第46話 星屑の村
「それでは、里をご案内しましょう」
ラピスの静かな声とともに、集まっていた星兎たちが左右へ道を開けた。
リノたちは少し緊張しながら、星兎の里の奥へと足を踏み入れる。
「わぁ……!」
広がっていたのは、まるで絵本の中から切り取ったような景色だった。
頭上には夜空が続いている。けれど、暗くはない。
大小さまざまな星がゆっくりと流れ、淡い光を草原へ降らせていた。
丸い屋根の家々には、月や星をかたどった飾りが並んでいる。空中には透明な道が幾重にも浮かび、その上を小さな星兎たちが楽しそうに駆け回っていた。
風が吹くたび、軒先に吊るされた星の飾りが触れ合う。
ちりん。
ちりん。
透き通った音が、里のあちこちから聞こえてくる。
「ここが……星兎の里」
リノがつぶやくと、肩に乗っていたミミルが大きく息を吸った。
「懐かしい匂いがする」
「匂い?」
「星の草と、焼きたてのパンと……あと、先生に怒られたときの匂い」
「最後のは分からないよ」
リノが笑うと、ミミルは気まずそうに視線をそらした。
「細かいことはいいの!」
その少し前を歩いていたひまりが、振り返って笑う。
「ミミル、絶対何かやらかしてたでしょ」
「やらかしてないよ! ちょっと宿題を忘れたり、授業中に寝たり、勝手にお菓子を食べたりしただけ!」
ひまりの隣にいたピリカが、呆れたように耳を垂らした。
「それを、やらかしたと言うのよ」
「昔の話だから!」
「今もあまり変わっていない気がするけど」
ポルルが穏やかに付け加えると、るりが勢いよく頷いた。
「うんうん。ミミルちゃん、さっきも入り口でつまずいてたもんねー」
「それは関係ないでしょ!」
笑い声が、星明かりの下へ広がっていく。
里へ来たばかりの緊張が、ほんの少しずつほどけていった。
*
「星兎たちも、皆さんと同じように暮らしています」
先頭を歩くラピスが、里の建物を示しながら説明する。
「食事をし、学び、遊び、家族や友人と過ごす。そしていつか、共に歩む魔法少女と出会う日を待つのです」
「星兎って、生まれたときから相手が決まってるわけじゃないんだ」
ひまりが尋ねると、ラピスはゆっくり首を振った。
「契約は、名簿を見て決められるものではありません。互いの願いや心が触れたとき、初めて結ばれるものです」
リノは隣に浮かぶミミルを見る。
ミミルもこちらを見て、小さく笑った。
一度は切れてしまった契約。
それでも、二人はもう一度、自分たちの意思で結び直した。
初めから決められていたからではない。
離れたくないと、互いに願ったから。
リノがそっと微笑むと、ミミルは照れくさそうに前を向いた。
「あっ!」
突然、るりが大きな声を上げた。
「いい匂い!」
るりが鼻をひくひくさせる。
石畳の先には、小さな煙突の付いた店があった。
店先には星形のパンや三日月形のクッキーが並び、焼きたての湯気がふわりと立ち上っている。
看板に描かれていたのは、大きなパンを抱える星兎だった。
「パン屋さんだー!」
「るり、走ると危ないよ」
ポルルが声をかけたときには、るりはすでに店先まで駆けていた。
「おいしそう! これ全部食べていいの?」
「全部は駄目だよ」
「じゃあ半分!」
「減らせばいいという話ではないんだ」
ポルルが困ったように笑う。
そのとき、ミミルが店の奥をのぞき込み、目を丸くした。
「……あっ!」
大きな体をした茶色い星兎が、焼き上がったパンを運んでいた。
「おじさん!」
その呼び声に、店主の耳がぴんと立つ。
「その声は……ミミルか?」
「久しぶりー!」
ミミルが店の中へ飛び込む。
店主は目を細めると、粉の付いた前足でミミルの頭を乱暴に撫でた。
「ずいぶん長い旅になったな」
「うん。いろいろあったけど……ちゃんと帰ってきたよ」
「ああ」
店主は短く答え、リノたちへ視線を移した。
