第四話 笑わなくてもいい日
放課後の教室は、昼間より少しだけ広く見える。
さっきまで机の間を飛び交っていた声も、椅子を引く音も、笑い声も、チャイムと一緒にどこかへ流れていった。
窓の外では、夕焼けが校庭をオレンジ色に染めている。
リノは自分の席に座ったまま、帰り支度をする手を止めていた。
ポケットの中のブローチが、まだ気になっている。
白いリボンの端に残った黒い点。
朝より少し薄くなったように見えたけれど、消えたわけではない。
そして、鏡の中に現れたもうひとりの自分。
黒いリボンをつけたリノ。
冷たい目で笑いながら、リノの奥に隠していた気持ちを言い当てた。
「いい子って疲れない?」
その声を思い出すたびに、胸の奥が小さくざわつく。
リノは鞄の中に教科書をしまいながら、小さく息を吐いた。
「白咲さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、ミカが教室の入口に立っていた。
いつもの明るい笑顔ではなかった。
けれど、無理に作った笑顔でもなかった。
少し迷っていて、少し緊張していて、それでもちゃんとリノの方を見ている顔だった。
「今、帰るところ?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
ミカが首を傾げる。
リノは自分の曖昧な返事に気づいて、慌てて鞄のファスナーを閉めた。
「帰るところ」
「よかったら、一緒に帰らない?」
ミカの声は、少しだけ小さかった。
リノはすぐに返事をしようとして、できなかった。
一緒に帰る。
それは普通のことだ。
クラスメイト同士なら、別におかしくない。
でもリノにとっては、なぜかとても大きなことのように思えた。
昨日、リノはミカの心の中を見た。
誰にも言えなかった寂しさを聞いた。
笑っていないミカを知ってしまった。
だから、普通の顔で隣を歩ける自信がなかった。
「嫌なら、全然いいんだけど」
ミカが少し早口で言う。
「ごめん、急に。なんか、変だよね」
「変じゃない」
リノは思わず立ち上がっていた。
声が少し大きかったせいで、ミカが目を丸くする。
リノは頬が熱くなるのを感じながら、視線をそらした。
「……一緒に帰る」
ミカは一瞬きょとんとして、それからほっとしたように笑った。
「うん」
その笑顔を見たとき、リノの胸元が少しだけ温かくなった。
学校を出ると、風が少し冷たかった。
夕方の空は、ピンクと紫が混ざったような色をしていた。
いつもなら綺麗だと思うだけの空が、今のリノには少し不安定に見える。
黒い星が落ちた夜から、空を見るのが少し怖くなった。
ふたりはしばらく、並んで黙って歩いた。
ミカはいつもより口数が少ない。
リノも、何を話せばいいのか分からない。
通学路の途中にある小さな公園の前で、ミカが足を止めた。
「少し、座ってもいい?」
「うん」
公園には誰もいなかった。
ブランコが二つ、風に揺れている。
砂場には忘れられた青いスコップ。
すべり台の影が、夕日のせいで長く伸びていた。
リノとミカは、ベンチに少し距離を空けて座った。
その距離が、今のふたりにちょうどよかった。
「昨日のこと」
ミカがぽつりと言った。
リノの背筋が少し伸びる。
「私、全部は覚えてないんだ」
「うん」
「でも、何かあったことはわかる、怖かったことは覚えてる」
ミカは自分の膝の上で、指をぎゅっと握った。
「体が動かなくて、息も苦しくて、頭の中でずっと声がしてた」
「声?」
「うん。私の声みたいな、でも私じゃないみたいな声」
リノは息をのんだ。
ノイズの声。
ミカの心の奥で膨らんで、怪物になった声。
「ずっと言ってたの」
ミカは夕焼けを見上げた。
「見てほしいって」
風が吹いて、ブランコの鎖が小さく鳴った。
「変だよね。私、友達がいないわけじゃないのに。
クラスでも普通に話してるし、家でも別に大きな問題があるわけじゃない。
なのに、なんかずっと寂しくて」
ミカは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「そういうのって、わがままなのかな」
リノはすぐに「違う」と言いたかった。
でも、昨日の自分なら言えたその言葉が、今日は少しだけ重かった。
だって、同じことを自分にも言えるのか分からなかったから。
誰かに見てほしい。
気づいてほしい。
選んでほしい。
それは、悪いことなのだろうか。
リノはポケットの中で、そっとブローチを握った。
「わがままじゃないと思う」
ゆっくりと、リノは言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「うん。私もまだ、よく分かってないから」
ミカは少し驚いたようにリノを見た。
リノは視線を落としたまま続ける。
