第34話 中編 優しい嘘♡♡
担任へ動画のことを伝えると、その日のうちにリノたちは別室へ呼ばれた。
窓の小さな相談室。
中央には長机があり、その上にセナのスマートフォンが置かれている。
画面には、例の動画が止められたまま映っていた。
大きく口を開け、何かを叫んでいるリノ。
自分の姿なのに、知らない人のように見える。
「学校にも、すでに数件の問い合わせが来ています」
担任が申し訳なさそうに言った。
「問い合わせ……?」
リノの声が小さくなる。
「動画に映っている制服が、この学校のものではないかという内容です」
「何て言われたんですか?」
セナが尋ねた。
担任は少し言いにくそうに視線を落とす。
「電車内で騒いだ生徒について、学校は把握しているのか」
短い沈黙。
「それから……車椅子の生徒を一人で電車に乗せるのは危険ではないか、と」
リノの手が、膝の上で固まった。
一人ではなかった。
ミカも、セナも、いろはも、レイナもいた。
それでも動画だけを見れば、一人で騒ぎを起こしたように見える。
「先生」
ミカが身を乗り出す。
「リノちゃんは悪くないです」
「分かっています」
「本当に?」
思わずリノが聞いていた。
担任が驚いた顔をする。
「もちろんです」
「でも、動画では私が叫んでる」
「それは状況があったのでしょう?」
「状況を説明しても、信じてもらえないですよね」
ノイズが出た。
電車が別の空間に閉じ込められた。
魔法少女たちが戦った。
そんなことを、普通の人へ話せるはずがない。
話したとしても、きっと動画より信じてもらえない。
「現時点では、動画が編集されている可能性があることを伝えます」
担任は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、学校として公に発表するには、元の映像や客観的な記録が必要です」
「つまり、今は否定できないということですね」
セナが言う。
「そういう意味では……」
「分かりました」
セナは表情を変えずに頷いた。
けれど、手帳を握る指には力が入っていた。
「元動画の投稿者、転載元、投稿された時間、編集箇所を調べます」
「三枝さんたちは、むやみにネット上で反論しないでください」
「どうしてですか?」
ミカが不満そうに聞く。
「誤解を解きたい気持ちは分かります。ただ、学校名や個人情報がさらに広がる可能性があります」
正しい話だった。
反論すれば、もっと見つかる。
黙っていれば、動画だけが広がる。
どちらを選んでも、怖かった。
「白咲さん」
担任がリノを見る。
「今日は早退しても構いません」
「私、授業受けられます」
「でも、今の状態では」
「私が教室にいると、困りますか?」
「そうではありません」
担任はすぐ否定した。
でも、その一瞬の間をリノは見逃さなかった。
本当に違うのだろうか。
自分がいれば、生徒たちが動画を見る。
噂が広がる。
先生が対応しなければならなくなる。
学校へ問い合わせが来る。
「帰った方が、みんな楽ですか?」
「リノちゃん!」
ミカが声を上げる。
担任も慌てて首を振った。
「違います。あなたを守るために提案しただけです」
守るため。
その言葉は、最近何度も聞いた。
ミミルも、守るために隠していた。
レイナも、守るために優しくしてくれる。
学校も、守るために帰らせようとする。
守られるたびに、自分の居場所が少しずつ小さくなっているような気がした。
「……授業に戻ります」
リノは言った。
「分かりました」
担任は無理に止めなかった。
相談室を出る。
レイナは、その少し後ろを静かについてきた。
◇
教室へ戻る途中。
廊下の角に、三人の生徒が立っていた。
