第40話 ① 眠る星兎
柔らかな風が花びらを運ぶ。
リノは車椅子の車輪をゆっくりと転がした。
目の前には、どこまでも続く花畑。
赤、青、黄色、白。
季節の違う花々が一つの庭園に咲き誇り、不思議なことに互いを邪魔することなく、美しく揺れている。
空を見上げれば、夜空いっぱいの星。
現実では見たこともないほど大きく輝く星々が、静かに庭園を照らしていた。
「……綺麗。」
思わず漏れた声。
天城は穏やかに微笑む。
「お気に召しましたか。」
リノは小さく頷いた。
「こんな場所……初めて見ました。」
「ここは、星の庭園。」
天城は花畑を見渡す。
「悲しみや苦しみから離れ、心を休めるための場所です。」
リノは静かに周囲を見渡した。
風の音。
鳥のさえずり。
花の香り。
胸の奥を締めつけていた苦しさが、少しだけ和らいでいく。
(不思議……。)
(ここにいるだけで……。)
(少しだけ、楽……。)
鏡のリノが静かに隣へ現れる。
『ほら。』
『苦しくないでしょ?』
『学校もない。』
『嫌なこともない。』
『誰もリノを傷つけない。』
リノは何も答えない。
ただ庭園を見つめていた。
天城はゆっくり歩き出す。
「こちらへ。」
リノも車椅子を動かす。
庭園の中央には、大きな一本の木が立っていた。
幹は何人いても抱えきれないほど太く、枝は星空へ届くほど高く伸びている。
無数の光る葉が風に揺れるたび、小さな星の粒が舞い落ちていた。
「……すごい。」
「この木は、この庭園を見守る存在です。」
天城は優しく幹へ触れた。
「長い年月、多くの想いを見届けてきました。」
木を中心に、白い石畳の道が放射状に伸びている。
その先には、いくつもの小道。
小道の入口には、それぞれ白い門が建っていた。
門の向こうには、小さな世界が広がっている。
リノは一つの門へ目を向けた。
幼い女の子が庭を走り回っている。
その後ろを笑顔のお母さんが追いかけていた。
「待ちなさーい。」
「えへへ!」
笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「……。」
リノは思わず立ち止まった。
「幸せそう……。」
天城は静かに頷く。
「彼女が、一番幸せだった時間です。」
「その想いが、この世界を形作っています。」
別の門では、
夕日に染まる海辺。
父親と砂のお城を作る少女。
さらに別の門では、
満開のひまわり畑。
本を読みながら寝転ぶ少女。
どの世界にも共通しているものがあった。
誰も泣いていない。
誰も苦しんでいない。
笑顔だけが広がっていた。
リノは自然と胸へ手を当てる。
「どうして……。」
「どうして、こんな場所があるんですか。」
天城は少しだけ空を見上げる。
「人は、苦しみの中でも幸せな時間を持っています。」
「その輝きは、決して消えることはありません。」
「私は、その輝きを守りたいだけなのです。」
その言葉には嘘も偽りも感じられなかった。
だからこそ。
リノは返す言葉を失ってしまう。
(この人は……。)
(本当に悪い人なの……?)
