第八話 わたしの檻-前編
月森セナが初めて「手伝ってほしい」と言ったのは、次の日の朝だった。
教室の前。
まだ人の少ない廊下で、セナは両手に抱えたプリントを見つめながら、先生に向かって小さく頭を下げていた。
「すみません。これ、ひとりだと今日中に終わらないかもしれません」
声は震えていた。
けれど、ちゃんと言えていた。
「何人かに、手伝ってもらってもいいですか」
先生は少し驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。
「もちろん。ごめんね、月森さんに任せすぎていたかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、セナの肩から力が抜けた。
リノは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
昨日、夜の教室でセナのノイズを浄化した。
鳥かごのノイズ。
良い子でいなければ自分に価値がないと信じてしまった、苦しい檻。
リノはその檻を壊さなかった。
鍵を開けた。
マジカル・リボン・アンロック。
あの魔法を使った瞬間、セナは初めて「疲れた」と言えた。
そして今、セナは自分の足で、もう一度外へ出ようとしている。
よかった。
心から、そう思った。
なのに。
リノの胸の奥に、小さな針のような痛みがあった。
「リノちゃん」
振り返ると、ミカが立っていた。
いつの間にか、ミカはリノのことを「白咲さん」ではなく「リノちゃん」と呼ぶようになっていた。
まだ少し照れくさいけれど、嫌ではない。
「おはよう」
「おはようー!」
ミカはセナの方を見て、ほっとしたように笑った。
「月森さん、ちょっと元気そうでよかった」
「うん」
「昨日、何かあったのかな。なんか、前より少し話しかけやすくなった気がする」
ミカはそう言って、セナのところへ歩いていった。
「月森さん、プリント手伝おうか?」
セナは驚いた顔をした。
それから、少し迷って、頷いた。
「……お願いしてもいい?」
「もちろん」
ふたりは並んで職員室の方へ歩いていく。
ミカは何か冗談を言ったらしく、セナが小さく笑った。
その笑顔を見て、リノも嬉しくなった。
嬉しいはずだった。
でも同時に、胸の奥がすっと冷たくなる。
リノはその感情に名前をつけられなかった。
ミカが笑っている。
セナも笑っている。
昨日よりずっと自然に。
リノが願った通りだ。
助けた子たちが、少しずつ自分の足で歩けるようになっている。
だから、これは喜ぶべきことだ。
なのに。
リノは廊下にひとり残されたような気がした。
「……やだな」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
その日の授業は、いつもより長く感じた。
黒板の文字がぼやける。
先生の声が遠くなる。
ノートを取る手は動いているのに、頭の中にはミカとセナの笑顔ばかりが浮かんだ。
私が助けたのに。
そんな言葉が、ふいに心の底から浮かび上がってきた。
リノは慌てて消そうとした。
違う。
そんなふうに思っちゃだめ。
ミカが元気になるのは良いこと。
セナが誰かに頼れるようになるのも良いこと。
自分がいなくても大丈夫になっていくのは、本当はとても良いこと。
なのに。
胸の奥の声は消えない。
私が助けたのに。
私だけが知っていたはずなのに。
私がいなくても笑えるんだ。
リノはシャーペンを握る手に力を込めた。
芯が、ぱきんと折れた。
昼休み。
リノは手洗い場で手を洗っていた。
水は冷たかった。
指先を流れる水を見つめながら、リノは何度も自分に言い聞かせる。
嬉しいこと。
これは嬉しいこと。
寂しいなんて思うのはおかしい。
助けた相手が元気になるのは、良いこと。
何度も、何度も。
蛇口を閉めようとしたとき、水道の金属部分に、自分の顔が映った。
その後ろに、黒いリボンの影が揺れる。
「ほらね」
リノの動きが止まった。
鏡の中のリノが、そこにいた。
黒いリボン。
冷たい瞳。
リノと同じ顔で、リノよりずっとリノの本音を知っている顔。
「嬉しいはずなのに、寂しいんだ」
「違う」
リノは小さく言った。
「違わないよ」
鏡のリノは楽しそうに笑った。
「助けた子が、自分から離れていくのが怖いんでしょ?」
「離れていくとか、そういうんじゃ」
「じゃあ、どうして苦しいの?」
リノは答えられなかった。
鏡のリノは、蛇口の中で頬杖をつく。
「リノは優しいね。みんなを助けたいんだよね。でも、助けたあとで、その子が自分を必要としなくなるのは嫌なんだ」
「やめて」
「ありがとうって言われたい。特別に思われたい。あなたがいてくれてよかったって、何度でも言ってほしい」
「やめて」
「だって、それが本音でしょ?」
胸元のブローチが熱くなる。
白いリボンの端にある黒い染みが、じわりと疼いた。
リノは蛇口から目をそらした。
「私は、そんな子じゃない」
鏡のリノは、少しだけ悲しそうに笑った。
「そうやって捨てるんだ」
「え?」
「自分の嫌な気持ちを、また私に押しつける」
その言葉は、リノの胸に刺さった。
私はあなたの敵じゃない。
あなたが捨てた気持ちを、私が拾ってるだけ。
少し前の校舎裏で聞いた言葉が蘇る。
リノは水道の金属部分を見た。
けれど、そこにはもう黒いリノはいなかった。
映っているのは、青ざめた自分だけ。
