第48話 封印された記憶
石門の奥へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
さっきまでの星兎の里は、星明かりに包まれた優しい場所だった。
丸い屋根の家。
焼きたての星パン。
子どもの星兎たちの笑い声。
けれど、この門の向こうには、その温かさがひとつもなかった。
あるのは、冷たい霧。
砕けた結晶。
崩れた建物。
そして、長い間だれにも触れられなかったような、重たい沈黙だった。
「ここが……禁止区域……」
リノは思わず足を止めた。
地面には、ひび割れた石畳が続いている。
その両側には、倒れた柱や壊れた装置が散らばっていた。
壁には古い魔法陣が刻まれている。
けれど、そのほとんどは欠けていて、今にも消えてしまいそうだった。
ひまりが小さく息をのむ。
「本当に、同じ里の中なの……?」
るりも、いつもの明るい声を出せずにいた。
「なんか……寒いね」
ポルルがるりのそばへ寄る。
「ここには、たくさんの記憶が残っているからね」
「記憶?」
「楽しい記憶だけじゃない。後悔や、悲しみや、まだ終わっていない願いも」
その言葉に、リノの胸元の灰色リボンが、かすかに揺れた。
リノはそっとリボンに手を添える。
また、聞こえる気がした。
遠くから。
誰かが。
呼んでいるような気がした。
「リノ?」
ミミルが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫」
リノは小さく頷いた。
けれど、その声はどこか曖昧だった。
ラピスは一行の先頭に立ち、静かに告げる。
「この先は、かつてキャンディ研究が行われていた施設です」
「研究……」
ひまりの表情が険しくなる。
「人の心を売るための?」
「最初から、そうだったわけではありません」
ラピスはゆっくり首を横に振った。
「始まりは、救済でした」
その言葉に、リノは顔を上げた。
「救済……?」
「はい」
ラピスは崩れた建物の方へ歩き出す。
「心が壊れてしまうほどの苦しみを、一時的に取り出す。悲しみに押し潰されそうな少女たちを、少しでも守る。そのための研究でした」
リノは息を呑んだ。
その考え方は、天城先生に似ていた。
苦しむくらいなら。
傷つくくらいなら。
いっそ、心を眠らせてしまえばいい。
間違っている。
でも、その始まりには、誰かを守りたいという願いがあったのかもしれない。
「……天城先生も、その研究に関わっていたんですか?」
ラピスは少しだけ黙った。
そして、短く答える。
「直接ではありません。けれど、彼の思想の根にあるものは、この研究と無関係ではないでしょう」
ミミルが小さく呟く。
「救うための力が、どうしてあんな黒いキャンディになったの……?」
ラピスは足を止めた。
目の前には、半分崩れた研究棟があった。
入口には、割れた看板が残っている。
文字はかすれていて、すべては読めない。
けれど、そこには確かにこう刻まれていた。
感情保管研究室
リノたちは無言で、その中へ入った。
*
研究室の中は、時間が止まったようだった。
床には割れたガラス。
壁には古い記録紙。
奥には、空っぽのカプセルがいくつも並んでいる。
そのひとつひとつには、小さなラベルが貼られていた。
悲しみ
後悔
恐怖
願い
ひまりがラベルを見つめ、拳を握った。
「気持ちに名前をつけて、保管してたってこと……?」
「初期の目的は、あくまで一時保管でした」
ラピスが答える。
「少女が耐えきれなくなった感情を、壊れないように預かる。落ち着いたら、本人へ返す。そのはずだったのです」
「そのはずだった……」
るりが不安そうに繰り返す。
ラピスは研究室の中央へ進んだ。
そこには、壊れかけた丸い装置があった。
水晶のような画面が割れ、内部から細い光の線が漏れている。
「記録装置です。まだ動くかもしれません」
ラピスが前足をかざす。
銀色の魔法陣が装置の表面へ広がった。
一瞬、装置は沈黙した。
だが、次の瞬間。
ざざっ。
