第52話 心に値段はつけられない
神殿を包んでいた静けさは、まだ消えていなかった。
砕け散った黒い値札。
その欠片が、床の上で静かに光を失っていく。
リノは胸元の灰色リボンを見つめた。
「……。」
この力があるから狙われる。
私さえいなければ。
そんな考えが、胸の奥をよぎる。
「リノ。」
ミミルが心配そうに見上げた。
「また変なこと考えてる?」
リノは小さく笑う。
「そんなことないよ。」
けれど、その笑顔はどこか無理をしていた。
一歩。
また一歩。
みんなから少し距離を取ろうとする。
その手首を、誰かが掴んだ。
「また。」
リノが振り向く。
ひまりだった。
「一人で行こうとしてる。」
「……。」
「違うよ。」
「違わない。」
ひまりは少しだけ怒ったような顔をする。
「リノはさ。」
「いつもそう。」
「自分だけ我慢すればいいって思ってる。」
リノは答えられなかった。
図星だった。
「だって……。」
「私が狙われてるんだよ。」
「私が離れれば……。」
「違う。」
今度はるりが静かに首を振った。
「私たちは代表だけど。」
「全部、一人ではできないよ。」
こはねも微笑む。
「守ってもらう日だってあります。」
しおんは腕を組んだまま言う。
「助けを求めることは弱さじゃない。」
まひるは優しく笑う。
「怖い時はね。」
「誰かの隣にいていいんだよ。」
リノの目が少し潤む。
「でも……。」
「私なんか……。」
その言葉を遮るように、小さなため息が聞こえた。
「……バカ。」
こはくだった。
腕を組んだまま、リノを見つめる。
「灰色だからって。」
「全部背負う気?」
リノは黙る。
こはくは少しだけ目を逸らした。
「そんなの。」
「代表失格。」
神殿が静かになる。
誰も言葉を挟まない。
こはくは珍しく、少しだけ困ったように笑った。
「私ね。」
その声は、今までで一番小さかった。
「代表になった日。」
「誰にも『おめでとう』って言われなかった。」
リノたちは驚いてこはくを見る。
「みんな。」
「強いね。」
「すごいね。」
「頼りになるね。」
「そんなことばっかり。」
こはくは苦笑した。
「でもさ。」
「誰も。」
「怖くない?」
「……って聞いてくれなかった。」
静かな風が神殿を吹き抜ける。
パチルだけが、悲しそうに目を伏せていた。
「毎日。」
「失敗したらどうしようって思ってた。」
「仲間を守れなかったらどうしようって。」
「代表なのに。」
「怖いって言えなかった。」
ひまりは、ゆっくりこはくの前へ歩いていく。
そして。
優しく笑った。
「じゃあ。」
「今、聞くね。」
こはくが顔を上げる。
ひまりは真っ直ぐ目を見て言った。
「怖い?」
その一言で。
こはくの瞳が揺れた。
笑おうとする。
でも笑えない。
唇が震える。
そして。
小さく頷いた。
「……怖い。」
涙が一粒だけ落ちた。
パチルは何も言わず、こはくの肩へ飛び乗る。
「大丈夫。」
「ボクがいる。」
こはくは目を閉じ、小さく笑った。
「うん。」
その様子を見て、るりも少し照れながら笑う。
「実はね。」
「私も。」
「代表になった日は眠れなかった。」
こはねも頷く。
「私もです。」
「みんなを守れるか不安でした。」
しおんは少しだけ視線を逸らす。
「今でも。」
「怖い。」
「でも。」
「だからこそ。」
「仲間が必要。」
まひるはリノの手をそっと握る。
「怖いのは。」
「一人だから。」
「一緒なら。」
「少しだけ頑張れる。」
リノはもう我慢できなかった。
ぽろり。
涙が頬を伝う。
「私。」
静かに話し始める。
「歩けなくなった時。」
「もう。」
「終わったって思ってた。」
誰も口を挟まない。
「みんなの前では笑ってた。」
「大丈夫って言ってた。」
「でも。」
リノは涙をぬぐう。
「夜になると。」
「一人で泣いてた。」
神殿は静まり返る。
ひまりがゆっくり近付く。
そして。
何も言わずにリノを抱きしめた。
「もう。」
優しい声。
「一人で泣かなくていい。」
リノはとうとう泣き崩れた。
「……うん。」
「うん……!」
その姿を見たこはくは、不器用に近付く。
「泣くな。」
リノは笑いながら首を振る。
「泣いてない。」
「泣いてる。」
「……うん。」
そのやり取りに、みんなが少しだけ笑った。
こはくは照れくさそうに手を差し出す。
「灰色。」
「え?」
「一人で戦うな。」
「一緒に戦う。」
リノはその手を見つめる。
そして、しっかり握った。
「……ありがとう。」
その瞬間だった。
七人のリボンが、一斉に淡く輝き始める。
赤。
青。
黄。
緑。
桃。
紫。
灰。
七色の光が空へ伸び、一つの大きな光となる。
神殿中が優しい光に包まれた。
星兎たちは息を呑む。
「綺麗……。」
ラピスは目を見開いていた。
「これは……。」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。
「やっと。」
「この時代にも現れた……。」
隣にいた星兎が首を傾げる。
「ラピス様?」
ラピスは静かに微笑んだ。
「……いえ。」
「何でもありません。」
少し離れた場所。
黒い空間の中で。
メイはその光景を見つめていた。
珍しく笑っていない。
静かに呟く。
「綺麗ですね。」
一拍置く。
口元だけがゆっくりと歪む。
「だから。」
「壊したくなる。」
ミカドの声が響く。
「感情エネルギー。」
「過去最高値。」
リゼが淡々と答える。
「回収可能。」
ユキノは嬉しそうに微笑んだ。
「商品が、一番輝く瞬間ですね。」
神殿の外。
誰にも気付かれない場所で。
一枚の黒い値札が、静かに浮かび上がる。
その行き先は。
まだ誰も知らない。
リノは仲間たちを見渡し、涙をぬぐった。
そして、小さく笑う。
「私たちの心は。」
リボンを握る。
「誰にも。」
「売らせない。」
七人は同時に頷いた。
その誓いが、これから訪れる大きな試練の前の、最後の穏やかな時間になることを――
まだ誰も知らなかった。




