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リボンが黒く染まるまで 〜救うほど闇に近づく魔法少女になってしまいました…!〜  作者: ぽころっと
Chapter 1

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第四話 笑わなくてもいい日


 放課後の教室は、昼間より少しだけ広く見える。


 さっきまで机の間を飛び交っていた声も、椅子を引く音も、笑い声も、チャイムと一緒にどこかへ流れていった。

 窓の外では、夕焼けが校庭をオレンジ色に染めている。


 リノは自分の席に座ったまま、帰り支度をする手を止めていた。


 ポケットの中のブローチが、まだ気になっている。


 白いリボンの端に残った黒い点。

 朝より少し薄くなったように見えたけれど、消えたわけではない。


 そして、鏡の中に現れたもうひとりの自分。


 黒いリボンをつけたリノ。

 冷たい目で笑いながら、リノの奥に隠していた気持ちを言い当てた。


「いい子って疲れない?」


 その声を思い出すたびに、胸の奥が小さくざわつく。


 リノは鞄の中に教科書をしまいながら、小さく息を吐いた。


「白咲さん」


 名前を呼ばれて顔を上げると、ミカが教室の入口に立っていた。


 いつもの明るい笑顔ではなかった。

 けれど、無理に作った笑顔でもなかった。


 少し迷っていて、少し緊張していて、それでもちゃんとリノの方を見ている顔だった。


「今、帰るところ?」


「うん。たぶん」


「たぶん?」


 ミカが首を傾げる。


 リノは自分の曖昧な返事に気づいて、慌てて鞄のファスナーを閉めた。


「帰るところ」


「よかったら、一緒に帰らない?」


 ミカの声は、少しだけ小さかった。


 リノはすぐに返事をしようとして、できなかった。


 一緒に帰る。


 それは普通のことだ。

 クラスメイト同士なら、別におかしくない。


 でもリノにとっては、なぜかとても大きなことのように思えた。


 昨日、リノはミカの心の中を見た。

 誰にも言えなかった寂しさを聞いた。

 笑っていないミカを知ってしまった。


 だから、普通の顔で隣を歩ける自信がなかった。


「嫌なら、全然いいんだけど」


 ミカが少し早口で言う。


「ごめん、急に。なんか、変だよね」


「変じゃない」


 リノは思わず立ち上がっていた。


 声が少し大きかったせいで、ミカが目を丸くする。


 リノは頬が熱くなるのを感じながら、視線をそらした。


「……一緒に帰る」


 ミカは一瞬きょとんとして、それからほっとしたように笑った。


「うん」


 その笑顔を見たとき、リノの胸元が少しだけ温かくなった。


 学校を出ると、風が少し冷たかった。


 夕方の空は、ピンクと紫が混ざったような色をしていた。

 いつもなら綺麗だと思うだけの空が、今のリノには少し不安定に見える。


 黒い星が落ちた夜から、空を見るのが少し怖くなった。


 ふたりはしばらく、並んで黙って歩いた。


 ミカはいつもより口数が少ない。

 リノも、何を話せばいいのか分からない。


 通学路の途中にある小さな公園の前で、ミカが足を止めた。


「少し、座ってもいい?」


「うん」


 公園には誰もいなかった。


 ブランコが二つ、風に揺れている。

 砂場には忘れられた青いスコップ。

 すべり台の影が、夕日のせいで長く伸びていた。


 リノとミカは、ベンチに少し距離を空けて座った。


 その距離が、今のふたりにちょうどよかった。


「昨日のこと」


 ミカがぽつりと言った。


 リノの背筋が少し伸びる。


「私、全部は覚えてないんだ」


「うん」


「でも、何かあったことはわかる、怖かったことは覚えてる」


 ミカは自分の膝の上で、指をぎゅっと握った。


「体が動かなくて、息も苦しくて、頭の中でずっと声がしてた」


