第六話 優しすぎた魔法少女
黒い星が落ちた夜から、リノの眠りは浅くなった。
目を閉じても、すぐに何かの声が聞こえる気がする。
ミカのノイズの声。
鏡の中の自分の声。
そして、黒羽ノアの声。
「次に会うときまでに、もっと黒くなっててよ」
その言葉が、耳の奥に残って離れなかった。
リノはベッドの上で寝返りを打ち、枕元に置いたブローチを見た。
白いリボンの端に、黒い染みがある。
最初は点だった。
汚れみたいに小さくて、気のせいだと思えるくらいだった。
けれど今は違う。
黒い染みは、リボンの端から少しずつ根を張るように広がっていた。
リノは手を伸ばしかけて、やめた。
触れるのが怖かった。
触れた瞬間、またあの声が聞こえそうだったから。
「リノ」
机の上から、ミミルの声がした。
ミミルは丸くなっていた体を起こし、星形のしっぽを胸に抱えるようにしてリノを見ていた。
「眠れない?」
「ミミルこそ、寝てなかったの?」
「うん」
「どうして?」
リノが聞くと、ミミルは少し黙った。
「……リノが、泣きそうな顔してたから」
リノは思わず眉を寄せた。
「泣いてない」
「うん。そう見えたの。」
ミミルはそう言って、視線を落とした。
その言い方が、リノには少し苦しかった。
まるで、泣いていないことまで見透かされているみたいで。
泣けないことまで、知られているみたいで。
リノは布団を握った。
「ミミル」
「うん」
「話して」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
窓の外では、夜の街が静かに眠っている。
遠くで車や電車が走る音。
冷蔵庫の低い機械音。
時計の針が進む音。
どれもいつも通りなのに、リノの部屋だけが、世界から切り離された場所みたいだった。
「ノアのこと」
リノは言った。
「あの子は何? 元魔法少女ってどういうこと? どうしてミミルを知ってるの?」
ミミルは何も言わなかった。
リノの胸の奥が、また冷たくなる。
「また黙るの?」
「違う」
「じゃあ話して」
「……全部を話すには、まだリノの心が持たない」
その言葉に、リノは息を止めた。
心が持たない。
まるで、自分が弱いと言われたみたいだった。
「そうやって、また隠すんだ」
「リノ」
「私、知らないまま戦うのはもう嫌だ」
リノの声は震えていた。
怒っているのか、怖いのか、自分でも分からなかった。
でも止められなかった。
「ミミルはいつも『大丈夫』って言う。でも、大丈夫じゃないことばっかりだった。ノイズに触れたら黒くなることも、ノアのことも、魔法少女が壊れるかもしれないことも、何も教えてくれなかった」
ミミルは耳を伏せた。
「ごめん」
「謝るより、教えて」
リノはブローチを手に取った。
白いリボンの黒い染みが、部屋の明かりの下で鈍く光る。
「私は、ああなるの?」
その問いに、ミミルはすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、ミミルは小さく言った。
「分からない」
リノの手が震えた。
「分からないって……」
「でも、ノアと同じ道をたどる可能性はある」
リノは言葉を失った。
ミミルは机から降りて、床に座った。
いつもよりずっと小さく見えた。
「だから、話すよ。全部じゃないけど、リノが今知るべきことは話す」
リノは黙って頷いた。
ミミルは、ゆっくり語り始めた。
「ノアは昔、白いリボンの魔法少女だった」
リノは思わずブローチを見る。
白いリボン。
自分と同じ。
「あの子も、リノみたいに普通の女の子だった。少し口は悪かったけど、本当はすごく優しかった」
「ノアが?」
「うん」
ミミルの目が、遠くを見る。
「ノアは、ノイズの声を聞くのが上手だった。誰よりも深く、誰よりも近くまで心に入れた。泣いているノイズを見つけると、絶対に見捨てなかった」