空中に、淡い映像が浮かび上がった。
ノイズ混じりの古い記録。
そこには、白衣を着た星兎や研究者たちが映っていた。
映像の中の一人が、嬉しそうに語っている。
「成功だ。感情を一時的に結晶化し、安全に保管できた」
別の研究者が頷く。
「これで、心が壊れる前に救える子が増える」
「痛みを取り出し、落ち着いたあと本人へ返す。これなら、魔法少女たちを守れる」
リノは映像を見つめた。
そこに映る研究者たちの表情に、悪意はなかった。
むしろ、希望に満ちていた。
誰かを救える。
失わずに済む。
そんな光が、確かにあった。
でも。
映像は途中で大きく乱れた。
ざざっ。
画面の色が暗くなる。
声が変わる。
「強い感情ほど、結晶の純度が高い」
「特に絶望と未練は、出力が大きい」
「保存だけではもったいない」
ひまりの目が鋭くなる。
「今の……」
映像の中で、誰かが笑った。
「これは、売れる」
空気が凍った。
るりが小さく呟く。
「売れる……?」
「苦しみを取り除いてやるんだ。相手も楽になる。こちらも価値を得る。何が悪い?」
「願い、後悔、絶望。どれも希少な資源だ」
「特に魔法少女の心は、高品質だ」
その言葉を聞いた瞬間、ひまりが前へ出た。
「ふざけないで……!」
炎が、ひまりの赤いリボンの端にちらりと宿る。
「人の気持ちを、資源とか、品質とか……!」
るりも顔を伏せた。
「願いって、そんなふうに並べて売るものじゃないよ……」
リノは何も言えなかった。
胸が苦しい。
映像の中で、眠るように倒れた少女たちが映った。
その周囲に、透明なカプセル。
取り出された感情は、色とりどりの小さなキャンディへと変わっていく。
最初は淡い光を放っていた。
けれど、次第に色は濁り、黒く染まっていく。
ラピスが静かに目を伏せる。
「こうして、救済のための研究は、商品を生む技術に変えられてしまいました」
ミミルが震える声で言う。
「ひどい……」
ポルルも低く呟いた。
「だから星兎たちは、この研究を封印したんだね」
「はい」
ラピスは頷いた。
「ですが、すべてを封じられたわけではありませんでした。技術の一部は外へ流れ、やがて組織が生まれた」
「ノワール・キャンディ商会……」
リノがその名を呟く。
ラピスの瞳がわずかに細くなる。
「彼らは、自分たちを商会と呼びます。ですが実態は、人の心を商品として扱う犯罪組織です」
「天城先生は……」
リノは映像から目を離せないまま呟いた。
「この組織を知っていたんですよね」
「知っていたでしょう」
ラピスは答えた。
「そして、拒んだ」
リノの脳裏に、あの人の声がよみがえる。
――あなたの未来を、いつか私にも見せてください。
天城先生は間違っていた。
でも。
人の心に値段をつけるような人ではなかった。
その違いだけは、リノにも分かった。
*
記録装置を離れ、さらに奥へ進む。
廊下は崩れかけていて、足元には細かい結晶片が散らばっていた。
進むたびに、りん、と小さな音が鳴る。
まるで割れた星を踏んでいるようだった。
「ねぇ、ラピス様」
るりが不安そうに尋ねる。
「この奥には、何があるの?」
ラピスは答えるまでに、少し時間を置いた。
「封印された記憶の中心です」
「中心……?」
「かつてこの場所で、最後まで保管されていた感情の結晶。それが眠っています」
その瞬間。
リノの胸元が熱くなった。
灰色リボンが、淡く光り始める。
「リノ!」
ミミルが驚いて声を上げる。
「また光ってる!」
リノは胸を押さえた。
声が聞こえる。
今度は、はっきりと。
助けて。
わたしたちは、まだここにいる。
「……いる」
リノは呟いた。
「誰かが、奥にいる」
ひまりが心配そうに近づく。
「リノちゃん、大丈夫?」
「うん。でも、聞こえるの」
「声が?」
リノは頷いた。
「私を呼んでる」
ラピスの表情が、わずかに変わった。
「灰色リボンだからこそ、反応しているのかもしれません」
「どういうことですか?」
