第35話 前編 見えない視線
朝。
目が覚めても、リノはすぐには起き上がれなかった。
天井をぼんやり見つめる。
昨日見た動画。
コメント。
急上昇。
全部が頭の中をぐるぐる回っている。
「……学校」
制服が部屋の隅に掛けられている。
着替えれば学校。
着替えなければ休み。
たったそれだけなのに、体が動かなかった。
スマートフォンが小さく震える。
画面には通知がいくつも並んでいた。
【おすすめ】
【急上昇】
【車椅子の悪い子】
リノは何も見ずに画面を閉じた。
「もう……見たくない……」
そのまま電源を切る。
静かになった部屋で、小さく息を吐いた。
コンコン。
「リノ、起きてる?」
母の声だった。
「……うん。」
「今日は無理しなくてもいいのよ?」
優しい声。
その一言だけで涙が出そうになる。
「大丈夫。」
「本当に?」
「……行く。」
母は少しだけ間を空けて言った。
「無理だけはしないでね。」
「うん。」
制服へ着替える。
鏡の前に立つ。
少しやつれた自分。
目の下には薄い隈。
笑ってみる。
ぎこちない。
「これでいい……。」
そう言い聞かせ、家を出た。
◇
駅へ向かう道。
いつもより人が多く感じる。
横を通る学生。
会社員。
親子。
誰もリノを見ていない。
……はずだった。
「……。」
一人の高校生と目が合う。
すぐ逸らされた。
(今……。)
気のせい。
そう思おうとする。
でもまた別の人と目が合う。
心臓が少し速くなる。
(知ってるのかな。)
(動画。)
(私のこと。)
考えれば考えるほど、視線が怖くなる。
ホームへ着く。
電車が入ってきた。
車椅子スペースへ案内される。
駅員は昨日と同じように優しかった。
「ゆっくりどうぞ。」
「ありがとうございます……。」
頭を下げる。
その瞬間。
『またあの子じゃない?』
そんな声が聞こえた気がした。
振り向く。
誰も自分を見ていない。
「……気のせい。」
でも胸は苦しかった。
◇
「おはよう。」
教室へ入る。
何人かがこちらを見る。
「お、おはよう。」
笑顔を作る。
クラスメイトも返してくれる。
それなのに。
数人がスマートフォンをしまう。
小さな会話が止まる。
(私のこと……。)
違う。
そう思いたい。
でも。
(やっぱり話してたんだ。)
自分で自分を追い込んでしまう。
「リノ!」
明るい声。
ひまりだった。
「おはよう!」
「ひまりちゃん……。」
「今日も来てくれてよかった!」
その笑顔だけで少し安心する。
「ありがとう。」
「一緒に教室入ろ!」
「うん。」
ひまりは何も聞かない。
動画のことも。
SNSのことも。
それが今はありがたかった。
◇
一時間目。
先生の声が耳に入らない。
黒板の文字も読めない。
後ろから笑い声が聞こえるたびに。
(私……?)
廊下を歩く人がこちらを見るたびに。
(知ってる……?)
何も集中できなかった。
◇
昼休み。
「リノ!」
ルル、ノア、ミカ、セナ、いろはが集まってきた。
「今日のお昼、一緒に食べよう!」
「もちろん。」
少しだけ笑う。
みんなはいつも通りだった。
他愛もない話。
テレビの話。
新しいスイーツ。
夏休み。
その時間だけは動画のことを忘れられた。
「ふふっ。」
小さく笑う。
その笑顔を。
教室の外から静かに見つめる人物がいた。
レイナだった。
「……。」
優しく微笑む。
誰にも気付かれないように、その場を離れた。
◇
放課後。
「また明日ね!」
「うん。」
ひまりへ手を振る。
みんなが帰っていく。
リノはロッカーを開けた。
カタン。
白い紙が一枚、床へ落ちる。
「?」
拾い上げる。
そこには黒い文字。
『学校来ないで。』
「……。」
呼吸が止まる。
何度も見返す。
見間違いじゃない。
震える手。
胸が苦しい。
「どうして……。」
涙が一滴だけ落ちた。
その時。
廊下の向こうから先生の声が聞こえる。
「リノさん?」
慌てて紙を握り潰し、ポケットへしまう。
「だ、大丈夫です!」
「忘れ物?」
「はい……少しだけ。」
笑う。
また嘘をついた。
先生は安心したように去っていく。
リノは誰もいなくなった廊下を、静かに後にした。
◇
数分後。
誰もいない廊下。
ロッカーの前へ、一人の少女がゆっくり歩いてくる。
レイナだった。
床には、さっきリノが落とした紙の切れ端が小さく残っている。
それを拾い上げる。
くすり、と笑った。
「やっと一歩目だねぇ〜。」
その笑顔は、教室で見せる優しい笑顔とはまるで違っていた。
「まだまだこれからだよぉ〜。」
レイナは紙を小さく折りたたみ、ポケットへしまう。
「もっと苦しくなろうねぇ〜。」
「リノちゃん。」