鏡のリノが、小さく笑う。
『悪い人じゃないよ。』
『だから、ここまで来ちゃったんじゃない?』
リノは目を閉じる。
学校での日々。
車椅子になった自分。
教室で交わされる視線。
「学校来ないで。」
「どうしてまだ学校に来るの?」
あの言葉が、胸の奥で何度も繰り返される。
そして思い浮かぶのは——
ミミル。
『リノ!』
『大丈夫だよ!』
あの笑顔。
でも今は、もう隣にはいない。
リノの瞳が潤む。
天城は何も言わなかった。
ただ静かに歩き続ける。
やがて庭園の奥へ続く一本の白い道が見えてきた。
他の道とは違う。
そこだけは、どこか冷たい空気が漂っていた。
リノは不思議そうに見つめる。
「この先は……?」
天城は少しだけ足を止める。
「あなたに、お見せしたいものがあります。」
静かな声だった。
その声に導かれるように、リノは再び車輪をゆっくりと動かした。
白い道の先には、淡く青白い光が揺れている。
そこに何が待っているのか。
まだ、リノは知らなかった。
♢
白い道を進むたび、庭園の空気が少しずつ変わっていく。
先ほどまで聞こえていた鳥のさえずりは消え、風も穏やかになっていた。
辺りには青白い光だけが静かに揺れている。
「……。」
リノは胸の奥がざわつくのを感じた。
理由は分からない。
けれど、この先に何か大切なものがある。
そんな気がしていた。
やがて道が開ける。
そこには、大きな円形の広場が広がっていた。
広場いっぱいに並ぶ、無数のクリスタル。
一つひとつが人の背丈ほどあり、淡い光を放っている。
その中では、少女たちが静かに眠っていた。
泣いている子はいない。
苦しそうな表情の子もいない。
皆、安心しきったような寝顔だった。
「この子たちは……。」
リノは息を呑む。
天城は静かに答えた。
「ここで眠ることを選んだ子たちです。」
「それぞれが、自分だけの幸せな世界の中で安らいでいます。」
リノはゆっくりとクリスタルの間を進む。
一人。
また一人。
どの子も穏やかな表情を浮かべている。
その時だった。
リノの視線が、一つのクリスタルで止まる。
「……え?」
小さな白い身体。
長い耳。
星形のしっぽ。
首元には、見覚えのある青いリボン。
「……ミミル?」
心臓が大きく跳ねた。
「ミミル!!」
リノは慌てて車椅子を動かし、クリスタルへ駆け寄る。
透明な結晶の中で、ミミルは静かに眠っていた。
両手を胸の前で組み、まるで夢を見ているかのような穏やかな寝顔。
「ミミル……。」
リノは震える手をクリスタルへ当てる。
冷たい。
どれだけ呼んでも返事はない。
「起きてよ……。」
「ミミル……!」
声が震える。
涙が一粒、クリスタルを伝って落ちた。
「お願い……。」
「目を開けてよ……。」
しかし。
ミミルは動かない。
その姿を見た瞬間。
リノの胸が締め付けられた。
「ごめんね……。」
「私が弱かったから……。」
「私が守れなかったから……。」
静かな広場に、リノの泣き声だけが響く。
その様子を、天城は何も言わず見守っていた。
……
……
その時。
「やっぱり来てた。」
聞き覚えのない少女の声。
リノが振り向く。
クリスタルの影から、一人の少女が姿を現した。
淡いピンク色の髪。
穏やかな笑顔。
「コト……。」
天城が静かに名前を呼ぶ。
「先生。」
コトは小さく会釈すると、リノへ視線を向けた。
その後ろから、
「見つかっちゃったね〜。」
メルが笑いながら歩いてくる。
さらに、
「せっかく静かだったのに。」
スミレも肩をすくめながら現れた。
三人はリノを囲むように立つ。
リノは警戒するように身構えた。
「……誰?」
メルはにこっと笑う。
「先生のお友達!」
スミレは苦笑する。
「その紹介は雑すぎでしょ。」
コトはクリスタルの中のミミルを見つめ、小さく微笑んだ。
「この子……。」
「とても優しい星兎だったの。」
リノは思わず叫ぶ。
「ミミルを知ってるの!?」
コトは静かに頷いた。
「うん。」
「だから覚えてる。」
少しだけ目を細める。
「この子のキャンディ……。」
「とても、おいしかったの。」
リノの表情が固まる。
「……え?」
メルも思い出したように笑う。
「そうそう!」
「リノを守りたいって気持ちが、ぎゅーって詰まってたから、すっごく甘かった!」
スミレも腕を組みながら頷く。
「今まで食べた中でも、かなり特別だったね。」
リノは言葉の意味が理解できなかった。
「……何を。」
「何を言ってるの?」
コトは首を傾げる。
「知らないの?」
「キャンディは、心から生まれるもの。」
「星兎だって、魔法少女だって。」
「強い想いがあれば、キャンディになるの。」
リノはゆっくりとクリスタルの中のミミルを見る。
「じゃあ……。」
「ミミルが……?」
その時だった。
天城が静かに一歩前へ出る。
「コト。」
「その話は、まだここまでです。」
「……はい。」
コトは素直に頷き、それ以上は何も話さなかった。
天城はリノへ向き直る。
「リノさん。」
「あなたには、まだ知らなくてよいことがあります。」
「ですが、一つだけお伝えしましょう。」
リノは涙を拭いながら顔を上げる。
天城は優しくミミルを見つめた。
「彼は最後まで、あなたを守りたいと願っていました。」
その一言だけで。
リノの涙は、もう止まらなかった




