第57話 灰色の査定室
扉の奥は、白かった。
あまりにも白すぎて、リノは一瞬、足を止めた。
壁も。
床も。
天井も。
すべてが真っ白。
けれど、その白さは優しくない。
病院のようにも見える。
研究室のようにも見える。
それなのに、どこか、お店のショーケースの中に閉じ込められたような息苦しさがあった。
「……ここが。」
ミミルがリノの肩の上で震える。
「査定室……?」
部屋の中央には、一脚の椅子。
その周囲には、細い黒い線が円を描くように床へ刻まれている。
壁には、無数の黒い値札が並んでいた。
どれも空白。
まだ何も書かれていない。
まるで。
誰かの心に値段がつくのを待っているみたいだった。
「趣味悪い……。」
ミミルが小さく呟く。
その時。
部屋の奥。
白い壁に、黒い影が映った。
『ようこそ。』
低く、落ち着いた声。
リノは胸元の灰色リボンを握った。
「黒須ミカド……。」
『その名前で構いません。』
影は動かない。
そこにいるのか。
それとも、どこか別の場所から映しているだけなのか。
分からない。
『待っていましたよ。灰色リボン。』
「私は、あなたに会いに来たんじゃない。」
リノは睨む。
「こはくちゃんを返して。」
『もちろん。』
あまりにも簡単に返ってきた言葉に、リノの眉が動いた。
『私は、黄色代表を傷つけたいわけではありません。』
「さらっておいて、よく言えるね。」
『必要な手順でした。』
「人を餌にすることが?」
声に怒りが混じる。
ミカドの影は、少しも揺れなかった。
『あなたは来た。』
『結果として、手順は正しかった。』
「……っ。」
リノの指に力が入る。
ミミルが小さく唸った。
「リノをどうするつもり?」
『どうもしません。』
ミカドの声は、静かだった。
『傷つけるつもりも、壊すつもりもない。』
『あなたには価値がある。』
リノの瞳が鋭くなる。
「価値って。」
「値段のこと?」
『いいえ。』
影が少しだけ濃くなる。
『あなたは商品ではありません。』
リノは一瞬、言葉を失った。
けれど次の言葉で、胸の奥が冷たくなった。
『あなたは、商品を生み出す鍵です。』
「……何それ。」
『灰色リボン。』
『まだ誰も分類できていない心。』
『白でも黒でもなく、光でも闇でもない。』
『絶望を知りながら、未来を選ぶ心。』
リノの灰色リボンが、わずかに揺れた。
『あなたの力は、壊すことではない。』
『ほどくことです。』
「ほどく……?」
ミミルがリノの肩で目を丸くする。
『黒い値札。黒いキャンディ。』
『奪われ、包まれ、歪められた感情。』
『あなたは、それらの結び目に触れることができる。』
リノは神殿での出来事を思い出した。
自分へ飛んできた黒い値札。
灰色リボンが触れた瞬間。
ひび割れた。
壊れた。
「……だから。」
「私のリボンで、値札が壊れたんだ。」
『正確には、ほどけたのです。』
ミカドの声が、ほんの少しだけ愉快そうに響く。
『とても貴重な力です。』
『商会にとっても。』
リノは身構えた。
「どういう意味?」
『抜き取った感情は、時間が経つほど形が崩れる。』
『悲しみは濁り、怒りは割れ、願いは歪む。』
『商品としての価値を保つには、整える必要がある。』
「まさか……。」
『あなたならできる。』
白い壁に、黒い文字が浮かぶ。
《修復適性:測定不能》
《再包装適性:最高値》
『あなたは、奪われた心をほどくことができる。』
『そして、ほどいた心は、もう一度包み直せる。』
『つまり。』
リノの背筋に、ぞっとするものが走った。
『あなたは商会にとって、最高の修復装置です。』
「ふざけないで!」
リノの声が白い部屋へ響いた。
「私は道具じゃない!」
『もちろん。』
「もちろんじゃない!」
リノは一歩前へ出る。
「人の心を抜き取って。」
「瓶に詰めて。」
「キャンディにして。」
「今度は私にそれを直せって?」
灰色リボンが強く揺れる。
「そんなこと、絶対にしない!」
『それは残念です。』
ミカドの声は、少しも残念そうではなかった。
* * *
「リノ!」
ひまりは壁を叩いた。
分厚い黒い壁。
炎をまとわせた拳で殴っても、焦げ跡すらつかない。
「リノ! 聞こえる!?」
返事はない。
ピリカが肩から飛び降りる。
「ひまり、落ち着いて。」