スマートフォンを囲みながら、声を潜めている。
「あの車椅子、やっぱり」
「本人来た」
「見ない方がいいって」
リノが近づくと、三人は道を空けた。
いつもより大きく。
まるで触れたら何かが起きるみたいに。
「ごめんね」
一人が言った。
「何が?」
リノが尋ねる。
「え?」
「今、ごめんって」
「道、狭かったから」
その子は笑った。
「通りやすいようにしただけだよ」
リノは頷いた。
「ありがとう」
三人の横を通り過ぎる。
後ろから、動画の音声が小さく聞こえた。
『違う!』
自分の声。
その直後、笑いをこらえるような息。
リノの車輪が止まる。
「リノちゃん?」
ミカが振り返る。
「……何でもない」
進まないと。
止まったら、また通路を塞いでしまう。
リノは車輪を回した。
◇
昼休み。
リノは教室でお弁当を食べていた。
いつもならミカたちと机を寄せる。
今日は机を動かすだけでも、周囲が気を遣う気がした。
「ここでいいよ」
リノは自分の席のまま言った。
「じゃあ私たちが来るね」
いろはが椅子を持ってくる。
「机、少し横に寄せます」
セナも手伝う。
その様子を見ていたクラスメイトが、机を動かすために立ち上がった。
「ここ空けた方がいい?」
「いえ、十分です」
セナが答える。
「でも狭くない?」
「白咲さんが通る時に、また移動をお願いするかもしれません」
「分かった」
みんな優しい。
怒る人はいない。
でも、リノのために、また何かが動いた。
机。
椅子。
人。
時間。
「リノちゃん、お弁当食べないの?」
ミカが尋ねる。
箸を持ったまま、リノの手は止まっていた。
「食べるよ」
一口、口へ運ぶ。
味があまり分からない。
「動画、まだ増えてるみたい」
いろはが小声で言った。
「転載されています」
セナが答える。
「元の投稿を削除しても、完全には止められない可能性があります」
「コメント欄、通報してるけど全然消えない」
「すぐには反映されません」
「なんでこんなことするんだろ」
ミカが悔しそうに唇を噛む。
「リノちゃんが何したっていうの」
リノはお弁当を見つめた。
「電車で叫んだ」
「それは助けるためでしょ」
「でも、知らない人には分からない」
「だからって悪く言っていい理由にならないよ」
「うん」
リノは頷く。
頷いたはずなのに、ミカの言葉が胸の中へ入ってこない。
教室の扉が開いた。
レイナが紙パックの飲み物を持って入ってくる。
「リノちゃん、食欲ない?」
「少しだけ」
「これ、飲む?」
レイナが差し出したのは、甘いミルクティーだった。
「甘いものなら、少し楽になるかと思って」
「ありがとう」
受け取ろうとする。
セナが一瞬、レイナの手元を見た。
「未開封ですね」
レイナが目を丸くする。
「もちろんだよ」
「確認しただけです」
「セナちゃん、私のことずっと疑ってる?」
責める声ではなかった。
傷ついたような、寂しそうな声。
「状況上、全員を確認しています」
「そっか」
レイナは小さく笑った。
「しっかりしてるもんね」
それからリノの机へ紙パックを置く。
「無理に食べなくていいよ」
「でも、お昼を残したら」
「体調が悪い時くらい、残しても大丈夫」
優しく言ってから、レイナは少し顔を近づけた。
「どうせ今は、何をしても誰かに何か言われるんだから」
リノが顔を上げる。
ミカたちは聞こえていない。
レイナは変わらない笑顔で続ける。
「だったら、頑張るだけ損だよねぇー?」
「レイナちゃん」
「なに?」
声は元に戻っている。
「今……」
「ミルクティー、苦手だった?」
「違う」
「ならよかった」
レイナは席を離れた。
リノは紙パックを見つめる。
黒いキャンディではない。
普通の飲み物。
封も開いていない。