「声?」


「うん。私の声みたいな、でも私じゃないみたいな声」


 リノは息をのんだ。


 ノイズの声。


 ミカの心の奥で膨らんで、怪物になった声。


「ずっと言ってたの」


 ミカは夕焼けを見上げた。


「見てほしいって」


 風が吹いて、ブランコの鎖が小さく鳴った。


「変だよね。私、友達がいないわけじゃないのに。

クラスでも普通に話してるし、家でも別に大きな問題があるわけじゃない。

なのに、なんかずっと寂しくて」


 ミカは笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。


「そういうのって、わがままなのかな」


 リノはすぐに「違う」と言いたかった。


 でも、昨日の自分なら言えたその言葉が、今日は少しだけ重かった。


 だって、同じことを自分にも言えるのか分からなかったから。


 誰かに見てほしい。

 気づいてほしい。

 選んでほしい。


 それは、悪いことなのだろうか。


 リノはポケットの中で、そっとブローチを握った。


「わがままじゃないと思う」


 ゆっくりと、リノは言った。


「たぶん」


「たぶん?」


「うん。私もまだ、よく分かってないから」


 ミカは少し驚いたようにリノを見た。


 リノは視線を落としたまま続ける。


「でも、寂しいって思うこと自体は、悪いことじゃないと思う。見てほしいって思うのも、たぶん」


 自分に言い聞かせるみたいな言葉だった。


 ミカはしばらく黙っていた。

 それから、小さく息を吐いた。


「白咲さんって、ちゃんと考えてから話すよね」


「え?」


「適当に『大丈夫だよ』って言わない感じ」


 リノは少し困った。


「すぐ言えないだけだよ」


「でも、私はその方が嬉しい」


 ミカは膝の上で手をほどいた。


「昨日から、みんなに『大丈夫?』って聞かれるたびに、『大丈夫』って答えてた。そう答えた方が、相手も安心するから」


「うん」


「でも本当は、大丈夫じゃなかった」


 ミカの声が震えた。


「今日も、朝からずっと怖かった。またあの黒いものが出たらどうしようって。みんなの前で変になったらどうしようって。笑わなきゃって思うほど、顔が動かなくなりそうで」


 ミカの目に涙が浮かんだ。


 リノは、何か言わなきゃと思った。


 励ます言葉。

 安心させる言葉。

 魔法少女らしい、優しい言葉。


 けれど、どれも口に出す前に薄っぺらくなってしまう。


 だからリノは、ただ言った。


「今は、笑わなくてもいいよ」


 ミカがリノを見る。


「ここ、誰もいないし」


 リノは少しだけぎこちなく笑った。


「私も、うまく笑えないから」


 ミカは目を見開いた。

 そして次の瞬間、ぽろぽろと涙をこぼした。


 大きな声で泣くのではなく、こらえていたものが静かにあふれるような泣き方だった。


 リノは慌てた。


「ご、ごめん。変なこと言った?」


 ミカは首を横に振った。


「違う」


 涙を拭きながら、ミカは笑った。

 今度は、泣きながらの笑顔だった。


「ちょっと、安心しただけ」


 リノは何も言えなくなった。


 胸の奥が、じんわりと温かい。


 昨日のノイズの声も、鏡の中のリノの声も、全部消えたわけじゃない。

 でも今、この公園のベンチにいる間だけは、少し遠くなった気がした。


 リノは鞄からハンカチを出して、ミカに差し出した。


「使う?」


「ありがとう」


 ミカはハンカチを受け取り、目元を押さえた。


 白いハンカチに、小さな星の刺繍がついている。

 小学生の頃から使っている、少し子どもっぽいハンカチだった。


「かわいいね」


 ミカが言う。


「え、そうかな」


「うん。白咲さんっぽい」


「私っぽい?」


「ふわふわしてるけど、ちゃんと星がある感じ」


 リノはよく分からなくて、少しだけ首を傾げた。