「灰色は、まだどちらにも染まりきらない色。失われた心と、未来へ進もうとする心。その両方に触れられるのかもしれません」
リノは奥を見つめた。
怖くないわけじゃない。
でも、放っておけない。
助けて。
その声が、自分の中にまっすぐ届いていた。
「行きます」
リノは言った。
「呼んでるなら、確かめたい」
ひまりが笑う。
「うん。私も行く」
るりも小さく手を上げた。
「私も。怖いけど、行く」
ポルルが優しく頷く。
「るりが行くなら、僕も行くよ」
ミミルはリノの肩に乗る。
「もちろん、ボクも」
ラピスは静かに目を閉じたあと、歩き出した。
「では、進みましょう」
*
最奥にあったのは、巨大な円形の部屋だった。
天井は高く、崩れた隙間から星の光が差し込んでいる。
中央には、大きなクリスタルがあった。
人の背丈よりもずっと大きい。
けれど、その表面には無数のひびが入っていた。
中には、ぼんやりと少女の影が見える。
長い髪。
閉じた瞳。
胸元に結ばれているはずのリボンは、影に隠れて見えない。
「この子は……?」
リノが近づこうとした瞬間、ラピスが制した。
「近づきすぎてはいけません」
「でも……」
「このクリスタルは、まだ完全に眠っているわけではありません」
ラピスの声は硬かった。
「中に残された感情が、外へ干渉する可能性があります」
リノは足を止めた。
その時、足元に古い記録板が落ちていることに気づいた。
ほとんど砕けていたが、一部だけ文字が残っている。
リノはそっと拾い上げた。
そこには、かすれた文字でこう書かれていた。
被験記録:白乃――
「白乃……?」
リノが読み上げた瞬間、ラピスの表情が変わった。
ひまりも反応する。
「白乃って……」
「白乃ゆら……?」
るりが小さく呟いた。
空気が重くなる。
リノはラピスを見た。
「ラピス様、この名前って……」
ラピスは静かに首を横に振った。
「今ここで、その名を深く追うべきではありません」
「でも」
「リノ」
ラピスの声には、強い響きがあった。
「知るべき時は来ます。ですが、早すぎる真実は、人の心を傷つけることがあります」
リノは何も言えなかった。
クリスタルの中の少女の影が、ほんの少し揺れた気がした。
見つけて。
また声がした。
リノだけに。
「……見つけるよ」
リノは小さく呟いた。
「いつか、ちゃんと」
その時だった。
部屋の奥の壁に、黒い光が走った。
「下がって!」
ポルルが叫ぶ。
壁一面に、黒い紋章が浮かび上がる。
三つの飴玉。
その中央を貫く、値札のような印。
ラピスが険しい顔で言う。
「ノワール・キャンディ商会……!」
ざざっ。
空間が乱れる。
そして、ノイズ混じりの映像が浮かび上がった。
そこから聞こえてきたのは、甘い少女の声だった。
「あーあ、壊されちゃいましたねぇ」
場違いなほど明るい声。
まるで、お菓子屋の店員のように可愛らしい。
けれど、その響きはひどく冷たかった。
「試作品No.7、けっこう可愛かったのになぁ」
ひまりが一歩前へ出る。
「誰……?」
映像の向こうで、少女がくすくすと笑う。
「はじめましてぇ」
黒いノイズの向こうに、ぼんやりと人影が映る。
ふわりとしたツインテール。
キャンディの包み紙のようなリボン。
にこにことした笑顔。
「ノワール・キャンディ商会、販売担当の甘崎メイです♪」
「販売……?」
るりが眉をひそめる。
メイは楽しそうに続けた。
「はいっ。悲しみも、願いも、後悔も」
「ぜーんぶ可愛く包んで、欲しい人へ届けるお仕事です」
リノの背筋に、冷たいものが走る。
「人の気持ちを……売ってるの?」
「売ってるんじゃないですよぉ」
メイはにこりと笑う。
「価値にしてあげてるんです」
ひまりの赤いリボンが、怒りに反応するように揺れた。
「そんなの、同じでしょ!」
「えー? 違いますよぉ」
メイは首を傾げる。
「だって、つらい気持ちを持ってるだけじゃ、苦しいだけじゃないですか」
「でもキャンディにすれば、誰かが欲しがってくれる」
「ちゃんと値段もつく」
「ね? すごく素敵なお仕事でしょう?」