「その子が、お前の魔法少女か」
「うん! リノだよ」
リノは慌てて頭を下げる。
「初めまして。ミミルには、いつも助けてもらっています」
「そうかそうか」
店主は嬉しそうに笑った。
「昔は授業を抜け出して、売り物のパンをつまみ食いしていたミミルがなぁ」
「ちょっと待って! それ言わなくていいから!」
「やっぱり、やらかしてたんじゃん」
ひまりが笑う。
「一個だけだよ!」
「三日続けてな」
「おじさん!」
店内が笑い声に包まれた。
店主は焼きたての星形パンを籠に入れ、全員へ差し出す。
「里まで来た客人に、何も出さないわけにはいかん。食べていきな」
「やったー!」
るりが真っ先にパンを手に取る。
一口かじると、その頬が一気に緩んだ。
「ふわふわで、あまーい!」
「本当だ。おいしい!」
ひまりも目を輝かせる。
リノも小さな星形パンを口へ運んだ。
表面は少し香ばしく、中は雲のように柔らかい。噛むたびに優しい甘さが広がり、不思議と胸の奥まで温かくなっていく。
「……おいしいです」
「それはよかった」
店主は嬉しそうに頷いた。
その横で、るりは二個目へ手を伸ばしている。
「るり」
ポルルが優しく呼び止めた。
るりの手が空中で止まる。
「……一個だけ?」
「あとで皆と分けようね」
「はーい」
残念そうに返事をしながらも、るりは籠から目を離さなかった。
*
パン屋を出ると、小さな広場へ着いた。
中央には星の形をした噴水があり、青白い水が重力に逆らうように空へ流れている。
その周りを、十匹ほどの子どもの星兎たちが駆け回っていた。
「まてまてー!」
「こっちだよー!」
「あっ、転んだ!」
一匹の星兎が転ぶと、周りの子たちが一斉に集まって起こしてやる。
その様子を見たるりの瞳が、きらりと輝いた。
「かわいい……!」
「るり?」
「一緒に遊んでくる!」
ポルルが止める間もなく、るりは子どもたちの輪へ飛び込んだ。
「るりお姉ちゃんが鬼ねー!」
「いいよー! つかまえちゃうぞー!」
「きゃー!」
子どもたちと同じくらい楽しそうに走り始める。
「どっちが子どもか分からないね」
ひまりが笑うと、ピリカも小さく頷いた。
「けれど、ああ見えて青リボンの代表なのよね」
「その落差がすごいよね」
リノも微笑んだ。
だが次の瞬間、胸元に刺さるような視線を感じた。
広場の端。
店の窓。
通りを歩いていた星兎たち。
皆がこちらを見ている。
正確には、リノの胸元に結ばれた灰色のリボンを。
「灰色……」
「本当に存在していたんだ」
「魔法会議で、新しい代表枠が作られたって……」
「でも、あの色は……」
ひそひそと交わされる声。
強い悪意があるわけではない。
けれど、純粋な好奇心だけでもなかった。
戸惑い。
警戒。
そして、わずかな恐れ。
リノは無意識に、胸元のリボンを手で覆った。
黒でもない。
白でもない。
光と闇、どちらにも染まりきらなかった色。
自分で選んだ未来を表す色。
それでも、知らない者から見れば、何を意味するのか分からない不気味なものなのかもしれない。
「リノちゃん」
ひまりがリノのすぐ隣へ立った。
「大丈夫?」
「うん。平気だよ」
そう答えたものの、声は少しだけ小さくなった。
ひまりは周囲の星兎たちへ向き直る。
「リノちゃんは、私たちの大切な仲間だから」
いつもの明るい声。
けれど、その言葉には迷いがなかった。
「灰色だからって、怖い子じゃないよ。誰よりも悩んで、それでも自分の未来を選んだ子なんだから」
広場が静かになる。
近くにいた星兎の一匹が、気まずそうに耳を下げた。
「……ごめんなさい。じろじろ見てしまって」
「悪く言うつもりはなかったんです」
リノは首を横に振る。
「大丈夫です。私だって、このリボンのことを全部分かっているわけじゃないから」