優しさ以外、何も入っていないはずだった。
それでも、口をつけることができなかった。
◇
午後の授業が始まる前。
リノの机の中に、一枚の紙が入っていた。
白い紙。
黒い文字。
『もう電車に乗らないでください』
たった一行。
名前はない。
乱暴な字でもない。
丁寧に印刷された文字だった。
リノの呼吸が止まる。
「どうしたの?」
ミカが覗き込む。
リノは慌てて紙を隠そうとした。
けれど、間に合わなかった。
「何これ」
ミカの声が低くなる。
セナも紙を確認する。
「印刷物ですね。筆跡からは特定できません」
「先生に言おう」
いろはが言う。
「うん、絶対」
「待って」
リノが止める。
「どうして?」
「また先生に迷惑かける」
「迷惑じゃないよ!」
「でも、動画の対応だけでも大変なのに」
「だからって黙ってたら、またやるよ」
「私が電車に乗らなければいいだけかもしれない」
その場の空気が止まった。
「何言ってるの?」
ミカの目が揺れる。
「毎日送ってもらうことはできない。でも、学校を休めば」
「リノちゃん」
「私が外に出なかったら、動画も撮られない」
「それ、リノちゃんが悪いって認めることになるじゃん!」
「認めるとかじゃなくて」
「じゃあ何?」
ミカの声が大きくなる。
周囲の生徒がこちらを見る。
リノの肩が小さく震えた。
また見られている。
また自分のせいで空気が変わった。
「ごめん」
「違う、リノちゃんに謝ってほしいんじゃなくて」
「私のせいでミカちゃんまで怒ってる」
「リノちゃんのせいじゃない!」
「でも怒ってる」
「それは紙を入れた人に!」
「みんな、私のことで怒ってる」
言葉が止まらなかった。
「セナちゃんも調べて、いろはちゃんも通報して、先生も問い合わせに答えて」
「白咲さん」
「みんなの時間、私が使ってる」
セナがリノの前へしゃがむ。
「あなたが使っているのではありません」
「でも」
「嫌がらせをした人と、動画を編集した人が、私たちの時間を奪っています」
「同じだよ」
「違います」
「私がいなかったら、起きてない」
セナの言葉が止まる。
その一瞬を見て、リノの胸の中で何かが沈んだ。
やっぱり。
否定できないのだ。
自分がいなければ、起きなかった。
「リノちゃん」
いろはが泣きそうな顔をする。
「そんなふうに言わないで」
「ごめん」
リノは紙を折った。
「先生には、私から言う」
「一緒に行くよ」
ミカが言う。
「一人で大丈夫」
「でも」
「大丈夫だから」
いつもの言葉。
言ってはいけないと分かっているのに、口から出た。
誰も、それ以上強く止められなかった。
◇
職員室へ向かう廊下。
リノは一人で車輪を回していた。
紙は制服のポケットに入っている。
角を曲がったところで、レイナが待っていた。
「どうしたの?」
リノは答えなかった。
「何かあった?」
レイナは目線を合わせるようにしゃがむ。
「私でよかったら、聞くよ」
「誰かが、これを」
リノは紙を取り出した。
レイナは目を通す。
すぐに悲しそうな顔になった。
「ひどい」
「うん」
「こんなこと書くなんて」
紙を持つ指が、かすかに震えている。
まるで本当に怒っているように見えた。
「でも」
レイナはゆっくりと続ける。
「書いた子も、怖かったのかもしれないね」
リノの目が揺れる。
「怖かった?」
「動画を見て、また電車で何か起きるんじゃないかって」
「私が乗ったら?」
「私はそんなふうに思ってないよ」
レイナはすぐ否定する。
「でも、事情を知らない子なら、そう思ってもおかしくないかも」
優しい声。
責める言い方ではない。
だからこそ、否定できなかった。
「そうだよね」
リノは紙を見つめる。
「怖いよね」
「リノちゃんが悪いわけじゃないよ」