 ミカは涙の残った顔で笑った。


「ごめん、変なこと言った」


「ううん」


 リノは自分の手元を見た。


 白いハンカチ。

 星の刺繍。

 少し古くなった端のほつれ。


 自分っぽい。


 そんなふうに言われたのは、初めてだった。


 そのとき、ポケットの中のブローチが、ほんの少し温かくなった。


 リノは気づかれないように、そっと取り出す。

 白いリボンの端にあった黒い点が、ほんの少しだけ薄くなっていた。


 消えたわけではない。

 けれど、朝よりも確かに小さく見えた。


 リノの胸が小さく跳ねる。


「どうしたの?」


 ミカが覗き込もうとしたので、リノは慌ててブローチを手の中に隠した。


「な、なんでもない」


「あ、それかわいい。ブローチ?」


「うん。拾った……じゃなくて、えっと、もらったというか」


「誰に?」


「うさぎみたいな……」


 言いかけて、リノは口を閉じた。


 魔法少女のことは言えない。

 ミミルのことも。

 ノイズのことも。


 秘密が増えていく。


 ミカが少し不思議そうに見つめる。


 リノはごまかすように笑った。


「大事なもの」


 ミカはそれ以上聞かなかった。


「そっか」


 ただ、そう言ってくれた。


 そのやさしさに、リノはまた少し救われた。


 公園を出るころには、空の色は濃い紫に変わり始めていた。


 住宅街の明かりがひとつ、またひとつと灯っていく。

 どこかの家から夕飯の匂いがして、遠くで子どもの笑い声が聞こえた。


 ミカはリノの隣を歩きながら、少しだけ軽い声で言った。


「私さ、明日から急に変われるわけじゃないと思う」


「うん」


「たぶん、また笑っちゃう。平気なふりもすると思う」


「うん」


「でも、もしまた無理してたら……」


 ミカは少し迷ってから、リノを見た。


「白咲さん、気づいてくれる?」


 リノはすぐには答えられなかった。


 気づいてあげたい。

 でも、絶対なんて言えない。

 誰かの心を全部分かることなんてできない。


 だから、正直に言った。


「気づけるように、見る」


 ミカの目が少し丸くなる。


「絶対気づく、じゃないんだ」


「絶対は、ちょっと怖いから」


 リノは苦笑した。


「でも、ちゃんと見るようにする」


 ミカは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑った。


「うん。それがいい」


 その笑顔は、昨日までの明るすぎる笑顔とは違っていた。


 少し弱くて、少しあたたかい。

 壊れないように飾られた笑顔じゃなくて、壊れてもいい場所で見せる笑顔。


 リノはその笑顔を見て、思った。


 自分も、いつかこんなふうに笑えるだろうか。


 ミカと別れたあと、リノはひとりで商店街を歩いていた。


 昨日ノイズが現れた場所は、すっかり片づけられていた。

 少し焦げたタイルの跡はあるけれど、店は普通に開いている。

 通行人も、何事もなかったように歩いている。


 リノは足を止めた。


 ここで、ミカのノイズが生まれた。

 ここで、リノは魔法少女になって戦った。

 ここで、ノイズの声を聞いた。


 そしてここで、リノのリボンに黒い点がついた。


「リノ」


 街灯の上から声がした。


 見上げると、ミミルが座っていた。

 夕闇の中で、白い体がぼんやり光っている。


「ミミル」


「ミカちゃんと話せた?」


「うん」


「そっか」


 ミミルは街灯から飛び降り、リノの肩に乗った。


 いつもなら軽いはずのその重みが、今日は少しだけ気まずかった。


 昼休みのことがあるからだ。


 ミミルは何かを隠している。

 鏡の中のリノは、そう言った。


 そしてミミル自身も、否定しなかった。


「ミミル」


「うん」


「あとで話してくれるって言ったよね」


 ミミルのしっぽがぴたりと止まった。


「うん」