ラピスが静かに前へ出た。
「灰色リボンは、長い星兎の歴史にも記録がありません」
銀色の瞳が、リノをまっすぐ見つめる。
「存在しなかったものを、すぐに理解しろというのは難しいでしょう。しかし、知らないことと、拒絶することは同じではありません」
周囲の星兎たちは申し訳なさそうに頭を下げ、それぞれの場所へ戻っていった。
リノは胸元のリボンから手を離す。
「ありがとう、ひまりちゃん」
「別に、お礼を言われるようなことじゃないよ」
ひまりは照れくさそうに鼻の下をこする。
「仲間なんだから、当たり前じゃん」
その言葉に、リノの胸が少しだけ温かくなった。
*
次に案内されたのは、里の中央に建つ大きな建物だった。
丸い屋根の上には時計塔がそびえ、その先端では小さな星がくるくると回っている。
開かれた窓から、元気な声が聞こえてきた。
「ここは学校です」
ラピスが扉を開く。
中には、何十匹もの幼い星兎たちが机を並べて座っていた。
黒板に大きく書かれているのは、
『魔法少女を支える心』
という文字だった。
教壇には、丸い眼鏡をかけた年配の星兎が立っている。
「契約とは、魔法少女へ力を与えるだけのものではありません」
落ち着いた声が、教室に響く。
「喜びを分け合い、悲しみに寄り添い、間違ったときには止めること。たとえ意見が違っても、相手の心を決めつけてはいけません」
子どもたちは真剣な表情で話を聞いていた。
「星兎も勉強するんだね」
リノが小声で言うと、ミミルがそっとリノの後ろへ隠れた。
「ミミル?」
「しーっ」
「どうしたの?」
「先生だよ」
「先生?」
「昔、すっごく怒られた先生」
その瞬間。
教壇にいた教師の耳がぴくりと動いた。
眼鏡の奥の目が、まっすぐミミルへ向けられる。
「ミミル」
「ひゃいっ!」
妙に裏返った返事が、教室中へ響いた。
「久しぶりですね」
「お、お久しぶりです!」
ミミルは背筋を伸ばし、宙に浮かんだまま直立する。
教師は静かに眼鏡を押し上げた。
「里の外でも、授業中に眠ってはいませんでしたか?」
「授業がないので大丈夫です!」
「質問への答えになっていませんね」
子どもの星兎たちが一斉に笑った。
ひまりも口元を押さえている。
「ミミル、顔真っ赤」
「笑わないでよ!」
教師もわずかに目を細めた。
「立派な相棒になったようで、安心しました」
「先生……」
「ただし、里へ滞在する間に、未提出の課題を――」
「行こう、リノ! 次の場所に行こう!」
ミミルはリノの背中を必死に押し始める。
「ちょっと、まだ話の途中だよ」
「いいの! 先生の話は長いから!」
「ミミル。聞こえていますよ」
「ごめんなさーい!」
笑い声に送られながら、ミミルは逃げるように学校を後にした。
*
学校から離れるにつれ、家の数が少なくなっていった。
賑やかな声も聞こえなくなり、風の音だけが耳に残る。
やがてラピスが足を止めた。
その先には、巨大な石門がそびえていた。
古びた門には太い鎖が何重にも巻かれ、表面を淡い光の結界が覆っている。
門の向こう側は白い霧に包まれ、その奥を見通すことはできない。
ただ、霧の隙間から時折、砕けた結晶のようなものがきらりと光っていた。
「ここは……?」
リノが尋ねる。
ラピスの表情から、先ほどまでの穏やかさが消えた。
「立ち入りを禁じられている区域です」
「どうして?」
るりが首を傾げる。
「この里が、最も多くのものを失った時代。その記録と傷跡が、門の向こうに残されています」
「傷跡……」
ひまりが、霧の奥を見つめる。
ラピスは石門へ視線を向けたまま続けた。
「かつて、魔法少女と星兎の間で大きな対立が起きました。守るとは何か。救うとは何か。その答えを巡り、多くの者が異なる道を選んだのです」
リノの脳裏に、天城先生の姿が浮かんだ。
苦しむくらいなら、眠らせた方がいい。