「でも、怖がらせてる」
「そう見えちゃっただけ」
「同じだよ」
リノがそう言うと、レイナの口元がほんの少し上がった。
「そうだよねぇー?」
今度は、はっきり聞こえた。
リノが顔を上げる。
レイナの目が笑っている。
学校で見せる穏やかな笑顔とは違う。
冷たく。
楽しそうに。
「今、何て言ったの?」
「リノちゃんが悪くないって言ったんだよ」
「違う」
「疲れてるんだよ」
レイナは首をかしげる。
「動画も、紙も、みんなの視線も気になって」
「私、ちゃんと聞いた」
「何を?」
「だよねぇーって」
一瞬。
レイナの笑顔が深くなった。
「聞こえたんだ」
声が低くなる。
甘く、ゆっくりと伸びる。
「やっと気づいたんだねぇー?」
リノの背筋が凍る。
「レイナちゃん……?」
「なあに?」
「どうして」
「何が?」
「私に、そんなこと」
レイナは周囲を見る。
廊下には誰もいない。
足音も聞こえない。
リノとレイナだけ。
レイナは立ち上がり、リノの背後へ回った。
車椅子のハンドルへ手を置く。
「触らないで」
リノが言う。
「どうして?」
「私が頼んでない」
「でも、一人じゃ大変でしょ?」
「離して」
レイナはハンドルを握ったまま、リノの耳元へ顔を近づける。
「電車に乗るだけで、駅員さんを呼んで」
「……」
「みんなを早起きさせて」
「やめて」
「場所を空けてもらって」
「やめて」
「ノイズまで呼んじゃって」
「違う!」
リノが叫ぶ。
廊下に声が響く。
レイナはすぐにハンドルから手を離した。
ちょうどその時、職員室の扉が開く。
「どうしました?」
先生が顔を出した。
レイナは驚いたように一歩下がる。
「リノちゃんが急に……」
心配そうな表情。
「動画のことで、少し混乱しているみたいです」
「違います!」
リノが叫ぶ。
「レイナちゃんが」
言いかけて、止まった。
先生はリノを見る。
そしてレイナを見る。
レイナは目に涙を浮かべていた。
「ごめんなさい」
震える声で言う。
「私、励まそうとしただけなんです」
「違う」
「でも、余計に傷つけちゃったみたいで」
「違うよ!」
先生がリノのそばへ来る。
「白咲さん、落ち着いて」
「私は落ち着いてます」
「少し別室で休みましょう」
「どうして私が?」
「今、大きな声が」
「レイナちゃんが先に!」
リノは先生を見る。
信じて。
そう言いたかった。
でも先生の目には、心配しかなかった。
怒りではない。
疑いでもない。
ただ、傷ついて混乱しているリノを落ち着かせようとする目。
レイナを見る目は、善意で助けようとして傷ついてしまった生徒を見る目だった。
誰も信じてくれない。
そう思った瞬間。
職員室の窓ガラスに、もう一人のリノが映った。
車椅子ではなく、二本の足で立っている。
黒いリボン。
暗い瞳。
鏡のリノが笑っていた。
――ほら。
声が、頭の中へ響く。
――優しい子の方が、信じてもらえる。
リノは首を振る。
「違う」
先生が尋ねる。
「何が違うの?」
鏡のリノが続ける。
――車椅子で叫んでるあなたより。
――泣いて謝ってるレイナの方が。
――ずっと、いい子に見えるよ。
「違う……」
リノの声は小さくなった。
自分が何へ否定しているのか、もう分からない。
動画。
コメント。
紙。
レイナ。
鏡の中の自分。
「白咲さん」
先生の声が遠い。
「今日は、家へ連絡しましょう」
帰らせられる。
また。
自分がいると困るから。
リノは抵抗しなかった。
「……分かりました」
車輪へ手を置く。
指先が震えている。
レイナが先生の後ろから、リノを見ていた。
涙を浮かべたまま。
口元だけを、ほんの少し歪める。
声は出さない。
でも唇が動いた。
――だよねぇー?