ミミルの声が少し震えた。
「たとえ自分が傷ついても、怖くても、ノアはいつも言ってた」
ミミルは目を閉じる。
「『泣いてる子を、置いていけないでしょ』って」
リノは息をのんだ。
昨日見たノアとは、あまりにも違う。
黒いリボンを揺らして笑いながら、ノイズを利用していたノア。
「やさしすぎる」とリノを笑ったノア。
あの子が、泣いているノイズを見捨てられなかったなんて。
「ノアのリボンも、最初は真っ白だった」
ミミルは続けた。
「でも、ノイズの声を聞くたびに、少しずつ黒が残った」
「私みたいに?」
「うん」
リノは黒い染みを見つめた。
ミミルは言った。
「ノイズは、倒せば消える。でも声を聞けば、救えることがある。だけど、深く聞きすぎると、その痛みが魔法少女の中にも残る」
「じゃあ、声を聞かない方がいいの?」
「そうじゃない」
ミミルは首を横に振った。
「聞かなきゃ救えない心もある。けど、聞いたあとで、自分の心を戻す場所が必要なんだ」
「戻す場所?」
「泣いてもいい場所。怒ってもいい場所。『もう無理』って言える相手。自分の痛みを、ちゃんと外に出せる場所」
リノは黙った。
そんな場所が、自分にあるだろうか。
ミカと公園で話した時間を思い出す。
「笑わなくてもいい」と言ったとき、ミカは泣いた。
あの時間は、少しだけ温かかった。
でも、自分はまだ泣けなかった。
まだ「助けて」とは言えていない。
「ノアには、それがなかったの?」
リノが聞くと、ミミルの表情が曇った。
「なかったわけじゃない。でも、ノアは頼らなかった」
「どうして?」
「優しかったから」
その答えは、リノにはすぐに分からなかった。
ミミルは言った。
「ノアは、誰かに心配をかけるのを嫌がった。誰かを不安にさせるくらいなら、自分が我慢すればいいと思ってた。『私が大丈夫って言えば、みんな安心するでしょ』って」
リノの胸が、きゅっと痛んだ。
ミカも、同じようなことを言っていた。
平気じゃないのに平気なふりをして、笑っていた。
そしてリノ自身も。
ミミルはうつむいた。
「ぼくも、止められなかった」
「ミミルが?」
「うん。ぼくはノアに言い続けた。『もう休んで』って。でもノアは笑って、『あと少しだけ』って言った」
ミミルの声が震える。
「その『あと少し』が、何度も何度も続いた」
部屋の空気が冷たくなる。
リノはブローチを握りしめた。
「何があったの?」
ミミルはすぐには答えなかった。
でも、リノは待った。
今度は、ミミルが黙ることを許したくなかった。
でも急かして、逃げ道をふさいでしまうのも違う気がした。
だから、ただ待った。
やがてミミルは、小さく口を開いた。
「ノアには、大事な友達がいた」
「友達?」
「うん。名前は、灯里。ノアのクラスメイトで、ノアが魔法少女だって知っていた唯一の子」
リノは驚いた。
「魔法少女だって、話してたの?」
「うん。ノアは隠し事が苦手だったから。灯里は、ノアの秘密を守ってくれた。ノアが傷ついて帰ってきたら手当てをして、怖い夢を見たら話を聞いてくれた」
「じゃあ、戻る場所はあったんじゃ……」
「最初はね」
ミミルの声が低くなる。
「でも、ある日、灯里の中にノイズが生まれた」
リノの手が止まる。
「どうして?」
「ノアが戦い続けるのを、近くで見ていたから」
リノは言葉を失った。
「灯里は、ノアを心配していた。けど、止められなかった。自分にできることが少ないって責めていた。ノアばかり傷ついて、自分はただ待っているだけだって」
「そんな……」
「その罪悪感が、ノイズになった」
ミミルは苦しそうに続けた。
「灯里のノイズは、今までで一番強かった。ノアはそれを浄化しようとした。でも灯里のノイズは、灯里だけのものじゃなかった」
「どういうこと?」
「灯里の不安に、街中の小さなノイズが引き寄せられたんだ」
リノは商店街の噴水を思い出した。