「落ち着けないよ!」
ひまりの声が震える。
「また……。」
拳が壁に触れたまま止まる。
「また、間に合わなかったらどうするの……。」
小春の姿が頭をよぎる。
あの日。
手を伸ばしたのに。
届かなかった。
そして、こはく。
自分を庇って、黒い魔法陣に飲み込まれていった。
「私……また……。」
「ひまり。」
ピリカの声は、いつもより少しだけ強かった。
「今度は、走るだけじゃだめ。」
ひまりが振り向く。
「え……?」
「ひまりは速い。」
「火も強い。」
「でも、それだけじゃ届かない場所がある。」
ピリカは壁を見上げる。
「考えよう。」
「どうやったらリノのところへ行けるか。」
「どうやったらこはくを助けられるか。」
ひまりは唇を噛んだ。
焦りで熱くなっていた胸の奥に、少しだけ冷たい空気が入る。
「……うん。」
ひまりは炎を消した。
そして、壁ではなく、通路の床を見た。
天井を見た。
空気の流れを探す。
「どこかに、繋がる道があるはず。」
ピリカが頷く。
「うん。」
「一緒に探そう。」
ひまりは深く息を吸った。
「今度は。」
「ちゃんと助ける。」
* * *
「こはく!」
パチルは走ろうとした。
けれど、すぐにるりが抱き止める。
「待って。」
「離して!」
「こはくが近いんだ!」
「分かってる。」
るりは膝をついて、パチルと目線を合わせた。
「でも、ひとりで行かないよ。」
「でも!」
パチルの目に涙が浮かぶ。
「こはく、怖がってるかもしれない!」
「うん。」
「一人で泣いてるかもしれない!」
「うん。」
「だったら早く行かなきゃ!」
パチルの声が崩れる。
るりは、何も否定しなかった。
ただ優しく、パチルの背中へ手を添える。
「怖い時ってね。」
柔らかな声だった。
「誰かが急いで来てくれるのも嬉しいけど。」
「ちゃんと一緒に帰れるように来てくれる方が、もっと嬉しいと思う。」
パチルの動きが止まった。
「……一緒に帰る。」
「うん。」
ポルルもそっと近づく。
「こはくは、パチルにお願いしたんでしょう?」
「リノたちをお願いって。」
「……うん。」
「じゃあ、そのお願いを叶えよう。」
パチルは涙をぬぐった。
「……分かった。」
「走らない。」
「でも。」
小さな星形のしっぽが震える。
「絶対、見つける。」
るりは頷いた。
「もちろん。」
「一緒に行こう。」
* * *
こはくは鎖を睨んでいた。
黒い拘束具。
魔力を流そうとするたびに、逆流するような痛みが走る。
「……こんなの。」
手首に力を込める。
琥珀色の小さな火花が散った。
次の瞬間。
バチィッ!
「っ……!」
黒い光が腕を走る。
膝が床につく。
それでも、こはくは歯を食いしばった。
「リノが来てるのに……。」
「じっとしてられるわけないでしょ……!」
もう一度。
魔力を込める。
バチッ!
「うっ……!」
痛い。
怖い。
でも。
それ以上に、胸の奥が落ち着かない。
「なんで……。」
こはくは息を荒くしながら呟く。
「なんで、あいつの名前ばっかり出てくるのよ……。」
灰色。
そう呼んでいたはずなのに。
今は、頭の中で何度も名前を呼んでいる。
リノ。
リノ。
リノ。
「……違う。」
こはくは顔を赤くして首を振った。
「別に、そういうのじゃない。」
「助けに来たバカを止めるだけ。」
そう言って。
もう一度、拘束具へ魔力を流す。
「だから……!」
琥珀色の火花が、ほんの一瞬だけ黒い鎖を照らした。
* * *
査定室。
ミカドの影が、白い壁に映っている。
『では、実験しましょう。』
「実験?」
リノは警戒する。
床から、小さな台がせり上がった。
その上に、黒いキャンディが一つ。
中で青黒い光が揺れている。
『これは、ある少女の悲しみです。』
リノの顔色が変わる。
「やめて。」
『彼女は泣くことに疲れていました。』
『だから、その悲しみを手放した。』
「そんなの……。」
『望んだことです。』
「違う。」
リノは首を振る。
「つらい時に差し出された逃げ道を、選ばされたんだよ。」
ミカドは答えない。
ただ、黒いキャンディが浮かび上がる。
そして。
パリン。
割れた。
黒い煙が溢れ出す。
煙は小さなノイズの形になり、リノへ向かって牙を剥いた。
「リノ!」
ミミルが叫ぶ。