リノは目をそらした。
今度は、聞き間違いではなかった。
◇
その日の午後。
リノは授業が終わる前に学校を出た。
迎えを待つ間、校門脇の屋根の下にいた。
雨が降り始めていた。
小さな雨粒が、地面を濡らしていく。
リノはスマートフォンを開く。
通知が増えていた。
動画の再生回数。
十二万。
十五万。
十八万。
転載された動画。
切り抜かれた画像。
『学校特定された?』
『この学校の生徒らしい』
『車椅子の子って一人しかいないんじゃない?』
リノは画面を閉じる。
数秒後、また開く。
見たくない。
でも、見ない間に何を言われているのか分からない方が怖い。
新しいコメント。
『被害者ぶって早退したって本当?』
リノの呼吸が止まる。
今日のこと。
もう書かれている。
誰かが見ていた。
誰かが伝えた。
学校の中にも、投稿している人がいる。
逃げる場所がない。
リノは、スマートフォンを膝の上へ伏せた。
雨の音だけが聞こえる。
ミミルがいたら。
そう考える。
でも、すぐに鏡のリノの声がした。
――ミミルは、あなたを守って消えた。
――あなたが弱かったから。
リノは耳を塞いだ。
「やめて」
誰もいない。
「やめてよ……」
それでも声は消えない。
――電車でも。
――学校でも。
――みんな、あなたのために動いてる。
目を閉じる。
暗闇の中にも、コメントの文字が浮かぶ。
迷惑。
怖い。
一人で乗るな。
学校へ連絡。
「ごめんなさい」
リノは、小さく呟いた。
誰に謝っているのかは、分からなかった。
その時。
「リノお姉ちゃーん!」
雨の向こうから、明るい声が聞こえた。
ひまりだった。
黄色い傘を揺らしながら、校門へ走ってくる。
肩にはピリカもいる。
「走ったら滑る!」
「だいじょうぶだって!」
「今ちょっと滑ったよ!」
「滑ってない!」
いつものやり取り。
ひまりはリノの前まで来ると、にこっと笑った。
「聞いたよ! 今日は早く帰るんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、わたしも途中まで一緒に帰る!」
「小学校は?」
「もう終わったもん」
ひまりは明るく話す。
けれど、リノの顔を見た瞬間。
笑顔が少しだけ消えた。
「リノお姉ちゃん」
「なに?」
リノは笑った。
いつものように。
心配させないように。
「大丈夫だよ」
聞かれる前に答えた。
ひまりは黙った。
ピリカも、リノをじっと見ている。
「ひまりちゃん?」
ひまりは傘を持ったまま、リノの前へしゃがんだ。
笑っていなかった。
「リノお姉ちゃん」
もう一度呼ぶ。
「無理して笑ってるでしょ?」
リノの笑顔が止まった。
「そんなこと」
「分かるよ」
ひまりの声が少し震える。
「小春ちゃんも、そうだったから」
その名前に、リノは何も言えなくなった。
「大丈夫って言って」
「笑って」
「でも、手をずっとぎゅってしてた」
ひまりはリノの手を見る。
車輪を握る指。
爪が食い込むほど強く握っている。
「リノお姉ちゃんも、同じ顔してる」
リノは手を離した。
手のひらに、赤い跡が残っていた。
「私」
声が出ない。
何を言えばいいか分からない。
大丈夫ではない。
でも、何が一番つらいのかも分からない。
レイナが怖い。
ネットが怖い。
学校が怖い。
電車が怖い。
自分の耳も、目も、考えも信じられない。
「私が、おかしいのかもしれない」
ようやく出た言葉だった。
「違うよ」
ひまりはすぐに言った。
「でも、レイナちゃんの声が変わったの、私しか聞いてない」
「なら、リノお姉ちゃんは聞いたんでしょ?」
「聞き間違いかもしれない」
「聞き間違いでも、怖かったことは本当じゃん」
ひまりは、まっすぐリノを見る。
「怖かったって言っていいよ」
小春から受け取った言葉。
怒っている時も。
笑っている時も。
痛かったら、痛いと言っていい。
リノの目から、涙が一粒落ちた。
「怖かった」
