第八話 わたしの檻-後編
黒いリボンが、リノへ襲いかかった。
「っ……!」
リノは反射的にブローチを握る。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
白い光がリノを包んだ。
制服がほどけ、白とピンクのフリルドレスに変わる。
手にはハートのステッキ。
胸元には大きな白いリボン。
けれど、いつもより灰色が濃かった。
リノはステッキを構える。
目の前には、白と黒のリボンでできた鳥かご。
ぶら下がる無数の鏡。
空っぽの椅子。
顔のない観客席。
そして、リノ自身の心から生まれたノイズ。
リボンケージ・ノイズ。
「助けなきゃ」
ノイズが囁く。
「必要とされなきゃ」
リノの足元に、甘い言葉をまとったリボンが這い寄る。
「ありがとうって言われなきゃ」
リノはステッキを握りしめた。
「……来ないで」
リノはステッキを振る。
「マジカル・リボン・カッター!」
白いリボンの刃が飛び、足首に絡みついたリボンを切り裂く。
しかし、切られたリボンは紙片になって舞い上がり、すぐにまた別のリボンへ変わった。
「ありがとうって言われたいんでしょ?」
ノイズの声がする。
「必要とされたいんでしょ?」
別のリボンがリノの腕に絡む。
「誰かに、選ばれたいんでしょ?」
リノはステッキを握りしめた。
「やめて!」
今度は鏡が現れた。
無数の鏡。
その一つ一つに、違うリノが映っている。
ミカを助けたリノ。
セナの檻を開けたリノ。
ノアに追い詰められたリノ。
そして、黒いリボンをつけたリノ。
鏡の中のリノたちが、同時に口を開く。
「私、見てほしかった」
「ありがとうって言われたかった」
「助けたから、好きになってほしかった」
「誰かの一番になりたかった」
「やめて!」
リノはステッキで鏡を叩き割った。
砕けた鏡はキラキラと舞い散る。
けれどその破片は、さらに小さな鏡になって増えていく。
ノアが笑った。
「割っても増えるよ。自分の本音って、そういうものだから」
「ノア!」
「何?」
「あなたがこれを作ったの?」
「きっかけを作っただけ」
ノアは軽く肩をすくめた。
「育てたのは、あなた」
その言葉に、リノの胸が痛んだ。
リボンケージ・ノイズが大きく広がる。
ステージの観客席に、顔のない人影が並び始めた。
その人影たちは、ゆっくりと拍手する。
ぱち、ぱち、ぱち。
音だけが響く。
「もっと助けて」
「もっと頑張って」
「もっと良い子でいて」
「あなたは魔法少女なんだから」
リノの足が震えた。
魔法少女。
誰かを救う存在。
かわいくて、強くて、優しくて、最後には笑える存在。
でも、リノは今、泣きそうだった。
「ほら」
ノアの声が近づく。
「自分を守れない優しさなんて、檻と同じだよ」
次の瞬間、黒い羽根がリボンケージ・ノイズを切り裂いた。
鳥かごの柵が砕ける。
しかし同時に、リノの胸元が焼けるように痛んだ。
「っ、やめて!」
リノは叫んだ。
ノアが手を止める。
「助けてあげてるんだけど」
「壊さないで!」
「どうして?」
リノは鳥かごを見た。
それは醜かった。
みっともなかった。
見たくない気持ちの塊だった。
でも、たしかに自分の中にあるものだった。
「それは……」
リノは震える声で言う。
「たぶん、私の声だから」
ノアの瞳が、ほんの少し揺れた。
リノはステッキを支えに、ゆっくり立ち上がった。
足元は震えている。
腕も痛い。
胸元のリボンは焼けるように熱くて、黒い染みと灰色の糸が、心臓の鼓動に合わせて脈打っている。
リボンケージ・ノイズは、まだそこにいた。
白と黒のリボンでできた鳥かご。
ぶら下がる無数の鏡。
空っぽの椅子。
顔のない観客席。
甘い拍手。
どれも、リノが見たくなかったものだった。