「でも、寂しいって思うこと自体は、悪いことじゃないと思う。見てほしいって思うのも、たぶん」
自分に言い聞かせるみたいな言葉だった。
ミカはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「白咲さんって、ちゃんと考えてから話すよね」
「え?」
「適当に『大丈夫だよ』って言わない感じ」
リノは少し困った。
「すぐ言えないだけだよ」
「でも、私はその方が嬉しい」
ミカは膝の上で手をほどいた。
「昨日から、みんなに『大丈夫?』って聞かれるたびに、『大丈夫』って答えてた。そう答えた方が、相手も安心するから」
「うん」
「でも本当は、大丈夫じゃなかった」
ミカの声が震えた。
「今日も、朝からずっと怖かった。またあの黒いものが出たらどうしようって。みんなの前で変になったらどうしようって。笑わなきゃって思うほど、顔が動かなくなりそうで」
ミカの目に涙が浮かんだ。
リノは、何か言わなきゃと思った。
励ます言葉。
安心させる言葉。
魔法少女らしい、優しい言葉。
けれど、どれも口に出す前に薄っぺらくなってしまう。
だからリノは、ただ言った。
「今は、笑わなくてもいいよ」
ミカがリノを見る。
「ここ、誰もいないし」
リノは少しだけぎこちなく笑った。
「私も、うまく笑えないから」
ミカは目を見開いた。
そして次の瞬間、ぽろぽろと涙をこぼした。
大きな声で泣くのではなく、こらえていたものが静かにあふれるような泣き方だった。
リノは慌てた。
「ご、ごめん。変なこと言った?」
ミカは首を横に振った。
「違う」
涙を拭きながら、ミカは笑った。
今度は、泣きながらの笑顔だった。
「ちょっと、安心しただけ」
リノは何も言えなくなった。
胸の奥が、じんわりと温かい。
昨日のノイズの声も、鏡の中のリノの声も、全部消えたわけじゃない。
でも今、この公園のベンチにいる間だけは、少し遠くなった気がした。
リノは鞄からハンカチを出して、ミカに差し出した。
「使う?」
「ありがとう」
ミカはハンカチを受け取り、目元を押さえた。
白いハンカチに、小さな星の刺繍がついている。
小学生の頃から使っている、少し子どもっぽいハンカチだった。
「かわいいね」
ミカが言う。
「え、そうかな」
「うん。白咲さんっぽい」
「私っぽい?」
「ふわふわしてるけど、ちゃんと星がある感じ」
リノはよく分からなくて、少しだけ首を傾げた。
ミカは涙の残った顔で笑った。
「ごめん、変なこと言った」
「ううん」
リノは自分の手元を見た。
白いハンカチ。
星の刺繍。
少し古くなった端のほつれ。
自分っぽい。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
そのとき、ポケットの中のブローチが、ほんの少し温かくなった。
リノは気づかれないように、そっと取り出す。
白いリボンの端にあった黒い点が、ほんの少しだけ薄くなっていた。
消えたわけではない。
けれど、朝よりも確かに小さく見えた。
リノの胸が小さく跳ねる。
「どうしたの?」
ミカが覗き込もうとしたので、リノは慌ててブローチを手の中に隠した。
「な、なんでもない」
「あ、それかわいい。ブローチ?」
「うん。拾った……じゃなくて、えっと、もらったというか」
「誰に?」
「うさぎみたいな……」
言いかけて、リノは口を閉じた。
魔法少女のことは言えない。
ミミルのことも。
ノイズのことも。
秘密が増えていく。
ミカが少し不思議そうに見つめる。
リノはごまかすように笑った。
「大事なもの」
ミカはそれ以上聞かなかった。
「そっか」
ただ、そう言ってくれた。
そのやさしさに、リノはまた少し救われた。
公園を出るころには、空の色は濃い紫に変わり始めていた。
住宅街の明かりがひとつ、またひとつと灯っていく。
どこかの家から夕飯の匂いがして、遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
ミカはリノの隣を歩きながら、少しだけ軽い声で言った。
「私さ、明日から急に変われるわけじゃないと思う」
「うん」
「たぶん、また笑っちゃう。平気なふりもすると思う」
「うん」
「でも、もしまた無理してたら……」
ミカは少し迷ってから、リノを見た。
「白咲さん、気づいてくれる?」
リノはすぐには答えられなかった。
気づいてあげたい。
でも、絶対なんて言えない。
誰かの心を全部分かることなんてできない。
だから、正直に言った。
「気づけるように、見る」
ミカの目が少し丸くなる。
「絶対気づく、じゃないんだ」
「絶対は、ちょっと怖いから」
リノは苦笑した。
「でも、ちゃんと見るようにする」
ミカは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。
「うん。それがいい」