心を抜き取り、傷つかなくなった少女たちを、彼は救われた者として扱っていた。
間違っている。
それでも、天城先生の言葉には、ただ人を傷つけたい者の冷たさとは違うものがあった。
「あの……」
リノは迷いながら尋ねる。
「天城先生のそばにいる人たちも、その対立と関係があるんですか?」
ラピスはすぐには答えなかった。
しばらく門を見つめたあと、静かに口を開く。
「彼のもとへ集った者たちは、初めから誰かを傷つけるために歩いていたわけではありません」
ひまりたちが黙って耳を傾ける。
「大切な人を失った者。自分の選択を悔やみ続けた者。何度立ち上がっても、再び絶望に引き戻された者」
ラピスの銀色の瞳が、わずかに伏せられる。
「救いを求めた先に、天城という人物がいた。それだけなのかもしれません」
「じゃあ、あの人たちは悪くないの?」
るりが尋ねる。
ラピスは首を横に振った。
「事情があれば、行いのすべてが許されるわけではありません。しかし、相手を悪と決めつければ、その者がなぜそこに立っているのかを見失います」
ポルルが穏やかに言葉を重ねる。
「相手を理解することと、相手に従うことも違うからね」
「そっか……」
るりは難しそうに眉を寄せた。
「分かるような、分からないような……」
「るりは、まず聞こうとするだけで十分だよ」
「うん!」
るりはすぐに明るい表情へ戻った。
そのときだった。
ピピピピピッ――!
甲高い警報音が、静かな空気を切り裂いた。
「えっ!?」
リノが周囲を見回す。
里の上空へ、青白い光の線が一斉に走った。
次の瞬間、半透明の画面がいくつも空中へ展開される。
星明かりに照らされていた道や建物が赤い警告灯に染まり、空には巨大な魔法陣が何重にも浮かび上がった。
画面に赤い文字が点滅する。
《スター・アラート起動》
【緊急警報】
外縁結界・第三層の損傷を確認
ノイズ反応を検知
全住民は指定区域へ避難してください
「ノイズ!?」
ひまりが叫ぶ。
里の星兎たちが一斉に動き始めた。
「子どもたちを避難所へ!」
「結界維持班は北側へ急いで!」
「学校の人数を確認して!」
さっきまでの穏やかな里が、ほんの数秒で緊迫した空気へ変わっていく。
ラピスが空中の画面へ前足をかざした。
地図が表示され、赤い点が激しく点滅する。
「侵入地点は……」
ラピスの目が見開かれた。
「この禁止区域のすぐ近くです」
画面が突然、大きく乱れる。
ざざっ、と黒い砂嵐が走り、赤かった表示が暗く染まった。
【UNKNOWN】
未登録ノイズ反応
脅威レベル:測定不能
通常個体との一致率――0%
「通常個体との一致率、ゼロ……?」
ミミルの声が震える。
ポルルは目を閉じ、耳をぴんと立てた。
「来るよ」
地面が大きく揺れた。
石門の近くで空間が歪み、黒い裂け目が生まれる。
ばりばりと不快な音を立てながら、裂け目の中から巨大な腕が伸びてきた。
「下がって!」
ラピスが叫ぶ。
黒い影が、地面へ降り立つ。
通常のノイズより、二回り以上大きい。
獣のような四本の脚。
歪んだ人の上半身。
全身には鋭い黒い結晶が突き刺さり、胸の中心では紫色の光が心臓のように脈打っている。
その顔に目はない。
代わりに、横へ裂けた大きな口から黒い霧を吐き出していた。
「グ、ギギ……」
「これが、ノイズ……?」
るりの顔から、いつもの無邪気な笑みが消える。
「違う」
ポルルが低い声で答えた。
「ノイズに、何かが混ぜられている」
怪物はリノたちを見ようともせず、巨大な腕を地面へ突き立てた。
そして、禁止区域の石門へ一直線に駆け出す。
「門を狙ってる!」
ひまりが声を上げた。
ラピスの表情が険しくなる。
「あの門を破壊させてはいけません!」
怪物が腕を振り上げた。
黒い結晶に覆われた拳が、結界へ叩きつけられる。
ドォンッ!