その足元に、黒い羽根が一枚落ちていた。
リノは息をのむ。
羽根には、小さな文字が浮かんでいる。
――放課後、噴水で待ってる。
差出人の名前はなかった。
でも、誰からなのかは分かった。
黒羽ノア。
放課後、リノは古い噴水の前に立っていた。
夕方の商店街は人通りが多いはずなのに、その場所だけがぽっかり切り抜かれたように静かだった。
噴水の水は澄んでいる。
けれど底の方に、黒い影がゆらゆらと沈んでいるのが見えた。
リノは胸元のブローチを握る。
「来たんだ」
声がした。
噴水のふちに、ノアが座っていた。
黒いパーカー。
黒いリボンのブローチ。
どこか退屈そうで、それでいて楽しそうな目。
「ノア」
「こんにちは、リノ」
ノアはリノの名前を呼んだ。
白い子ではなく。
リノはそれだけで少しだけ身構えてしまう。
「何の用?」
「用がないと呼んじゃだめ?」
「……だめじゃないけど」
「じゃあ、話しに来ただけ」
ノアは噴水の水面を指でなぞった。
その指先から黒い波紋が広がる。
「セナちゃん、元気そうだったね」
リノの心臓が跳ねる。
「見てたの?」
「見てたよ。ミカちゃんと笑ってた」
ノアはリノを見た。
「嬉しかった?」
「嬉しかった」
リノは即答した。
ノアは口元を緩める。
「じゃあ、寂しくなかった?」
リノは言葉を失った。
ノアは楽しそうに笑う。
「人を救うって、置いていかれることでもあるんだよ」
「置いていかれる……?」
「そう。助けた相手が元気になるほど、あなたは必要なくなる」
ノアの言葉は、静かだった。
だからこそ、深く刺さった。
「それは、良いことじゃん」
リノは言った。
「その子がひとりで歩けるようになるなら、それで」
「本当に?」
ノアは噴水から立ち上がる。
「じゃあ、見せてあげる」
「何を?」
「あなたの檻」
ノアの黒いリボンが、ふわりとほどけた。
その瞬間、商店街の景色が音もなく歪んだ。
店の看板が遠ざかる。
通行人の声が水の中に沈むみたいにぼやけていく。
夕焼けの空は、劇場の天井みたいに高くなり、足元のタイルは黒いステージへ変わった。
「なに、これ……」
気づけばリノは、どこかのステージの上に立っていた。
白いスポットライトが、リノだけを照らしている。
観客席は真っ暗だった。
誰もいない。
なのに、拍手の音だけが聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
顔のない誰かが、どこかでリノを褒めている。
その音が、なぜか怖かった。
「見て」
ノアの声が、暗い観客席から響く。
リノが顔を上げると、ステージの遠くにミカとセナがいた。
ふたりは楽しそうに話している。
ミカが笑う。
セナも少し照れたように笑う。
リノはほっとした。
昨日より、ふたりとも自然に笑えている。
それは嬉しいことのはずだった。
けれど、リノが一歩近づこうとしても、ふたりとの距離は縮まらなかった。
「ミカちゃん、今朝はありがとう」
セナが言った。
「ううん。セナちゃんが言えたの、すごいよ」
「リノちゃんにも、ちゃんとお礼言わなきゃね」
「うん。でも、もう大丈夫だよね」
もう大丈夫。
その言葉が、リノの胸に落ちた。
本来なら、とても嬉しい言葉のはずだった。
ミカが元気になった。
セナも、自分の足で歩き出そうとしている。
リノが願った通りだ。
なのに、胸の奥が痛い。
「ねえ、リノ」
ノアの声が近づく。
「嬉しい?」
リノは答えられなかった。
「それとも、寂しい?」
「……違う」
「何が?」
「寂しいなんて、思ってない」
そう言った瞬間、ステージの床に黒いリボンが這った。
リボンには、ピンク色の文字が浮かんでいる。
ありがとう。
助かったよ。
もう大丈夫。
リノがいなくても平気。
最後の一文を見た瞬間、リノの呼吸が止まりかけた。
「やめて」
「どうして?」
ノアは暗い観客席のどこかで笑う。
「いい言葉じゃん。もう大丈夫。あなたが救った証拠でしょ?」
「そうだけど……」
「でも、痛いんだ」
リノは唇を噛んだ。
否定したかった。
そんなこと思っていないと言いたかった。
でも、言えなかった。
助けた相手が、自分なしで笑えるようになる。
それは喜ぶべきことだ。
それなのに。
どこかで、置いていかれたような気がした。
「助けなきゃ」
どこからか声がした。
「必要とされなきゃ」
リノは周りを見る。
ステージの中央に、いつの間にか黒い鳥かごが現れていた。
セナのノイズに似ている。
けれど、これはセナのものではない。
鳥かごの柵は、白と黒のリボンでできていた。
ところどころに鏡の破片がぶら下がり、その中にはリノの顔が映っている。
笑っているリノ。
泣きそうなリノ。
魔法少女のリノ。
黒いリボンをつけたリノ。
鳥かごの中心には、空っぽの椅子があった。
誰かに座ってほしいのに、誰も座っていない椅子。
リノはそれを見た瞬間、胸が苦しくなった。
「ありがとうって言われなきゃ」
ノイズの声が、リノの心の奥から響く。
「誰かの特別じゃなきゃ」
鳥かごの扉が、ぎい、と開いた。
「私は、ここにいられない」
リノは息をのんだ。
「これ……私の……?」
「そうだよ」
ノアがステージの端に現れた。
黒いリボンのブローチを指でなぞりながら、リノを見ている。
「リボンケージ・ノイズ。あなたの檻」
リノの胸元で、白いリボンが激しく震えた。
次の瞬間、鳥かごから無数のリボンが伸び、リノへ襲いかかった。