「今、聞いてもいい?」


 ミミルは少しの間黙っていた。


 商店街のスピーカーから、閉店前の音楽が流れている。

 明るくて、少し古いメロディ。

 昨日の夜の恐怖とは似合わないくらい、のんきな音だった。


 ミミルはやがて、小さく言った。


「全部は、まだ話せない」


 リノの胸が冷えた。


「またそれ?」


「ごめん。でも、嘘はつきたくないから言う。全部を話すには、まだ危ない」


「私が?」


「リノも、ぼくも」


「ミミルも?」


 リノが聞き返すと、ミミルは頷いた。


「ぼくは、君を魔法少女にした。でも、ぼくがこの街に来た本当の理由は、それだけじゃない」


 リノは肩の上のミミルを見た。


「どういうこと?」


 ミミルは商店街の奥を見つめた。


 そこには、古い噴水がある。

 リノが白いリボンのブローチを拾った場所。


「あの黒い星が落ちる前から、この街には小さなノイズがあった」


「前から?」


「うん。黒い星はきっかけにすぎない。本当はずっと前から、人の心の奥に溜まっていたものがあったんだ」


 リノは息をのんだ。


「じゃあ、これからも出るの?」


「出る」


 ミミルの声は静かだった。


「たぶん、もっと強いノイズが」


 その言葉と同時に、リノのブローチがかすかに震えた。


 リノは胸元を押さえる。


「またノイズなの?」


「結構近いよ」


 ミミルは耳を立てた。


「でも、昨日のノイズとは違う。これは……」


 ミミルの言葉が止まった。


 商店街の奥。


 古い噴水の前に、ひとりの女の子が立っていた。


 リノと同じくらいの年。

 黒い髪を高い位置で結んでいて、制服の上に長い黒のパーカーを羽織っている。

 夕闇の中でも、その瞳だけが妙にはっきり見えた。


 女の子は、リノの方を見ていた。


 そして、ゆっくり笑った。


「見つけた」


 声は聞こえなかったはずなのに、なぜかリノにはそう言ったように分かった。


 ミミルの体が、肩の上でこわばる。


「ミミル?」


 リノが小さく呼ぶ。


 ミミルは答えなかった。


 ただ、震える声で呟いた。


「黒羽ノア……」


 リノは聞き慣れない名前を繰り返す。

 ブローチから名前が溢れてきた。


「くろば、ノア?」


 その女の子――黒羽ノアは、噴水のふちに腰かけた。

 まるでリノが来るのを待っていたみたいに。


 ノアの胸元には、黒いリボンのブローチがあった。


 リノの白いブローチと、同じ形。


 ただし色は、夜より深い黒。


 リノの手の中で、白いリボンが熱くなる。

 黒い点が、またじわりと疼いた。


「ミミル」


 リノは震える声で言った。


「あの子も、魔法少女なの?」


 ミミルは答えるまでに、少し時間がかかった。


 そして、苦しそうに言った。


「元、魔法少女だよ」


 その瞬間、商店街の照明が一斉にちらついた。


 古い噴水の水面が黒く染まる。

 そこから、昨日とは違うノイズの気配が立ち上った。


 リノは息を止めた。


 ノアは黒いリボンを指でなぞりながら、楽しそうに笑う。


「白い子って、本当にまだいたんだ」


 今度は、はっきり声が聞こえた。


「ねえ、あなた」


 ノアの瞳が、リノをまっすぐ射抜く。


「いつまで、いい子でいるつもり?」


 リノの胸元のリボンが、びくりと震えた。


 夕方の商店街に、黒い星の影が落ちる。


 ミカと話して少しだけ温かくなった心の奥に、冷たい風が吹き込んだ。


 リノはステッキを呼び出す言葉を、まだ口にできなかった。


 白いリボンと黒いリボン。


 ふたつの魔法が、夜の入口で向かい合う。


 そしてリノは、初めて知ることになる。


 魔法少女は、自分だけではなかったのだと。

 ノイズ側に落ちた魔法少女がいることを。

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