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【第6話】一粒の涙

挿絵(By みてみん)

役員会の緊迫した空気が嘘のように、八月の諏訪湖は穏やかな青さを湛えていた。


八月十五日。夜空を彩る大輪の「諏訪湖の湖上花火大会」が始まった。地響きのような爆音とともに、色鮮やかな光が湖面を染め上げていく。


私はその圧倒的な美しさを一人で見上げながら、気がつけばスマートフォンの画面を開いていた。どうしても、あの人の顔が頭に浮かんだのだ。


『今、諏訪湖の花火を見ています。一之瀬さんと一緒に見たかったな、と思いながら』


指先から溢れ出た素直な思いを、メールで送った。しばらくして、一之瀬さんからの返信が届いた。


『本当は、私も一緒に見たかったわ』


画面の向こうにある一之瀬さんの優しい寂しさが、電波を通じて私の胸にじんわりと伝ってくる。直接会うことはできなくても、遠く離れたこの空の下で、私たちは確かに繋がっているのだと実感させてくれる温かいメッセージだった。


諏訪湖花火大会の当日、ホテルはどこも満室で、日帰りで誘っても負担をかけてしまうと思い誘うのを控えていた。


私は「お誘いせずにすみません」とだけ返信した。


翌日の八月十六日。私は、以前一之瀬さんから「とても良かったから観てみて」と勧められていた映画『TOKYOタクシー』を、自宅で観ることにした。


『これから、あの映画を観ますよ』


そうメールを入れてから、画面に向かった。

映画が終わる頃、スマートフォンが小さく震えた。

一之瀬さんからの「どうだった?」という感想を尋ねるメールだった。


『とても良かったです。教えてくれてありがとうございました』私はすぐに返信した。


柴又から葉山へと向かうタクシーの車内で、年の離れた二人がゆっくりと心を通わせていくヒューマンドラマ。

一之瀬さんは「主演の倍賞千恵子さんと自分に、いくつか不思議な共通点があってね、つい感情移入しちゃうの」と、愛おしそうに語ってくれたことがあった。


静かな部屋で、その映画の余韻に浸っていたとき、私の元に、一之瀬さんから一通の長文のメールが届いた。そこに綴られていた言葉は、私の魂を激しく震わせるものだった。


『もし私に資産があったらあなたに遺してあげたい。私が死んだときは一粒の涙を流してほしい』


文字が、涙で滲んだ。平凡な、本当にどこにでもある平凡な人生だった。感情が高ぶればついつい口調がキツくなり、態度が横柄になってしまう自分を大嫌いだと責めていた男だった。


「変わりたい」あの日、あの瞬間に勇気を出して、健康麻雀という世界の扉を叩かなければ、私の人生はトゲだらけのまま、孤独にすり減っていたに違いない。


でも、今は違う。自分の不器用さを変えたくて一歩を踏み出し、親世代のシニアの方々に優しさを教わり、元同僚の神山さんを誘い、仲間とともにサークルを守り抜いてきた。


そして、障がい者施設でのボランティア活動を快く引き継いでくれ、私の長女と次女の奇跡のようなご縁で結ばれた、一之瀬さんという生涯の恩人に出会うことができた。


今年の五月、私は一之瀬さんと二人で、当時一緒に卓を囲んだあのピュアな磯村さんたち三人の元へ、久しぶりに面会に訪れた。

「おう! よく来てくれた!」と、言葉にできないほどの大喜びで迎えてくれたメンバーたちの笑顔が頭に浮かぶ。


しかしその時、私たちがサークルへ誘い続けていた施設職員の松村さんは、すでについ先日、施設を定年退職された後だった。


けれど、私の胸には寂しさではなく、新しい希望が灯っている。人との出会いは一期一会。でも、その縁はここで終わりではない。施設を離れた松村さんとも、私と一之瀬さんがバトンを繋ぎ、紡いできたこの温かい健康麻雀サークルで、いつかきっと笑顔で再会できる日が来る。私はそう信じている。


私の歩んできた五十数年の足跡は、決して無駄ではなかった。こんなにも深く、尊く、私を信頼し、想ってくれる人がいる。


『そう思っていただけて、本当に嬉しいです。ありがとうございます』

私は、胸いっぱいの感謝を込めて、そう返信した。


都合の良い奇跡なんて起きない。


少しの理不尽と意地悪が混ざったこの現実の世界で、私たちは確かに、自分たちの手で優しい居場所を作ることができる。


いつか訪れるその時が来たら、私はきっと、約束通り世界で一番温かい一粒の涙を流すだろう。あの薄茶色の牌が繋いでくれた、最高の仲間たちとの出会いに、心からの感謝を込めて。


(完)




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