えてから言いなさいって。
わたしは三つ数えるのが上手だった。だから宮坂さんが待ち合わせに遅れてきても、怒らずに待っていられた。宮坂さんは走ってきて、汗を拭きながら、文子さんは辛抱強いなあと言っていた。たぶん、褒められたのだと思う。
そろそろ出なければと思って玄関へ行く。
黒い靴の紐がうまく結べない。指が知らない人のものみたいで、ちゃんと動かない。お気に入りの靴なのに。これを履いていかないとなのに。
台所の人が来て、まだ時間がありますよ、と言った。
その人の手首を見ると、そこには宮坂さんの時計があった。文字盤の小さな傷にも見覚えがある。わたしはなんだか急に苦しくなって、そうかしら、と言うのがやっとだった。宮坂さんのお姉様かしら。だとしたら、靴の紐も結べないような娘だと思われたくない。
逡巡してから、わたしは靴を脱いできちんと揃えた。
目を開けると、西日が食卓にいっぱいになっていた。
いつの間にか眠ってしまっていたみたい。ブローチが温かくなっているから、ずいぶん時間が経ってしまっているのかしら。
約束の上映には間に合わないかもしれない。宮坂さんがまだ来ない。
台所の人が窓辺で手首の時計を見ているのが見えた。その横顔をわたしはしばらく眺めてみたけれど、どこのどなたなのか、わからなかった。
宮坂さん、遅いな。わたしは待つのが上手だから、もうすこし待つことにする。