たくさんの声が混ざったノイズ。
「見ないで」「見て」と矛盾した声で叫んでいたあれ。
「ノアは、街全体のノイズをひとりで抱え込んだ」
ミミルの声が震えた。
「灯里を助けるために」
リノは何も言えなかった。
ひとりで。
街全体のノイズを。
友達を助けるために。
「成功したの?」
リノが聞くと、ミミルは目を伏せた。
「灯里は助かった」
その言い方で、リノは分かってしまった。
助かったのは、灯里だけだったのだと。
「ノアは?」
「リボンが、黒く染まった」
ミミルの声は、ほとんど泣いているようだった。
「あの日、ノアは笑ってた。灯里が無事でよかったって。でも、目だけが違ってた」
「違ってた?」
「何も映してなかった」
リノはブローチを見る。
白いリボンの黒い染みが、まるで小さな穴みたいに見えた。
「それから、ノアは変わった」
ミミルは言った。
「ノイズを救うんじゃなくて、利用するようになった。人を守るんじゃなくて、傷つかないように支配するようになった。『誰かのために壊れるくらいなら、最初から自分のために力を使う』って」
リノの頭に、ノアの声が蘇る。
「心の闇って、すごく強いから」
あの言葉は、ただの挑発ではなかったのかもしれない。
ノアは知っていたのだ。
誰かの心の闇が、どれほど重くて、どれほど痛いのか。
知っていたから、使う側に回った。
つまりノイズ側に落ちたのだ。
「ミミルは、ノアを止めなかったの?」
リノが聞くと、ミミルの体が震えた。
「止めようとした」
「でも止められなかった?」
「うん」
「それで、ノアはミミルのことを恨んでるの?」
ミミルはしばらく黙ってから、言った。
「たぶん、恨んでる」
「たぶん?」
「ノアは、ぼくを責めるようなことを言う。でも、本当に責めているのは、ぼくなのか、自分なのか、もう分からない」
リノは胸が痛くなった。
ノアは敵だ。
あの子はノイズを利用した。
リノを傷つけようとした。
でも、ただの悪い子には思えなくなっていた。
優しすぎて、壊れた魔法少女。
それはリノの未来かもしれない。
「ミミル」
「うん」
「私に、どうして魔法少女になってって言ったの?」
ミミルはリノを見た。
「私も壊れるかもしれないって分かってたんでしょ」
「……うん」
「それでも選んだの?」
ミミルの目が揺れる。
「選ばなきゃ、リノはノイズに飲まれていた」
「え?」
「黒い星が落ちた夜、リノはブローチを拾ったよね」
「うん」
「あれは偶然じゃない」
リノは息を止めた。
「どういうこと?」
「リノの心が、ブローチを呼んだ」
部屋が静まり返る。
「私の心が……?」
「魔法少女になる子は、誰でもいいわけじゃない。人の声を聞ける子。誰かの痛みに気づける子。自分の痛みを隠している子。そういう子に、リボンは反応する」
リノはブローチを見た。
自分が拾ったと思っていた。
かわいいから持って帰っただけだと思っていた。
でも、本当は。
ブローチの方が、自分を見つけていた。
「じゃあ、私の中にも最初からノイズがあったの?」
リノの声は小さく震えていた。
ミミルはすぐには答えなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
リノは笑いそうになった。
笑えなかった。
「そっか」
自分は選ばれたヒロインなんかじゃなかった。
街を救う特別な子。
誰かを助けるために選ばれた、優しい魔法少女。
そう思いたかった。
でも本当は、自分も救われなきゃいけない側だったのかもしれない。
リノはブローチを握りしめた。
「ミミルは、私を助けたかったの?」
「うん」
「それとも、街を救う道具が必要だったの?」
ミミルの瞳が大きく揺れた。
「違う!」
初めて、ミミルが強く叫んだ。
「リノを道具だなんて思ってない!」
「でも、ノアもそうだったんでしょ」
「違う」
