第32話 乗れない電車
朝六時。
目覚まし時計が静かな部屋に鳴り響く。
リノはゆっくりと目を開けた。
天井を見つめたまま、しばらく動けない。
夢を見ていた。
ミミルと一緒に学校へ向かう、何気ない夢。
『リノー! 遅刻するよー!』
『分かってるってば』
笑いながら追いかける。
そんな、ごく普通の朝だった。
「……夢か」
胸の奥が少し痛む。
隣を見る。
やっぱり、誰もいない。
いつもミミルが丸くなっていた場所だけが、ぽつんと空いていた。
「おはよう……ミミル」
返事はない。
それでもリノは、小さく笑った。
「今日ね、初めて電車で学校に行くんだよ」
独り言だった。
聞いてくれる相手はいない。
それでも話しかけずにはいられなかった。
◇
制服へ着替え終え、車椅子へ移る。
少しずつ慣れてきたとはいえ、まだ時間はかかる。
制服のスカートを整え、鞄を膝へ乗せる。
今日は落ちないように、ベルトで固定した。
「よし……」
深呼吸する。
今日は初めて車椅子で電車へ乗る。
昨日から、そのことばかり考えていた。
駅員さんへ何と言えばいいんだろう。
電車にちゃんと乗れるかな。
迷惑にならないかな。
そんな不安ばかりが頭を巡る。
「行ってきます」
玄関のドアを開ける。
夏の朝の空気が頬を撫でた。
◇
駅前には、ミカたちが待っていた。
「おはよう!」
ミカが笑顔で手を振る。
「リノちゃん!」
「おはよう」
リノも笑って答える。
セナはすでにスマートフォンを見ながら時刻を確認していた。
「予定通りです。一本遅い電車を利用します」
「余裕あるねー」
いろはが伸びをする。
「今日は練習みたいなものだし!」
その隣にはレイナもいた。
「おはよう、リノちゃん」
柔らかな笑顔。
昨日と変わらない優しい声。
「今日は私も一緒だから安心してね」
「ありがとう」
リノは少し緊張したまま頷いた。
「でも……やっぱり緊張する」
「そりゃそうだよ」
ミカが笑う。
「初めてなんだから。」
レイナも優しく続けた。
「駅員さんも慣れてるから大丈夫。」
一度言葉を区切る。
「……ただ、朝は人が多いから少し目立っちゃうかもしれないね。」
リノの肩が少しだけ震えた。
「……うん。」
レイナはすぐ笑顔に戻る。
「でも私たちもいるし、気にしなくていいよ。」
◇
駅へ着く。
いつもなら目の前の階段を上がるだけだった。
でも今日は違う。
「エレベーターは反対側です。」
セナが案内する。
改札とは逆方向へ歩く。
ぐるりと駅舎を回る。
普段なら一分もかからない場所へ、何倍もの時間がかかる。
「意外と遠いね」
いろはが言う。
「うん……」
リノは時刻表を見る。
いつも乗っていた電車は、もうホームへ入ってくる時間だった。
「私がいなかったら……」
ぽつりと呟く。
「みんな、あの電車に乗れたよね。」
ミカはすぐ答えた。
「違うよ。」
「え?」
「今日はリノちゃんと一緒に乗る電車が、私たちの電車。」
リノは少し驚く。
「だから気にしなくていい。」
レイナも頷いた。
「そうそう。」
優しく笑う。
「誰も急いでないよ。」
少しだけ間を置いて。
「……まあ、周りの人は急いでるかもしれないけど。」
リノの表情が曇る。
レイナは慌てたように笑った。
「あ、ごめん。」
「そういう意味じゃないからね。」
「うん……」
◇
改札前。
リノは深呼吸した。
駅員さんへ話しかける。
それだけなのに、喉が渇く。
「い、行ってきます。」
「大丈夫。」
ミカが小さく親指を立てた。
リノは改札へ近づく。
「あの……」
駅員が顔を上げた。
「はい。」
「車椅子で……〇〇駅まで……お願いします。」
声が小さかった。
「申し訳ありません。もう一度お願いします。」
後ろに人が並び始める。
リノの心臓が跳ねた。
ミカが一歩前へ出ようとする。
でもリノは首を振った。
「私が言う。」
もう一度、大きく息を吸う。
「車椅子で〇〇駅まで利用したいです!」
今度はちゃんと届いた。
「ありがとうございます。」
駅員は穏やかに頷いた。
「係員を呼びますので、少々お待ちください。」
それだけだった。
怒られることもない。
困った顔もされない。
普通に対応してくれた。
「ちゃんと言えたね。」
レイナが微笑む。
