第35話 後編 星に眠る少女たち
「リノちゃん。やっと一歩目だねぇ〜。」
レイナが静かに微笑く。
その姿は、夜の校舎の屋上に溶け込むように消えていった。
ふわり、と淡い光が彼女を包み込む。
次の瞬間――。
広がったのは、満天の星空だった。
足元には雲が流れ、その上に一つの大きな島が浮かんでいる。
白い石畳で作られた円形の広場。
周囲には色とりどりの花々が咲き誇り、夜風に揺れていた。
空には流れ星がゆっくりと尾を引いている。
ここは、人の目には映らない世界。
星の世界。
「おっ、レイナじゃーん!」
元気な声が響く。
金色のポニーテールを揺らしながら、スミレが大きく手を振った。
「遅かったじゃん!」
「ふふっ、ごめんねぇ〜。」
レイナはいつもの穏やかな笑顔で近付く。
花壇の縁にはメルが腰掛け、足をぶらぶらさせていた。
「おかえり〜。」
「今日はどんな顔してたの〜?」
少し離れた場所では、コトが本を閉じる。
「報告の時間なの。」
短くそう言うと、全員の視線が広場の奥へ向いた。
静寂。
風が花を揺らす。
やがて、石畳を歩く足音だけが静かに近付いてきた。
コツ……
コツ……
コツ……
黒い燕尾服。
白い手袋。
銀色の懐中時計。
整えられた髪と、穏やかな笑み。
まるで屋敷に仕える執事のような一人の青年が、ゆっくりと姿を現した。
誰一人として騒がない。
レイナも。
メルも。
スミレも。
コトも。
自然と背筋を伸ばえる。
青年は優しく一礼した。
「皆さん、お疲れ様です。」
その声は静かで、どこか安心するような温かさがあった。
「本日も集まってくださり、ありがとうございます。」
誰かを威圧することもない。
怒鳴ることもない。
ただ穏やかな笑顔のまま、皆を見渡していた。
「それでは、報告をお願いできますか。」
先生の言葉に、レイナが一歩前へ出る。
「はい〜。」
手を胸の前で軽く組み、にこりと笑った。
「リノちゃんだけどぉ〜、予定通り少しずつ学校で居場所を失い始めてるよぉ〜。」
先生は黙って耳を傾ける。
「今日は下駄箱にお手紙も入れてきたぁ〜。」
「内容は?」
「『学校来ないで。』だよぉ〜。」
メルが肩をすくめる。
「結構ストレートだね〜。」
スミレも腕を組みながら笑う。
「まぁ、ああいうのって地味に効くんだよね。」
コトだけは静かに尋ねた。
「周囲の反応はどうだったの。」
「まだ誰も直接はいじめてないよぉ〜。」
レイナは首を横に振る。
「でもねぇ。」
「空気はちゃんと変わってきてる。」
「みんな『何かあるのかな』って距離を置き始めてるんだぁ〜。」
先生は静かに頷いた。
「……順調ですね。」
その一言だけだった。
褒めるわけでもなく。
責めるわけでもない。
ただ事実を受け止めるように。
「ですが。」
先生は穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。
「急ぐ必要はありません。」
「追い詰めることが目的ではありませんから。」
スミレが首を傾げる。
「でも先生、もっと一気にやった方が早くない?」
「証拠とか作っちゃえばさ。」
先生は小さく首を横に振った。
「違います。」
その一言だけで広場の空気が変わる。
怒っているわけではない。
けれど誰も口を挟まなかった。
先生は再び柔らかな表情に戻る。
「私たちが望むのは、あの子が自ら立ち止まることです。」
「誰かに押されるのではなく。」
「誰かに命令されるのでもなく。」
「自分自身で『もう頑張らなくていい』と思える、その瞬間を待つのです。」
レイナは優しく微笑みながら頷いた。
「大丈夫だよぉ〜。」
「あの子は優しいから。」
「全部一人で抱え込んじゃう。」
先生は少しだけ目を細める。
「……ええ。」
「だからこそ、あの子なのです。」
その言葉に、メルもスミレもコトも何も尋ねなかった。
まだ、その理由を語る時ではない。
先生は静かに懐中時計を閉じる。
「では、本日の報告はここまでにしましょう。」
少し間を置いて、穏やかに微笑んだ。
「皆さん。」
「庭園へ参りましょう。」
四人は小さく頷き、先生の後ろを静かに歩き始めた。
広場の奥へと続く、一本の白い道の先へ――。
夜空には無数の星々。
雲の上を吹き抜ける風はどこか暖かく、花の香りを運んでくる。
やがてキャンディ先生たちは、大きな白い門の前へたどり着いた。