淡い光の膜が激しく揺れ、石門に細い亀裂が走る。
「もう一度攻撃されたら、結界が持ちません!」
ラピスの言葉を聞いたリノは、胸元のリボンを強く握った。
「みんな、止めよう!」
「もちろん!」
ひまりが赤いリボンを掲げる。
るりも一歩前へ出た。
「大切な里だもん。絶対に壊させないよ」
三人は横一列に並ぶ。
リノが息を吸い込んだ。
「くるくる結んで、きらきら光れ!」
灰色のリボンが風に乗り、リノの周囲へ広がっていく。
「涙も勇気も、未来へ結んで! 魔法になあれ!」
光が弾け、衣装が灰色と淡い桃色の輝きに包まれる。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
続いて、ひまりが強く地面を蹴った。
「もう二度と、諦めない!」
赤い炎がリボンの形となり、その体を包み込む。
「赤いリボンに願いを結んで!」
「レッド・リボン・ドレスアップ!」
最後に、るりが両手を胸元で重ねた。
「涙も痛みも、ぜんぶ包んで。」
周囲の空気から水が生まれ、青い帯となって舞い上がる。
「青いリボンに願いを結ぶ。」
「ブルー・リボン・ドレスアップ。」
灰色、赤、青。
三色の光が星兎の里を照らした。
怪物が再び、石門へ拳を振り上げる。
「させないよ!」
るりが手を突き出した。
「ウォーター・プリズム!」
地面から幾本もの水柱が噴き上がる。
水は怪物の腕へ巻き付き、その動きを空中で止めた。
「ひまりちゃん、今!」
「任せて!」
ひまりが炎をまとい、勢いよく跳び上がる。
「フレイム・リボン!」
赤い炎のリボンが空中を走り、怪物の胸元へ直撃する。
激しい爆発。
黒い煙が周囲へ広がった。
「やった?」
ひまりが着地する。
しかし、煙の中で紫色の光が脈打った。
怪物の巨体が、何事もなかったかのように立っている。
炎が当たった場所には傷一つない。
全身を覆う黒い結晶が、赤い光を吸い込むように輝いていた。
「効いてない!?」
「魔法が吸収されています!」
ラピスが叫ぶ。
怪物の体から黒い針が一斉に射出された。
「危ない!」
リノは反射的にリボンを広げる。
「リボン・シールド!」
灰色のリボンが壁となり、鋭い針を弾き返した。
だが、すべては防ぎきれない。
一本がリノの頬をかすめ、背後の地面へ突き刺さる。
「リノ!」
ミミルが叫ぶ。
「大丈夫!」
リノは頬の傷を拭いながら、怪物を見つめる。
黒い結晶が、攻撃を受けるたびに明滅している。
魔法を完全に消しているわけではない。
吸い込んで、体の中へ送っている。
「ミミル、あの結晶……」
「うん。魔力を胸の光に集めてる」
ミミルが怪物の中心を指す。
「だったら、先に結晶を剥がさないと!」
リノは大きく頷いた。
「私が動きを止める。るりちゃん、結晶の隙間に水を入れられる?」
「できるよ!」
るりが笑顔を取り戻す。
「ひまりちゃんは、水が入ったところを一気に熱して!」
「なるほど。中から壊すんだね!」
「うん!」
怪物が再び石門へ走り出す。
リノは正面から駆けた。
「リノ、無茶だよ!」
ミミルの声を背に受けながら、怪物の足元へ滑り込む。
「リボン・スパイラル!」
灰色のリボンが何本も地面を走り、怪物の四本の脚へ絡み付いた。
「グギィィィッ!」
怪物が暴れ、リボンを引きちぎろうとする。
腕へ強い衝撃が走り、リノの体が前へ引かれた。
「まだ……離さない!」
