第34話 前編 優しい嘘♡
電車の中で起きたことから、三日が経った。
いつもの朝。
いつもの制服。
いつもの通学路。
それでも、リノには何もかもが少しずつ違って見えた。
車椅子の車輪が、歩道の小さな継ぎ目を越えるたびに揺れる。
以前なら気にも留めなかった、ほんのわずかな段差。
道の端に寄せられた自転車。
点字ブロックの上に置かれた看板。
人とすれ違うには狭い歩道。
どれも、今のリノには無視できないものだった。
「リノちゃん、次のところ少し狭いよ」
隣を歩いていたミカが言う。
「うん」
「押そうか?」
リノは前方を確認した。
自転車と電柱の間に、車椅子一台がぎりぎり通れる程度の隙間がある。
「自分で行ってみる」
「分かった」
ミカはすぐに後ろへ下がった。
リノは左右の車輪をゆっくり回す。
前輪が自転車のスタンドへ触れそうになる。
少し右へ。
今度は電柱に近づきすぎる。
「……難しい」
「焦らなくていいよ」
ミカの声に急かす感じはなかった。
けれど、後ろから通学中の生徒たちが近づいてきている。
足音が増える。
話し声が近づく。
リノの手に力が入った。
「早くしないと」
「待ってもらって大丈夫だよ」
「でも」
車輪を強く押す。
車椅子が前へ出た。
ぎりぎりの隙間を抜ける。
自転車には当たらなかった。
「通れた」
小さく息を吐く。
「うん。通れたね」
ミカが笑う。
それだけのことなのに、少し嬉しかった。
でも、後ろを歩いていた生徒たちが横を通り抜ける時。
「遠回りすればいいのに」
誰かが小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのかは分からない。
聞き間違いかもしれない。
それでもリノの手は止まった。
「リノちゃん?」
「なんでもない」
リノは、もう一度車輪を回した。
◇
駅では、前回と同じように駅員へ声をかけた。
「車椅子で、学校の最寄り駅までお願いします」
前より少しだけ、声を出せた。
聞き返されることもなかった。
「かしこまりました。少々お待ちください」
「ありがとうございます」
駅員は普通に対応してくれた。
ホームまでの案内も。
スロープの準備も。
何も特別なことではないように進んでいく。
それでも、改札の前で待っている間、リノは周囲の視線が気になった。
スマートフォンを見ている人。
急いで通り過ぎる人。
リノを一度見てから、もう一度見る人。
その一人が、隣の友達へ画面を見せた。
二人の視線がリノへ向く。
「……あれじゃない?」
声は小さかった。
けれど、聞こえた。
リノは胸元を押さえる。
「どうしたの?」
セナが尋ねる。
「今、何か……」
振り返った時には、その二人は人混みの中へ消えていた。
「なんでもない」
「白咲さん」
「本当に、なんでもないよ」
セナはしばらくリノを見ていた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
そこへレイナがやって来る。
「おはよう、リノちゃん」
いつもと変わらない柔らかな声。
「今日はちゃんと駅員さんに言えたんだね」
「うん」
「すごいね。少しずつ慣れてきたんだ」
レイナは嬉しそうに笑った。
褒められている。
それなのに、リノの胸には小さな引っかかりが残る。
どうしてだろう。
駅員にお願いすることは、そんなに特別に褒められることなのだろうか。
「レイナさん」
セナが少し硬い声で呼んだ。
「白咲さんは、駅員さんへ必要な案内を依頼しただけです」
「うん、分かってるよ」
レイナは不思議そうに首をかしげる。
「初めてのことができるようになったから、よかったねって思っただけ」
「そうですか」
「セナちゃん、ちょっと厳しくない?」
いろはが小声で言う。
「言葉の選び方が気になっただけです」
レイナは困ったように笑った。
「ごめんね、リノちゃん。嫌な言い方だった?」
「ううん」
リノはすぐに首を振った。
「そんなことないよ」
「よかった」
レイナは安心したように胸へ手を当てる。
「私、リノちゃんを傷つけたくないから」