門には蔦が優しく絡まり、小さな星形の花が咲いている。
先生は門へそっと手を添えた。
「失礼します。」
音もなく門が開く。
その先には、息を呑むほど美しい庭園が広がっていた。
色鮮やかな花々が一面を埋め尽くし、風に合わせてゆっくりと揺れている。
小鳥が枝を渡り、小川が静かな音を立てる。
庭園の中心には、夜空へ届きそうなほど大きな一本の樹が立っていた。
淡く光る葉は星屑をまとっているようで、見上げるだけで心が落ち着く不思議な存在感がある。
その樹を囲むように、白い円形広場が造られていた。
そして広場の外周には、等間隔に十本ほどの白い小道が伸びている。
それぞれの入口には、小さな光の門。
門の向こうは柔らかな光に包まれ、何があるのかは外からでは見えない。
スミレが小さく呟いた。
「今日も静かだね……。」
先生は優しく頷く。
「皆さんが安心して眠っていらっしゃる証拠です。」
そう言うと、一番近くの小道へ足を向けた。
レイナたちも自然と後ろに続く。
誰一人として追い越さない。
誰も大きな声を出さない。
この場所では、それが当たり前だった。
白い小道を歩くたび、周囲の景色は少しずつ変わっていく。
花畑だった景色は、やがて木々に囲まれた小さな庭へと変わった。
木製の柵。
煙突のある家。
庭先には色とりどりの花。
優しい夕焼けに染まる空。
そして――
庭では、小さな女の子が笑いながら走り回っていた。
「待ってー!」
父親が笑いながら追いかける。
母親は玄関から手を振り、
「ご飯できたわよ。」
と優しく声をかける。
犬が元気よく駆け回り、少女は嬉しそうに抱きつく。
笑い声が庭いっぱいに響いていた。
けれど。
その光景はどこか幻想的だった。
三人の姿は淡く透けていて、まるで昔の思い出を映した幻のようだった。
何度見ても、同じ時間。
同じ笑顔。
同じ「おかえり」。
時間だけが、この瞬間で止まっている。
その庭の中央には、透明なクリスタルが静かに佇んでいた。
中では、一人の少女が眠っている。
表情は穏やかで、苦しみなど微塵も感じられない。
先生はクリスタルの前で立ち止まり、そっと手を添えた。
「こんばんは。」
返事はない。
それでも先生は微笑み続ける。
「今日はお庭の花がとても綺麗ですよ。」
「きっと、お父さんもお母さんも喜んでくださっています。」
レイナは優しくその光景を見つめた。
「今日も幸せそうだねぇ〜。」
先生は静かに頷く。
「ええ。」
「この子が一番幸せだった時間です。」
「ここでは、その笑顔が失われることはありません。」
メルは少しだけ首を傾げた。
「先生ぇ〜。」
「この子は、この夢を見てるの〜?」
先生はクリスタルへ視線を向けたまま答える。
「ええ。」
「寂しさも。」
「後悔も。」
「失う悲しみもありません。」
「ただ、大切な人と過ごした幸せな時間だけが流れ続けます。」
スミレは庭で笑う家族を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……悪くないかも。」
先生はその言葉を否定しなかった。
「誰も涙を流さない世界。」
「それが、この子の願いでした。」
静かな風が吹く。
花びらが舞い上がり、クリスタルの周囲をゆっくりと回った。
先生は一歩下がる。
「また来ます。」
「どうか、良い夢を。」
そう言って静かに頭を下げる。
レイナたちも自然と同じように頭を下げた。
誰も命令されたわけではない。
この場所に眠る少女たちへの敬意が、自然とそうさせていた。
庭園へ戻る途中、先生は穏やかに呟く。
「まだ九つの世界が残っています。」
「今日は皆さんを長く引き止めるわけにもいきません。」
広場の外周には、静かに光を放つ九つの門が並んでいる。
海辺。
ひまわり畑。
雪景色。
遊園地。
本棚に囲まれた部屋。
それぞれの入口からは、ほんの少しだけ景色がのぞいていた。
どの世界も、きっと誰かにとって一番幸せだった場所。
先生はその景色を愛おしそうに見つめる。
「いつの日か……。」
「リノさんにも、この景色を見せて差し上げたいですね。」
レイナは優しく微笑んだ。
「うん。」
「きっと、先生の優しさを分かってくれるよぉ〜。」
先生は空を見上げ、小さく目を細める。
「……その日が来ることを、私は願っています。」
星空の下。
花びらが静かに舞い続けていた。