一度失った足。
けれど今は、自分の意思で立っている。
誰かに選ばされた未来ではない。
自分で選んだ足だ。
リノは地面を強く踏みしめた。
「るりちゃん!」
「うん!」
るりが両手を合わせる。
「アクア・スレッド!」
細い水の糸が何百本も生まれ、黒い結晶のわずかな隙間へ入り込んでいく。
怪物の全身が、内側から青く輝いた。
「ひまりちゃん、お願い!」
「いっくよー!」
ひまりが両腕を広げる。
炎が二本のリボンとなり、水の糸を伝って怪物の全身へ駆け抜けた。
「フレイム・バースト!」
一瞬の静寂。
次の瞬間――。
バキバキバキッ!
急激に熱せられた水が膨張し、怪物を覆う黒い結晶を内側から砕いた。
結晶の破片が星空へ舞い上がる。
胸元の紫色の核が、むき出しになった。
「リノちゃん、今だよ!」
「うん!」
リノは絡ませていたリボンを手繰り寄せ、その反動で高く跳び上がる。
怪物の目の前。
紫色の核が不規則に脈打っている。
その奥で、小さな黒い何かが揺れていた。
一瞬だけ、泣き声のようなものが聞こえる。
――たすけて。
「……!」
リノの手が止まりかけた。
けれど怪物は腕を振り上げ、禁止区域の門へ狙いを定める。
今は止めなければならない。
ただ壊すのではない。
中に閉じ込められたものを、解き放つ。
「未来まで、奪わせない!」
灰色のリボンが大きな輪を描き、怪物の全身を包み込む。
「リボン・リンク――フィナーレ!」
まばゆい光が弾けた。
灰色のリボンは核を締め付けるのではなく、複雑に絡まっていた黒い力を一本ずつほどいていく。
紫色の光に亀裂が走った。
「ギ、ギギ……アァァァァッ!」
怪物の絶叫が里中へ響く。
やがてその体は、細かな星の粒となって崩れ始めた。
黒い霧が晴れ、光の粒が空へ昇っていく。
最後の一粒が消えると、里に静寂が戻った。
「……倒した?」
ひまりが肩で息をしながら尋ねる。
「うん」
るりはその場へ座り込み、大きく息を吐いた。
「三人なら、もっと楽に倒せると思ってたぁ……」
「普通のノイズじゃなかったからね」
ポルルがるりのそばへ寄り、その頭を優しく撫でる。
「でも、よく頑張ったよ」
「えへへ」
るりは疲れた顔のまま笑った。
リノも地面へ降り立つ。
張り詰めていた力が抜け、膝が少し揺れた。
ミミルがすぐに飛んでくる。
「リノ! 足は大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと力を使いすぎただけ」
「本当に?」
「本当だよ」
リノが笑うと、ミミルはようやく安心したように息を吐いた。
そのとき。
ころん。
何かが、石畳の上へ落ちた。
全員の視線が集まる。
そこにあったのは、小さなキャンディだった。
包み紙はない。
飴玉そのものが、光を吸い込むような漆黒に染まっている。
表面には細い亀裂があり、そこから黒い霧がわずかに漏れていた。
「キャンディ……?」
リノが近づき、手を伸ばす。
「触れてはいけません!」
ラピスの鋭い声が飛んだ。
リノは驚いて手を止める。
ラピスは慎重に黒いキャンディへ近づくと、周囲に小さな結界を張った。
銀色の光に包まれたキャンディが、空中へ浮かび上がる。
ラピスの顔から、血の気が引いていった。
「そんな……」
「ラピス様?」
ピリカが不安そうに呼びかける。
「これは、ノイズの核ではありません」