でも、もう目をそらせなかった。
「私……」
リノの声はかすれていた。
リボンケージ・ノイズが、静かにリノを見ている。
顔なんてないはずなのに、確かに見られている気がした。
鏡の中のリノたちが、口を開く。
「言って」
「聞いて」
「捨てないで」
「私を、なかったことにしないで」
リノは胸元のリボンを握った。
「私、見てほしかった」
その言葉が出た瞬間、ステージの空気が震えた。
ノアは黙ってリノを見ている。
リノは息を吸った。
「ありがとうって言われたかった」
鳥かごの柵に、小さなひびが入る。
「助けたから、好きになってほしかった」
リノの目に涙が浮かんだ。
言ってしまった。
認めてしまった。
みっともない。
恥ずかしい。
こんなの、良い子じゃない。
こんなの、魔法少女らしくない。
でも、その言葉は嘘ではなかった。
「誰かの特別になりたかった」
黒いリボンが、リノの頬にそっと触れた。
冷たい。
でも、そこにあるのは敵意だけではなかった。
まるで、ずっと閉じ込めていた小さな自分が、やっと気づいてもらえたみたいだった。
リノは涙をこらえながら続ける。
「でも、それだけで誰かを縛りたくない」
鳥かごの中心にあった空っぽの椅子が、ぎしりと音を立てた。
「私が助けたから、私を見てって思うのは……たぶん、私の本音」
リノは自分の声が震えているのを感じた。
「でも、助けた子が笑えるようになったなら、それは嬉しいことでもある」
白いリボンと黒いリボンが、リノの周りで絡み合う。
「寂しいも、嬉しいも、どっちもある」
リノはステッキを両手で握りしめ、ゆっくり掲げた。
「片方だけを、なかったことにしない」
胸元のリボンが光る。
白ではない。
黒でもない。
灰色の光。
けれどそれは、汚れた色ではなかった。
夜明け前の空みたいな、静かで、少し寂しくて、それでも確かに明日へ続く色だった。
「マジカル・リボン・リフレクト!」
ステッキの先から、灰色のリボンが広がった。
それは鏡を割らなかった。
鳥かごを壊さなかった。
ノイズを切り裂かなかった。
ただ、ステージの中央に大きな鏡を作った。
そこに映ったのは、泣きそうな顔のリノだった。
見てほしい。
必要とされたい。
寂しい。
嬉しい。
怖い。
助けたい。
助けてほしい。
全部の感情を抱えた、リノ自身だった。
リノは、その自分から目をそらさなかった。
鏡の中のリノも、リノを見つめ返した。
黒いリボンをつけたリノが、少しだけ笑う。
「やっと、見てくれた」
その声は、初めて優しく聞こえた。
リボンケージ・ノイズが、小さく震える。
鳥かごの柵に、さらにひびが入った。
観客席の拍手が遠ざかっていく。
「ありがとう」と書かれた紙片が、ひとつ、またひとつと光になって消えていく。
けれど、檻は完全には開かなかった。
空っぽの椅子は、まだそこにある。
ノイズはほどけきらず、灰色の糸になってリノの胸元へ戻っていった。
白いリボンの端に、一本の灰色の糸が縫い込まれる。
リノはその場に膝をついた。
息が苦しい。
体が重い。
心の奥を無理やり開いたみたいに、ひどく疲れていた。
でも、さっきまでのような痛みではなかった。
自分を責める痛みではなく、自分を知ってしまった痛みだった。
ノアが近づいてくる。
「いいね」
リノは顔を上げた。
ノアは笑っていた。
けれど、その笑みはいつものような嘲りだけではなかった。
「やっと自分の声が聞こえたじゃん」
「ノア……」
「でも、まだ檻は開いてない」
リノは胸元の灰色の糸を見る。
「分かってる」
「次は、もっと痛いよ」
「……うん」
「それでも聞くの?」
リノは少し黙った。
怖い。
正直、怖かった。
自分の中に、まだ知らない声がある。
もっと嫌な自分がいるかもしれない。