「うん」
「誰も信じてくれない気がした」
「わたしは信じる」
「でも、もし私がおかしくなってるだけだったら?」
「その時も、一緒に考える」
ひまりは迷わなかった。
「リノお姉ちゃんが間違ってても、ひとりにはしない」
その言葉に、リノは俯いた。
涙が次々と膝へ落ちる。
ピリカが車椅子の肘掛けへ乗った。
「今日は、もう見ない方がいいよ」
スマートフォンを指す。
「見ない間に何か書かれたら」
「書かれても、今すぐ全部答えなくていい」
「でも」
「リノの心が先だよ」
ピリカの声は、いつもより静かだった。
リノはスマートフォンの電源を切った。
画面が黒くなる。
そこへ自分の顔が映る。
目の下に影。
泣いて赤くなった目。
その後ろに、立っている鏡のリノが一瞬だけ見えた。
でも今回は、見ないふりをした。
ひまりの手を握る。
小さくて、温かい手。
「一緒に帰ってくれる?」
「もちろん!」
ひまりの声に、少しだけいつもの明るさが戻る。
「途中で星形クッキー買お!」
「今日はクッキーなの?」
「こういう日は甘いものいるじゃん!」
「さっきピリカが心が先って言ったから、次はお腹!」
「ひまり、それは別の話」
「いいの!」
リノは、ほんの少しだけ笑った。
今度の笑顔は、さっきより苦しくなかった。
けれど。
校舎の二階。
雨に濡れた窓の向こうから、レイナがその様子を見ていた。
手にはスマートフォン。
画面には、早退していくリノの姿が映っている。
レイナの横に、黒いキャンディが一粒転がった。
「赤リボンちゃん、来ちゃったんだ」
窓枠の上から、メルが顔を出す。
黒と赤紫のフリルを揺らし、楽しそうに足を振っている。
「せっかくいい感じだったのにねぇ」
レイナは窓の外を見たまま答えた。
「少しくらい支えがあった方がいいよ」
「どうして?」
「一度持ち直した方が、次に落ちた時に深くなるから」
メルが目を丸くする。
「レイナちゃん、こわーい」
「あなたに言われたくないな」
レイナはスマートフォンを操作する。
画面には、動画の再生数が表示されていた。
二十五万回。
コメントは、今も増え続けている。
「順調?」
メルが尋ねる。
「まだ全然」
レイナは微笑む。
学校で見せるものと同じ、やさしい笑顔。
「リノちゃんは、こんなことで折れる子じゃないよ」
「じゃあ、どうするの?」
「もっと優しくしてあげる」
レイナの指が、次の投稿予定の映像を開く。
学校の玄関で段差を越えられないリノ。
教室で大声を上げたリノ。
今日、早退するリノ。
「周りがどれだけ我慢してるか」
「みんながどれだけ助けてあげてるか」
「少しずつ見せてあげるの」
メルは楽しそうに笑った。
「そうしたら、いい子ちゃんは自分で自分を嫌いになる?」
「うん」
レイナの声が、少しだけ伸びる。
「自分から、みんなの前から消えたくなるよねぇー?」
メルは黒いキャンディを口へ入れた。
「じゃあ、甘くなったら迎えに行こっと」
「まだ早いよ」
「えー?」
「自分から先生のところへ行きたいって言わせるの」
レイナは窓の外を見る。
黄色い傘のひまり。
車椅子のリノ。
二人の姿が、雨の向こうへ小さくなっていく。
「連れていくんじゃない」
「選ばせるの」
メルは、くすくす笑った。
「レイナちゃん、先生みたーい」
その言葉に、レイナの笑顔が一瞬だけ消えた。
けれど、すぐ元へ戻る。
「先生みたいにはならないよ」
「そう?」
「私は、ただ助けてあげたいだけ」
黒いキャンディが、窓枠の上で小さく転がった。
メルが首をかしげる。
「それ、先生も言ってたよ?」
レイナは答えなかった。
ただ、画面の中のリノへ指を触れる。
再生ボタンを押す。
リノが叫ぶ。
『違う!』
レイナは、その場面を見ながらやさしく囁いた。
「大丈夫だよ、リノちゃん」
「もうすぐ、何も信じなくてよくなるから」
雨の音に混じって。
黒いキャンディの砕ける音が、静かに響いた。