その言葉は、優しかった。
でも、なぜか。
傷つけたくないと言われたことで、傷ついていると思われている気がした。
◇
電車は、何事もなく目的地へ着いた。
窓が目のように歪むこともなかった。
黒いリボンが車輪へ絡みつくこともない。
アナウンスも、普通だった。
『次は、〇〇駅です』
ただそれだけ。
それなのにリノは、ずっと肩に力を入れていた。
また景色が灰色になるかもしれない。
また終点が消えるかもしれない。
また、みんなを巻き込むかもしれない。
車内の窓へ映った自分を見る。
車椅子に座っている。
少し青白い顔。
黒いリボンをつけたもう一人の自分は、今日は映っていなかった。
それでも、窓から目をそらした。
「今日は普通だったね」
いろはがほっとしたように言う。
「うん」
ミカも笑う。
「よかったね、リノちゃん」
「うん」
リノも笑おうとした。
口元は動いた。
でも、胸の奥は少しも軽くならなかった。
ホームへ降りる。
駅員がスロープを用意する間、乗客がドアの前で待っていた。
「少々お待ちください」
駅員の声。
その後ろから聞こえる、小さなため息。
リノは急いで車輪を回そうとした。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
駅員が言う。
「はい」
それでも、急いだ。
前輪がスロープの端へ乗り、車椅子が少し傾く。
「リノちゃん!」
ミカがすぐ後ろを支えた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
反射的に答える。
ホームへ降りると、後ろから乗客たちが次々と出てくる。
リノは壁際へ寄った。
「ごめんなさい」
誰に向けたのか分からないまま謝る。
レイナが隣へ来た。
「気にしなくていいよ」
やさしい声。
「みんな、少しくらい待ってくれるから」
「うん」
「待ちたくなくても、待つしかないもんね」
リノが顔を上げる。
レイナはいつも通り笑っていた。
「……今、なんて?」
「人が多いから、ここで少し待とうって言ったの」
「そう……」
「リノちゃん、疲れてるんじゃない?」
レイナは心配そうに眉を下げる。
「昨日もちゃんと眠れた?」
「少しは」
「無理しない方がいいよ。聞き間違いが増えたら大変だから」
聞き間違い。
やっぱり、リノが間違えたのだろうか。
「ごめんね」
「謝らなくていいよ」
レイナは、リノの肩へそっと手を置いた。
「私はずっと、リノちゃんの味方だから」
◇
学校へ着くと、教室の空気が少し変だった。
リノが入った瞬間、数人がスマートフォンの画面を伏せた。
話し声が止まる。
すぐに別の話題が始まる。
昨日までも視線はあった。
でも今日は、見られ方が違う。
心配や驚きではない。
何かを知っている目。
「おはよう」
リノが言う。
「……おはよう」
返事は返ってくる。
けれど、少し遅い。
自分の席へ進む途中。
後ろから、小さな声がした。
「本当にこの子?」
「制服一緒じゃん」
「でも顔、ちゃんと映ってなかったよ」
「車椅子が同じ」
リノの手が止まった。
振り返る。
話していた二人は、何事もなかったように教科書を開いた。
「どうしたの?」
ミカが尋ねる。
「今、私のこと……」
「何か言われた?」
「分からない」
また、聞き間違いかもしれない。
レイナに言われた言葉が浮かぶ。
疲れている。
聞き間違いが増えている。
「なんでもない」
リノは席へ着いた。
机の端を見る。
ミミルはいない。
いつもなら、こういう時に聞けた。
『ぼくも聞いたよ』
あるいは、
『リノ、気にしすぎだよ』
どちらでもよかった。
自分以外の誰かが、現実を確かめてくれた。
でも今は、自分の耳しかない。
自分の耳が間違っていたら。
自分の感じ方がおかしかったら。
誰にも分からない。
リノは教科書を開いた。
文字が頭に入ってこなかった。
◇
二時間目が終わった休み時間。
いろはが廊下から勢いよく教室へ戻ってきた。
顔色が悪い。
「ミカちゃん、セナちゃん」
声を抑えて呼ぶ。