もっとみっともない願いが、奥に隠れているかもしれない。
でも、聞かないままでいる方が、今はもっと怖かった。
リノは頷いた。
「聞く」
ノアはほんの少しだけ目を細めた。
「馬鹿だね」
「そうかも」
「でも」
ノアは黒いリボンを指でなぞった。
「嫌いじゃないよ、そういうの」
黒い羽根が舞う。
ステージが崩れ始めた。
観客席も、空っぽの椅子も、鏡の破片も、光の粒になって消えていく。
ノアの姿も、闇に溶けるように薄くなっていった。
「またね、リノ」
その声を最後に、世界はほどけた。
気づけばリノは、商店街の噴水の前に倒れていた。
空はもう、夕方から夜へ変わりかけている。
商店街の店先には明かりが灯り、人々の声が遠くで聞こえていた。
けれどリノの周りだけ、少し静かだった。
変身は解けていた。
制服の胸元には、白いリボンのブローチがある。
そこには黒い染みと、灰色の糸があった。
ミミルがリノのそばへ駆け寄る。
「リノ!」
「ミミル……」
「大丈夫? どこか痛い?」
リノはいつものように答えようとした。
大丈夫。
そう言えば、ミミルは安心する。
自分も、少しだけ強い子でいられる。
けれどその言葉は、喉の奥で止まった。
第7話でセナが言った言葉を思い出す。
大丈夫じゃない。
でも、言えた。
リノは胸元のリボンを握る。
「……大丈夫じゃない」
ミミルが息をのむ。
リノは小さく続けた。
「痛い。怖い。自分の中に、あんな気持ちがあるのが嫌」
「リノ……」
「でも、言えた」
リノは弱く笑った。
「大丈夫じゃないって、言えた」
ミミルの目に涙が浮かんだ。
「うん」
そのとき、誰かの足音がした。
商店街の入口に、ミカが立っていた。
部活帰りなのか、鞄を肩にかけている。
リノを見つけた瞬間、ミカの顔色が変わった。
「リノちゃん!」
ミカは駆け寄ってきて、リノの前に膝をついた。
「どうしたの? 大丈夫?」
その言葉に、リノの胸が小さく痛んだ。
いつもなら、反射で笑っていただろう。
大丈夫。
平気だよ。
何でもない。
でも今は、言えなかった。
言わなかった。
リノは震える手で、胸元のリボンを握った。
「……大丈夫じゃ、ないかも」
ミカは驚いた顔をした。
それから、何も聞かずにリノの隣へ座った。
夕方の商店街に、夜風が通り抜ける。
白と灰色のリボンが、小さく揺れた。
ミカはリノの顔を覗き込まなかった。
理由を無理に聞かなかった。
ただ隣に座って、同じ方向を見ていた。
その沈黙が、少しだけあたたかかった。
「そっか」
ミカは静かに言った。
「じゃあ、ちょっと休もっか」
リノの目から、涙が一粒こぼれた。
泣くつもりなんてなかった。
泣いたら困らせると思っていた。
でも、涙は止まらなかった。
ミカは慌てなかった。
ミミルも、何も言わなかった。
リノは初めて、誰かの前で少しだけ泣いた。
ありがとうが欲しかった。
必要とされたかった。
誰かの特別になりたかった。
その気持ちは、消えなかった。
でも、消さなくてもいいのかもしれない。
夜空に、黒い星が瞬いている。
その光はまだ不気味で、冷たい。
けれどリノの隣には、ミカがいた。
肩のそばには、ミミルがいた。
そして胸元のリボンには、灰色の糸が一本、確かに結ばれていた。
それは弱さの証だった。
でも同時に、リノが自分の声を聞いた証でもあった。
遠く、商店街の屋根の上。
黒羽ノアはその様子を見下ろしていた。
黒いリボンを指でなぞりながら、ぽつりと呟く。
「助けられていい、か」
その声は、誰にも届かなかった。
ノアは夜空を見上げる。
黒い星が、静かに瞬いていた。
「そんなの、私にも言ってほしかったな」
黒い羽根が一枚、夜風にさらわれる。
ノアの姿は、影の中へ溶けていった。