リノはリボンを構える。
けれど、ミカドの声が響く。
『壊す必要はありません。』
「何を……!」
『ほどいてみなさい。』
ノイズが飛びかかる。
リノは反射的に灰色リボンを伸ばした。
その先がノイズに触れる。
黒い煙が、ビクリと震えた。
「……!」
リノの胸に、感情が流れ込んでくる。
さびしい。
苦しい。
どうして私だけ。
泣きたくない。
でも泣きたい。
助けて。
「っ……。」
リノは歯を食いしばる。
これは敵じゃない。
誰かの悲しみだ。
「大丈夫。」
リノは小さく言った。
「もう、黒くならなくていいよ。」
灰色リボンが優しく光る。
絡まった糸をほどくように。
黒い煙が少しずつ薄くなっていく。
ノイズの牙が消える。
爪が消える。
最後に、小さな青い光だけが残った。
ふわり。
その光はリノの手のひらへ落ちる。
「感情に……戻った……?」
ミミルが呆然と呟く。
リノも、自分の手を見つめた。
青い光は震えていた。
まだ悲しい。
でも、もう人を傷つける形ではなかった。
『やはり。』
ミカドの声が響く。
『あなたは壊す力ではない。』
『戻す力だ。』
リノは顔を上げる。
「だったら。」
青い光をそっと胸に抱く。
「この力で、あなたたちが奪った心を全部返す。」
初めて。
ミカドの影が少し動いた。
『返す。』
『面白い。』
「面白くなんかない!」
『いいでしょう。』
ミカドの声が、静かに低くなる。
『では、試してみましょうか。』
床が震えた。
リノの前。
白い床が左右に開いていく。
「何……?」
地下から巨大なガラスケースが現れた。
中には、無数の小瓶。
赤。
青。
桃。
緑。
紫。
色とりどりの光が閉じ込められている。
どれも綺麗で。
だからこそ、恐ろしかった。
「こんなに……。」
ミミルの声が震える。
「こんなにたくさん……。」
リノはケースへ近づく。
その中央。
まだ空の瓶が一つあった。
そこには黄色いラベルが貼られている。
《黄色代表》
リノの息が止まった。
「こはくちゃんの……?」
『まだ奪ってはいません。』
ミカドの声が響く。
『ですが、準備は整っています。』
部屋の壁に、赤い文字が浮かんだ。
《黄色代表 感情抽出準備完了》
* * *
「っ……!」
こはくの拘束具が突然光った。
「な、何……!」
手首だけではない。
足元。
首元。
胸の黒い値札。
すべてが一斉に光を放つ。
身体の奥から、何かを引きずり出されるような感覚。
「いや……!」
こはくは膝をついた。
頭の中に、いくつもの記憶が浮かぶ。
代表になった日。
誰にも「怖くない?」と聞いてもらえなかった日。
パチルと初めて出会った日。
ひまりを庇った瞬間。
そして。
リノの声。
『絶対に迎えに行く!!』
「リノ……!」
* * *
「やめて!!」
リノは叫んだ。
ガラスケースに手を伸ばす。
しかし、透明な壁に弾かれる。
「こはくちゃんに何するの!」
『取引です。』
リノの動きが止まる。
『灰色リボン。』
『あなたがここに残るなら、黄色代表は返しましょう。』
「……。」
ミミルが叫ぶ。
「ダメだよ、リノ!」
「そんなの絶対ウソだよ!」
リノは分かっていた。
これは罠だ。
信じてはいけない。
それでも。
目の前の文字が消えない。
《黄色代表 感情抽出準備完了》
こはくが苦しんでいる。
自分を信じて待っている。
そう思うだけで、胸が痛かった。
『君ひとりで、ひとりを救える。』
ミカドの声が静かに響く。
『悪い取引ではないでしょう。』
「……っ。」
リノの指が震える。
ミミルがリノの頬へ体を寄せた。
「リノ。」
「お願い。」
「一人で決めないで。」
その言葉に、リノの瞳が揺れる。
一人で決めない。
一人で背負わない。
そう約束したはずなのに。
でも。
今この瞬間。
こはくが苦しんでいるなら。
「私は……。」
ミカドの影が、白い壁からゆっくり伸びる。
まるで手を差し出すように。
『さあ。』
『灰色リボン。』
壁一面の黒い値札に、文字が浮かび始めた。
《査定開始》
《灰色リボン 単独契約候補》
《心価値 測定不能》
リノの灰色リボンが、風もないのに激しく揺れる。
ミカドの声が、静かに告げた。
『君の心に、値段をつける時間です。』
白い部屋の扉が、背後で音もなく閉じた。