「素敵なんかじゃない!」
るりが叫んだ。
その声に、メイは少しだけ目を細める。
「あら。青リボン代表さんもいるんですねぇ」
「涙の味は人気なんですよ。青はきっと、きれいな味になりますね」
ポルルがるりの前へ出る。
「るりを商品みたいに言わないで」
「商品みたい、じゃなくて」
メイは笑顔のまま答える。
「商品になるかもしれない、ですよ♪」
リノは拳を握った。
「私たちは、売り物じゃない」
メイの視線が、ゆっくりとリノへ向く。
映像越しなのに、見られた瞬間、胸の奥を覗き込まれたような気がした。
「リノさん」
「灰色リボン代表候補さん」
灰色リボンが、びくりと震える。
「あなたの心、きっと素敵な味がしますよ」
メイはうっとりとした声で言う。
「希望と絶望」
「光と闇」
「選びきれないまま、それでも未来へ進もうとする心」
「未分類の商品は、いつだって価値が跳ね上がるんです」
「私は……」
リノはメイを睨み返した。
「商品じゃない」
一文字ずつ、強く言う。
「私の心に、あなたたちが値段をつけないで」
メイは一瞬だけ黙った。
そして。
「ふふ」
楽しそうに笑った。
「いいですねぇ」
「そういう強い拒絶も、あとで甘くなるんです」
その時、通信の奥から低い男の声が聞こえた。
「メイ。喋りすぎだ」
メイの表情が、ぱっと明るくなる。
「はぁい、ミカド様」
リノたちは息を呑んだ。
ミカド。
それが、この組織の中心にいる人物の名。
メイは最後に、画面越しに小さく手を振った。
「ではでは、またお会いしましょう」
「次は、ちゃんと査定させてくださいね♪」
黒い紋章が大きく歪む。
ぷつん。
通信は途切れた。
静寂。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
やがて、ひまりが震える声で呟く。
「最低……」
るりも顔を伏せる。
「笑ってた……」
「人の心を売るって言いながら、ずっと笑ってた……」
リノは黒い紋章が消えた壁を見つめた。
怒り。
恐怖。
そして、少しの悔しさ。
自分の心を勝手に見られたような不快感が、胸の奥に残っている。
ミミルがそっとリノの肩に寄り添った。
「リノ、大丈夫?」
「うん」
リノは頷いた。
「大丈夫」
そして、もう一度言った。
「私は、売り物じゃない」
その瞬間。
中央の巨大クリスタルに、ぴしりと新しい亀裂が入った。
「え……?」
部屋全体が揺れ始める。
ラピスが叫んだ。
「通信の干渉で、封印が不安定になっています!」
床の魔法陣が赤く点滅する。
天井から結晶片が落ちてきた。
「全員、外へ!」
ひまりがるりの手を取る。
「走るよ!」
「う、うん!」
リノもミミルを抱きしめ、出口へ向かって走り出す。
背後で、クリスタルが震えている。
その中の少女の影が、ほんの少しだけ動いた。
リノは振り返った。
少女の目が。
開いていた。
見つけて。
声が、はっきりと届いた。
わたしの名前を。
「……!」
リノは足を止めかける。
けれど、ミミルが叫んだ。
「リノ、今は出なきゃ!」
「うん……!」
リノは歯を食いしばり、前を向いた。
崩れゆく研究室を抜け、冷たい霧の廊下を走る。
石門の光が見えた。
外へ飛び出した瞬間、背後で大きな音が響く。
封印の門が再び閉じる。
霧が渦を巻き、何も見えなくなった。
リノは荒い息を整えながら、閉ざされた石門を見つめた。
胸元の灰色リボンは、まだ淡く光っている。
「名前を……」
リノは小さく呟いた。
「見つけてって、言ってた」
ラピスは何も言わなかった。
ただ、閉ざされた門を見つめている。
その横顔は、どこか苦しそうだった。
星兎の里の夜空に、再び静けさが戻る。
けれどリノには、もうこの静けさが、ただ穏やかなものには思えなかった。
門の向こうには、まだ誰かがいる。
忘れられた記憶がある。
そして、心を商品として扱う者たちが、リノたちを見ている。
リノは胸元の灰色リボンを握った。
「見つける」
小さく、けれど確かに言った。
「絶対に」