「ノアも最初は助けたかったんでしょ。でも壊れた」
「リノ」
「私もそうなるかもしれない」
「だから、今度こそ」
ミミルの声が震えた。
「今度こそ、壊れる前に止めたい」
リノはミミルを見た。
ミミルの目に、涙が浮かんでいた。
小さなマスコット。
白くて、星形のしっぽがあって、かわいくて。
でもその瞳には、リノが知らない後悔が積もっていた。
リノは、少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ、隠さないで」
ミミルは顔を上げる。
「私が怖がると思っても、隠さないで。怖いことでも言って。私が怒っても、言って」
「……うん」
「私も、ちゃんと聞くから」
ミミルは小さく頷いた。
「約束する」
リノはその言葉を、すぐには信じきれなかった。
でも、信じたいとは思った。
そのとき。
机の上のブローチが、かすかに鳴った。
りん、と小さな鈴のような音。
リノとミミルは同時にブローチを見る。
白いリボンの宝石が、淡く光っている。
けれど、その光はいつもの白ではない。
少し濁った、灰色の光だった。
「ノイズ?」
リノが聞くと、ミミルは耳を立てた。
「うん。近いね」
「どこ?」
ミミルは窓の外を見た。
夜の街の向こう。
学校の方角に、黒い星のかけらのような光が浮かんでいる。
「学校……?」
リノの胸がざわついた。
こんな夜に、学校で何が起きているのだろう。
ミミルは目を閉じ、気配を探るように耳を動かした。
「これは……優等生のノイズだ」
「優等生?」
「期待に応えなきゃ、失敗しちゃだめ、良い子でいなきゃって気持ちが膨らんでる」
リノの胸が、ぎゅっと痛んだ。
良い子でいなきゃ。
その言葉は、あまりにも今の自分に近かった。
「誰なの?」
ミミルは少し迷ってから答えた。
「たぶん、同じ学校の子」
ブローチの光が強くなる。
リノは制服の上にカーディガンを羽織り、ブローチを胸に当てた。
まだ怖い。
ノアのことも、ミミルのことも、自分の中の黒い染みも。
何も解決していない。
でも、今どこかで誰かの心が怪物になろうとしている。
それを知ってしまったら、もう見ないふりはできなかった。
ミミルがリノを見上げる。
「リノ、行ける?」
リノは息を吸った。
「行けるかどうかは、分からない」
正直に言う。
「でも、行く」
ミミルは小さく頷いた。
「うん」
リノは窓を開けた。
夜風が部屋に入り込み、カーテンを大きく揺らす。
空には星が出ている。
その中に、ひとつだけ黒く瞬く星があった。
リノはブローチを胸に当てる。
「マジカル・リボン・ドレスアップ」
白い光が、リノの体を包んだ。
けれどその光の端に、ほんの少しだけ灰色が混ざっていた。
フリルのドレス。
白いステッキ。
胸元のリボン。
まだ白い。
でも、完全な白ではない。
リノはそれを見下ろして、ぎゅっと拳を握った。
優しすぎた魔法少女は、壊れた。
なら、自分はどうすればいいのだろう。
優しくならない方がいいのか。
誰かの声を聞かない方がいいのか。
それとも、壊れない優しさを見つけることができるのか。
答えはまだない。
でもリノは、夜の空へ飛び出した。
学校の方角から、黒い星のかけらが舞い上がる。
その下で、誰かの声が泣いていた。
「失敗しちゃだめ」
「期待に応えなきゃ」
「良い子じゃなきゃ、私はここにいられない」
リノの胸元で、白いリボンが震える。
今度のノイズは、きっとリノ自身にもよく似ている。
そう思った瞬間、鏡の中のリノの声が、かすかに囁いた。
「ねえ、リノ」
夜風の中で、その声は甘く響く。
「良い子を救うには、あなたも良い子のままでいられるのかな」
リノは答えず、ステッキを握りしめた。
学校の校舎が、夜の底に沈むように見えてくる。
その屋上に、黒いリボンの影が揺れていた。
次のノイズが、生まれようとしていた。




