第36話 壊れていく日常
朝の教室には、いつも通りの笑い声が響いていた。
窓から差し込む夏の日差しが机を照らし、風がカーテンをゆっくり揺らす。
だけど、その明るさとは裏腹に、リノの心は重かった。
昨夜から何度も見返してしまった一枚の紙。
『学校来ないで。』
制服のポケットに入れたまま、何度も捨てようと思った。
でも、どうしても捨てられなかった。
「……。」
小さく息を吐き、教室の扉を開ける。
「おはよう!」
「おはよー!」
クラスメイトの声はいつもと変わらない。
それなのに、どこか少しだけ空気が違う気がした。
「リノ、おはよう。」
ルルが笑顔で手を振る。
「おはよう、ルルちゃん。」
隣ではノアも軽く手を上げた。
「ちゃんと眠れた?」
「う、うん。」
リノは笑って答える。
だけど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
ノアは少しだけ首を傾げた。
「……何かあった?」
「ううん。本当に大丈夫。」
そう言って笑うリノを見て、ノアはそれ以上聞かなかった。
⸻
授業が始まる。
先生の声は耳に入っているはずなのに、内容は頭に入ってこない。
ふと顔を上げると、前の席の子と目が合った。
その子はすぐに目を逸らす。
(……気のせい、かな。)
休み時間。
リノが近くの子へ話しかけようとすると、
「あ、ごめん。」
「ちょっと用事思い出した。」
そう言って離れていく。
別の子も、
「あっ、先生に呼ばれてた!」
と慌てて教室を出ていった。
誰も悪口は言わない。
誰も責めない。
だけど、小さな距離だけが少しずつ広がっていく。
リノは机へ戻り、小さく俯いた。
⸻
「リノちゃん!」
明るい声が聞こえた。
レイナだった。
「今日も暑いねぇ〜。」
「体調、大丈夫?」
優しく笑いながら隣へ座る。
「あ……うん。」
「ちゃんとご飯食べたぁ?」
「食べたよ。」
「よかったぁ。」
その笑顔はとても自然だった。
だからこそ、リノは少し安心してしまう。
「ありがとう。」
「困ったことがあったら、いつでも話してねぇ〜。」
「うん。」
レイナは満足そうに微笑み、席へ戻っていく。
その後ろ姿を見つめながら、リノは小さく笑った。
「優しいな……。」
⸻
昼休み。
セナは教室を見回していた。
リノへ向けられる微妙な空気。
昨日の手紙。
全部が偶然とは思えない。
(……誰かが動いてる。)
確証はない。
でも、嫌な予感だけが胸に残る。
「少し調べてみようかな。」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
⸻
放課後。
帰る準備をしていると、ノアが近づいてくる。
「リノ。」
「送っていく。」
リノは少し困ったように笑う。
「ありがとう。」
「でも今日は、一人で帰りたいかな。」
「……そう。」
ノアは少しだけ考え、
「無理だけはしないで。」
とだけ言った。
「うん。」
リノは車椅子を動かし、ゆっくり教室を出ていく。
その背中を、ノアは静かに見送った。
(……何か、おかしい。)
胸の奥がざわつく。
だけど、その理由はまだ分からなかった。
⸻
昇降口。
下駄箱を開けた瞬間。
一枚の紙が、ひらりと落ちる。
「……!」
拾い上げる。
震える指でゆっくり開く。
そこには。
『どうしてまだ学校に来るの?』
リノの手が震えた。
息が苦しい。
「どうして……。」
誰が。
何のために。
少し離れた校舎の影。
誰にも気付かれない場所で、一人の少女が小さく笑う。
レイナだった。
「もう少しだよぉ〜。」
「あと少しで、楽になれるからねぇ。」
誰にも聞こえないほど小さな声は、夏の風に溶けて消えていった。
⸻
その夜。
星の世界。
静かな庭園に、レイナが姿を現す。
キャンディ先生は穏やかな笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、レイナさん。」
「ありがとうございますぅ。」
「進み具合はいかがですか。」
レイナは目を細める。
「少しずつだけど、順調だよぉ〜。」
「リノちゃん、自分から心を閉じ始めてる。」
キャンディ先生は静かに頷いた。
「急ぐ必要はありません。」
「人の心は、自ら答えを見つけてこそ意味があります。」
レイナは嬉しそうに微笑む。
「その日まで、ちゃんと見守るねぇ〜。」
キャンディ先生は夜空に輝く星を見上げ、小さく目を閉じた。
「どうか、その子が後悔のない答えを選べますように。」
静かな祈りだけが、星の庭園に響いていた。