「ちょっと来て」
「どうしたの?」
「いいから」
三人は教室の隅へ集まった。
いろはがスマートフォンを見せる。
その表情を見た瞬間、リノの胸がざわついた。
「何?」
いろはが慌てて画面を伏せる。
「なんでもないよ」
「今、私のこと見たよね」
「違うの」
「見せて」
「リノちゃん、これは」
「見せて」
自分でも驚くほど強い声が出た。
教室にいた何人かが振り返る。
いろはは困った顔でミカを見る。
ミカも首を横に振る。
「見ない方がいいと思う」
「どうして?」
「リノちゃんが傷つくから」
「私のことなの?」
誰も答えない。
それが答えだった。
「見せて」
リノは手を伸ばした。
「私のことなら、私だけ知らないのは嫌」
セナが静かに息を吐いた。
「見せないことで余計に不安になる可能性もあります」
「セナちゃん」
「ただし、コメント欄はまだ見ない方がいいです」
セナはいろはからスマートフォンを受け取った。
画面を操作する。
そしてリノへ渡した。
そこには、短い動画が表示されていた。
投稿タイトル。
『朝の電車で突然叫び出す女子高生』
再生回数は、すでに五万を超えている。
動画の最初。
電車の中。
車椅子に座っているリノが映っていた。
『違う!』
リノが叫ぶ。
次の瞬間、映像が切り替わる。
乗客たちがよろめく。
荷物が床へ落ちる。
誰かの悲鳴。
もう一度、リノ。
『お願い! 信じて!』
ルルへ向けて叫んだ言葉。
でも、映像にはルルの姿がない。
魔法少女たちも。
黒いリボンも。
電車ノイズも。
何も映っていない。
ただ車椅子に座ったリノが、混乱する車内で叫んでいる。
最後は、ミカがリノの肩を掴んでいる場面。
そこで動画は終わった。
「……これ」
リノの指が震える。
「途中が、ない」
「編集されています」
セナが答えた。
「ノイズが現れた部分も、ルル先輩たちが戦っている部分もありません」
「でも」
リノはもう一度再生する。
『違う!』
自分の声。
乗客の悲鳴。
『お願い! 信じて!』
「私、本当に叫んでる」
「状況が違うよ」
ミカが言う。
「リノちゃんは、みんなを助けようとしてた」
「でも、これだけ見た人には分からない」
リノは再生画面を止める。
止まった映像の中で、自分はひどく怯えた顔をしていた。
車椅子に座り。
大声を上げ。
周囲を混乱させているように見える。
「誰が撮ったの?」
「分かりません」
セナが画面を確認する。
「投稿者は作られたばかりの匿名アカウントです。動画にも位置情報などは残っていません」
「車内にいた誰かだよね」
いろはが唇を噛む。
「ひどいよ。こんな切り取り方」
リノの視線が、教室の奥へ向く。
レイナがいた。
友達と話しながら、柔らかく笑っている。
電車ではずっと近くにいた。
スマートフォンも持っていた。
でも。
レイナがそんなことをするはずがない。
ずっと優しくしてくれた。
困った時に助けてくれた。
『私はずっと、リノちゃんの味方だから』
その言葉を思い出す。
「リノちゃん?」
ミカが呼ぶ。
「……コメント」
「見ないで」
「でも」
「見なくていい」
ミカがスマートフォンへ手を伸ばす。
リノは反射的に引いた。
「私のことを言われてるんだよ」
「だから見なくていいんだよ!」
「知らないままの方が怖い!」
教室が静かになる。
リノは、はっとした。
大きな声を出した。
またみんなが見ている。
「ごめん……」
小さく謝る。
それから画面を下へ動かした。
コメント欄が開く。
『何があったの?』
『急に叫ぶの怖すぎ』
『周りの人かわいそう』
『車椅子だから誰も強く言えなかったのかな』
『電車止まったのこの人のせい?』
『学校の制服映ってない?』
『被害者ぶってるように見える』
一つ。
また一つ。
知らない人の言葉が並ぶ。
事情を知らない人。
リノの名前も知らない人。
それなのに、誰もがリノのことを知っているように書いていた。
「違う」
リノは呟く。
「私、そんなつもりじゃ」
さらに画面を動かす。
『こういう人がいると周りが迷惑する』
