第一章 透子の朝
朝、目を覚ます。肌寒い冬の日は本当なら布団から出たくもないし、何なら目を覚ますことさえ不快だが、開きたくない目でぼんやりとスマートフォンの画面を視認すれば、あと数分でどのみちアラームが鳴る時間だと分かって、現実を受け入れる他なかった私は、致し方なしに寝床から這いずり出た。
枕元にあった腕時計を取る。亡き父が未だ生きていた時に譲り受けたこの年代物は手巻きで、毎朝リューズを回さなければ止まってしまう。三十回。数えながら散らかった部屋を眺める。昨日投げ捨てた衣服や置き去りの鞄が、昨日と同じ形で残っている。
腕時計をして廊下に出ると、台所の灯りがもう点いていた。
母が食卓に座っていた。藤色のブラウスに、真珠のブローチ。いつものお決まりの服装。今日はスカートを黒にしたようだった。如何にもよそいきといった様相で、後ろに跳ねた白髪が、自分で梳かしたんだということが分かった。
「おはようございます」
母が私に頭を下げる。初めて会った人間にそうするように丁寧に。
「おはよう、お母さん」
母は少し困ったように微笑んだ。私が何と言ったのか分からなかったのか、どうしてそう呼ぶのかが分からないというように。それを誤魔化すように母が窓の外を見る。つられて私も視線を向ければ、霜が降りていて、隣の家の屋根が白くなっているのが分かった。
湯を沸かして、お茶を淹れる。母には焙じ茶を渡し、自分のカップにはインスタントコーヒーを用意する。それから、仕事で使っているノートパソコンを開いて、今日の予定を確認する。九時半、十一時、十四時、十五時半。今日の会議の予定が書かれた四つの枠を見て、こんなに会議したところで時間の無駄なのにと思う。飲みさしのコーヒーを飲み切る気にはならなかった。
母が台所で落ち着いているようなので、この隙にトイレに行く。
トイレの戸はいつも閉めない。閉めると、母の音が聞こえなくなるからだ。未だこの介護生活に慣れていない頃は閉めていたが、三分もなかったその間に、母は玄関の鍵を開けて二つ先の角まで片方の靴だけ履いて立っていた。それから私は家で用を足すときは戸を閉めないようにした。
便座に腰を下ろして、耳を澄ます。食卓の椅子が軋む音、湯呑みを置く音。頭の中で何秒経ったか何となく数えてしまう。二十を数えたところで腰を上げた。
小学校二年生の時に家族で参加した町内会のバス旅行の時のことを思い出す。あの時も私は数を数えていた。バスの窓の外に流れる電柱を一本ずつ。言えばよかったのに、言えなかった。帰りのバスだったし、もう少しで着くはずだったから。トイレに行きたいと言って、みんなで乗っているバスを止めたりするのが嫌だった。恥ずかしかったから。その時、隣に座っていた母が揺れる通路を進んで運転席まで歩いていき、しばらくするとバスが路肩に止まった。母に連れられて草むらへ。そこから戻ると、運転手や他の大人たちに母は何度も頭を下げていたのを覚えている。父も一緒になってぺこぺこと周囲の人に謝っていた。
洗面所で手を洗う。鏡の中に映る疲れた中年女は背が高くて髪が短くて、余計に父に似ていると思った。身支度を整えて、朝の準備を済ませる。
午前八時四十分。デイサービスの送迎車が来る。いつものように職員と挨拶を交わす。玄関先まで母を連れていくと、担当の若い職員に深々と頭を下げる。
「折角ですけれど、今日は約束がありますので」
職員が助けを求めるように私を見る。助けて欲しいのは私だ。しかし、こうなってしまった日の母は、強行しようとすればするほど足に根を生やしてしまう。迷惑もかけられない。私は小さく首を振った。玄関を閉めたあと、部屋の窓から見える送迎車が角を曲がってしまうまで、母はにこにこと丁寧に見送っていた。
九時半。不要だと思うがリモート会議は社内向けだろうと常にカメラをオンにせよというお達しの元、ウェブカメラに自分を映す。画面に映る私の姿は白いシャツを着て、それなりにきちんとしたように見える。同僚の誰かが、宮坂さんはいつも隙がないですよね、と言ったのを未だ根に持っている。それを言った彼女は、見えない私の足元が、左右で違う靴下だということを知る術はない。
会議が続く中、母が画面の端に映り込む。
「宮坂さん、まだかしら」
母は私の背中越しにそう言った。よりにもよって私は発言中、マイクはミュートになってはいない。会議アプリに並ぶ顔が一斉に少し固まったのが分かった。
気まずい空気を誤魔化すように課長が笑う。お母様、苗字で呼ばれるんですね、と。認知症の母の介護をしていることを知っているだろうに。いや、分かっているからこその笑いにしてくれたのか。その誤魔化しに乗って、私も笑ってみせた。
会議が終わると、母は玄関に居た。
上がり框に腰掛けて、よそいきの黒い靴の紐を結ぼうとしているようだった。指が上手く動かないのか、紐が蝶々の形に結ばれることはない。
「おでかけですか」と聞く。
すると母は顔を上げて答えてくれる。
「約束がありますので」
そう答える母の顔は歳に似つかわしくない子どものような表情をしている。純粋な、と言えば聞こえはいい。
「そうですか。でもまだ時間がありますよ」
そう言ってやると母は私の手首におさまった父の時計をじっと見た。
「そうかしら」
訂正しないことを覚えたのは二年前だ。違うよ、お母さんと言うたびに、母は何かを失ったような、一枚一枚彼女自身が剥がれていってしまうような、悲痛な有様を見せた。それを見て、否定してもどうしようもないと分かって、現実を突きつけるのはやめたのだ。
母は紐の解けかけた靴を揃えて脱いだ。靴を下駄箱に戻すのに二十分かかった。
午後の会議が課長の都合で十五分遅れて始まる連絡があって、母の様子を見に行くと、彼女は食卓で頬杖をついたまま眠っている。窓の外の光があたって、真珠のブローチが小さく光っていた。
私は腕時計を見る。秒針が母の寝息より少し速く進んでいた。