その笑顔は、昨日までの明るすぎる笑顔とは違っていた。
少し弱くて、少しあたたかい。
壊れないように飾られた笑顔じゃなくて、壊れてもいい場所で見せる笑顔。
リノはその笑顔を見て、思った。
自分も、いつかこんなふうに笑えるだろうか。
ミカと別れたあと、リノはひとりで商店街を歩いていた。
昨日ノイズが現れた場所は、すっかり片づけられていた。
少し焦げたタイルの跡はあるけれど、店は普通に開いている。
通行人も、何事もなかったように歩いている。
リノは足を止めた。
ここで、ミカのノイズが生まれた。
ここで、リノは魔法少女になって戦った。
ここで、ノイズの声を聞いた。
そしてここで、リノのリボンに黒い点がついた。
「リノ」
街灯の上から声がした。
見上げると、ミミルが座っていた。
夕闇の中で、白い体がぼんやり光っている。
「ミミル」
「ミカちゃんと話せた?」
「うん」
「そっか」
ミミルは街灯から飛び降り、リノの肩に乗った。
いつもなら軽いはずのその重みが、今日は少しだけ気まずかった。
昼休みのことがあるからだ。
ミミルは何かを隠している。
鏡の中のリノは、そう言った。
そしてミミル自身も、否定しなかった。
「ミミル」
「うん」
「あとで話してくれるって言ったよね」
ミミルのしっぽがぴたりと止まった。
「うん」
「今、聞いてもいい?」
ミミルは少しの間黙っていた。
商店街のスピーカーから、閉店前の音楽が流れている。
明るくて、少し古いメロディ。
昨日の夜の恐怖とは似合わないくらい、のんきな音だった。
ミミルはやがて、小さく言った。
「全部は、まだ話せない」
リノの胸が冷えた。
「またそれ?」
「ごめん。でも、嘘はつきたくないから言う。全部を話すには、まだ危ない」
「私が?」
「リノも、ぼくも」
「ミミルも?」
リノが聞き返すと、ミミルは頷いた。
「ぼくは、君を魔法少女にした。でも、ぼくがこの街に来た本当の理由は、それだけじゃない」
リノは肩の上のミミルを見た。
「どういうこと?」
ミミルは商店街の奥を見つめた。
そこには、古い噴水がある。
リノが白いリボンのブローチを拾った場所。
「あの黒い星が落ちる前から、この街には小さなノイズがあった」
「前から?」
「うん。黒い星はきっかけにすぎない。本当はずっと前から、人の心の奥に溜まっていたものがあったんだ」
リノは息をのんだ。
「じゃあ、これからも出るの?」
「出る」
ミミルの声は静かだった。
「たぶん、もっと強いノイズが」
その言葉と同時に、リノのブローチがかすかに震えた。
リノは胸元を押さえる。
「またノイズなの?」
「結構近いよ」
ミミルは耳を立てた。
「でも、昨日のノイズとは違う。これは……」
ミミルの言葉が止まった。
商店街の奥。
古い噴水の前に、ひとりの女の子が立っていた。
リノと同じくらいの年。
黒い髪を高い位置で結んでいて、制服の上に長い黒のパーカーを羽織っている。
夕闇の中でも、その瞳だけが妙にはっきり見えた。
女の子は、リノの方を見ていた。
そして、ゆっくり笑った。
「見つけた」
声は聞こえなかったはずなのに、なぜかリノにはそう言ったように分かった。
ミミルの体が、肩の上でこわばる。
「ミミル?」
リノが小さく呼ぶ。
ミミルは答えなかった。
ただ、震える声で呟いた。
「黒羽ノア……」
リノは聞き慣れない名前を繰り返す。
ブローチから名前が溢れてきた。
「くろば、ノア?」
その女の子――黒羽ノアは、噴水のふちに腰かけた。
まるでリノが来るのを待っていたみたいに。
ノアの胸元には、黒いリボンのブローチがあった。
リノの白いブローチと、同じ形。
ただし色は、夜より深い黒。
リノの手の中で、白いリボンが熱くなる。
黒い点が、またじわりと疼いた。
「ミミル」
リノは震える声で言った。
「あの子も、魔法少女なの?」
ミミルは答えるまでに、少し時間がかかった。
そして、苦しそうに言った。
「元、魔法少女だよ」
その瞬間、商店街の照明が一斉にちらついた。
古い噴水の水面が黒く染まる。
そこから、昨日とは違うノイズの気配が立ち上った。
リノは息を止めた。
ノアは黒いリボンを指でなぞりながら、楽しそうに笑う。
「白い子って、本当にまだいたんだ」
今度は、はっきり声が聞こえた。
「ねえ、あなた」
ノアの瞳が、リノをまっすぐ射抜く。
「いつまで、いい子でいるつもり?」
リノの胸元のリボンが、びくりと震えた。
夕方の商店街に、黒い星の影が落ちる。
ミカと話して少しだけ温かくなった心の奥に、冷たい風が吹き込んだ。
リノはステッキを呼び出す言葉を、まだ口にできなかった。
白いリボンと黒いリボン。
ふたつの魔法が、夜の入口で向かい合う。
そしてリノは、初めて知ることになる。
魔法少女は、自分だけではなかったのだと。
ノイズ側に落ちた魔法少女がいることを。