ラピスは黒いキャンディを見つめたまま告げる。
「何者かがキャンディを使い、人工的にノイズを変質させたのです」
「誰かが、あのノイズを作ったってこと?」
ひまりの問いに、ラピスは小さく頷く。
「そして、この里の結界を破るよう仕向けた」
ポルルが禁止区域の石門を見る。
門の表面には、怪物の攻撃によって新しい亀裂が生まれていた。
「目的は、やっぱり門の向こう……」
ラピスは何も答えない。
だが、その沈黙が答えのように感じられた。
リノは黒いキャンディから目を離せなかった。
天城先生から渡されたキャンディとは、まるで違う。
先生のキャンディには、苦しみと同時に、どこか人を守ろうとする温かさが残っていた。
目の前のものには、それがない。
あるのは、誰かの心を無理やり押し潰し、道具へ変えたような冷たさだけ。
「これも……天城先生が?」
リノが恐る恐る尋ねる。
ラピスははっきりと首を横に振った。
「いいえ」
迷いのない声だった。
「これは、天城の作るキャンディではありません」
「でも、キャンディを作れる人が、ほかにもいるってこと?」
「正確には――」
ラピスが言葉を続けようとした瞬間、空中の警告画面が再び乱れた。
ざざっ。
黒い線が走り、一瞬だけ見知らぬ紋章が表示される。
円の中に並ぶ、三つの飴玉。
その中央を、値札のような印が貫いている。
表示はすぐに消えた。
「今のは……?」
リノが尋ねる。
ラピスの瞳が険しくなる。
「長老会を招集します」
「ラピス様?」
「この事件は、里への単なる襲撃ではありません」
ラピスは結界に包まれた黒いキャンディを強く見つめる。
「心を商品として扱う者たちが、再び動き始めたのかもしれません」
「心を……商品に?」
ひまりが眉をひそめる。
ラピスはそれ以上答えず、石門へ向き直った。
門の亀裂から、淡い光が漏れている。
その奥で、何かが目を覚まそうとしているかのように。
かすかな音が聞こえた。
それは、遠い昔の子守歌にも似ていた。
リノの胸元で、灰色のリボンが淡く光る。
――やっと来た。
「……え?」
リノは石門を見上げた。
「どうしたの?」
ミミルが尋ねる。
「今、誰かの声が……」
その瞬間、門の向こうの光は消えた。
残ったのは、冷たい霧と静寂だけ。
ラピスはリノを見つめていた。
けれど、その表情から何を考えているのかは読み取れなかった。
*
星兎の里から少し離れた、高い丘。
黒い外套をまとった人物が、遠くの石門を見下ろしていた。
その手には、ひび割れた黒いキャンディが握られている。
「試作品では、あれが限界か」
声に悔しさはない。
むしろ、楽しんでいるようだった。
人物は指先でキャンディを転がす。
「けれど、十分な結果は得られた」
黒い外套の奥で、口元がわずかに持ち上がる。
「星兎の里の結界構造」
「封じられた記録の位置」
「そして――」
遠くに立つリノへ、視線が向けられる。
「灰色リボンの反応」
手の中のキャンディが、音もなく砕けた。
黒い粉が風に乗り、夜空へ溶けていく。
「商品価値は、想定以上かもしれないな」
人物は踵を返す。
その背後の空間に、三つの飴玉が並んだ紋章が浮かび上がった。
「計画を少し早めよう」
黒い裂け目が開き、その姿を飲み込んでいく。
丘には、誰もいなくなった。
ただ一枚。
値札の付いたキャンディの包み紙だけが、星明かりの下へ残されていた。