『介助者も大変そう』
『一人で乗らない方がいいんじゃない?』
『学校に連絡した方がよくない?』
画面の文字が、少しずつ滲む。
「リノちゃん、もうやめよう」
ミカがスマートフォンを取り上げようとする。
リノは抵抗しなかった。
手から画面が離れる。
それでも、コメントの言葉だけは目の前に残った。
周りが迷惑。
介助する人も大変。
一人で乗らない方がいい。
学校へ連絡。
「本当に、私のせいじゃないのかな」
声が震えた。
「違います」
セナがはっきり答える。
「動画は意図的に編集されています」
「でも、映ってるのは本当だよ」
「一部分だけです」
「私が叫んだのも本当」
「必要があったからです」
「みんなが転んだのも」
「ノイズの影響です」
「私が電車に乗った日に起きた」
セナが言葉を止める。
リノは自分の足を見る。
動かない足。
車椅子。
自分が乗るために待った人たち。
動かしてもらった荷物。
用意してもらったスロープ。
早起きしたミカたち。
レイナの言葉が、耳の奥で蘇る。
『みんな、リノちゃんに合わせて早起きして』
『駅員さんにも来てもらって』
『車内の人にもどいてもらって』
『嫌でも、優しくしてくれるよねぇー?』
リノの顔から、少しずつ色が消えていった。
「白咲さん」
セナが目線を合わせる。
「今、誰かの言葉を自分の考えだと思い込もうとしています」
「誰かの言葉?」
「動画の投稿者。コメントを書いた人たち。それから……」
セナは一瞬だけレイナの方を見た。
すぐに視線を戻す。
「あなたへ罪悪感を持たせる言い方をした誰かです」
「レイナちゃんは、そんなことしないよ」
思わず答えていた。
セナは何も言わなかった。
「レイナちゃんは優しいよ」
リノは繰り返した。
「ずっと、助けてくれてる」
言葉にするほど、不安になった。
本当に?
やさしい声。
穏やかな笑顔。
けれど、その間に混ざる、聞き間違いのような言葉。
『気にするよねぇー』
『嫌でも、優しくしてくれるよねぇー?』
リノは頭を押さえた。
「分からない」
何が本当なのか。
自分が聞いたことが本当なのか。
動画が本当なのか。
コメントが本当なのか。
みんなの「違う」が本当なのか。
「分からないよ……」
その時、教室の後ろからレイナが近づいてきた。
「リノちゃん?」
心配そうな声。
「どうしたの?」
レイナはミカが持っているスマートフォンを見る。
画面に表示された動画。
驚いたように口元へ手を当てた。
「これ……リノちゃん?」
リノは答えられない。
「ひどい」
レイナの声が震える。
「こんな動画、誰が撮ったの?」
セナがレイナを見る。
「心当たりはありませんか?」
「どうして私に聞くの?」
「あなたも同じ車両にいました」
「ミカちゃんも、いろはちゃんも、セナちゃんもいたよね?」
レイナは傷ついたように眉を下げる。
「私を疑ってるの?」
「確認しているだけです」
「そっか」
レイナは寂しそうに笑った。
「リノちゃんを助けたいと思っただけなのに」
「レイナちゃん」
リノが顔を上げる。
レイナはすぐにリノのそばへしゃがんだ。
「大丈夫だよ」
リノの手を、両手で包む。
「ネットの人たちは、本当のリノちゃんを知らないから」
「でも」
「私たちは知ってるよ」
優しい声だった。
「リノちゃんが悪い子じゃないって」
悪い子じゃない。
その言葉が、胸へ刺さった。
悪くない、と言われるほど。
自分が何か悪いことをしたように感じる。
レイナはリノの手を撫でる。
「だから、気にしなくていいよ」
リノにだけ届くほど小さな声で。
笑顔のまま、続けた。
「気にしないなんて、できないと思うけどねぇー?」
リノの目が見開かれた。
すぐそばにいるミカたちには聞こえていない。
レイナは何事もなかったように立ち上がる。
「先生にも相談しよう」
いつもの優しい口調。
「リノちゃんがこれ以上傷つかないようにしないとね」
リノは、何も言えなかった。
手のひらには、レイナの温かさが残っている。
その温かさが。
なぜか、黒いキャンディの甘い匂いに思えた。