「えらいよ。」
その言葉に、リノは少しだけ引っかかった。
褒められている。
でも、小さい子どもみたいだ。
「……ありがとう。」
そう答えるしかなかった。
◇
駅員に案内され、エレベーターへ向かう。
「こちらです。」
エレベーターは思っていたより小さかった。
「一度に全員は乗れませんね。」
「じゃあ、リノちゃん先で!」
ミカが言う。
リノと駅員だけが先に乗る。
ドアが閉まる。
みんなの姿が見えなくなる。
少しだけ、不安だった。
エレベーターの壁は鏡になっている。
そこには車椅子に座る自分。
少し疲れた顔。
その後ろに。
一瞬だけ。
制服姿で立っているリノが映った。
車椅子ではない。
黒いリボンを胸につけたもう一人のリノ。
鏡の中だけが笑う。
――また、待たせてるね。
「!」
リノは勢いよく振り返る。
誰もいない。
「大丈夫ですか?」
駅員が心配そうに尋ねる。
「あ……はい。」
鏡を見る。
もう普通の自分しか映っていなかった。
ドアが開く。
ホームへ続く通路。
リノは小さく胸を押さえた。
「疲れてるだけ。」
そう言い聞かせる。
でも、鏡の中の笑顔だけは頭から離れなかった。
ホームでは、電車を待つたくさんの人が並んでいる。
駅員が白いスロープを準備し始める。
リノは、その光景を見つめながら息を飲んだ。
──本当に、乗れるんだろうか。
遠くから電車の走る音が近づいてくる。
風がホームを吹き抜けた。
リノは膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
その時だった。
ホームのスピーカーから流れる到着アナウンスが、一瞬だけ途切れた。
『まもなく──』
ザーッ……
『ご迷惑を──』
「……え?」
リノだけが、その違和感に気づいていた。
ホームの時計が、一瞬だけ止まったように見えた。
そして、遠くから近づく電車の窓に。
黒い影が、ゆっくりと揺れていた。
誰も、それに気づいていなかった。
ホームへ滑り込むように電車が到着した。
ブレーキ音とともに風が吹き抜ける。
駅員が素早く白いスロープを準備する。
「では、ご案内します。」
リノはゆっくり頷いた。
前輪がスロープへ乗る。
少しだけ角度がある。
車椅子が小さく揺れた。
「っ……」
思わず肘に力が入る。
「大丈夫ですよ。」
駅員が後ろからゆっくり支えてくれる。
そのまま車内へ入った。
リノは小さく息を吐く。
「乗れた……」
「やったね!」
ミカが笑顔になる。
「第一関門クリア!」
「まだ始まったばかりですよ。」
セナは苦笑しながら時刻表を確認する。
しかし、車椅子スペースには大きなスーツケースが二つ置かれていた。
「あ……」
駅員が近づく。
「申し訳ありません。こちら、車椅子をご利用のお客様がいらっしゃいますので、少しだけ移動をお願いできますでしょうか。」
荷物の持ち主は驚いたように顔を上げた。
「あっ、すみません!」
慌てて荷物を動かす。
隣にいた女性も少し場所を譲ってくれた。
「ありがとうございます。」
駅員がお礼を言う。
リノも慌てて頭を下げた。
「すみません……。」
「気にしなくていいですよ。」
女性は笑顔だった。
それでもリノは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
また誰かに場所を譲ってもらった。
また誰かに動いてもらった。
「ありがとう。」
ミカが小さく言う。
「え?」
「ちゃんとありがとうって言えたじゃん。」
「……うん。」
レイナは少し離れた場所へ立つ。
スマートフォンを取り出し、画面を眺める。
一見、路線図を確認しているようだった。
でもカメラはリノの方を向いている。
◇
ドアが閉まる。
電車がゆっくりと動き始めた。
ガタン。
車椅子が少し揺れる。
「わっ!」
リノは慌てて車輪を握る。
「急発進じゃなくても結構揺れるね。」
いろはが支える。
「慣れるまでは怖いかも。」
ミカもリノの横へ立った。
「私、ここにいるから。」
「ありがとう。」
車内は朝の通勤・通学時間。
制服姿の高校生。
会社員。
買い物帰りのお年寄り。
いろいろな人がいる。
何人かはリノを見る。
すぐ目を逸らす人。
少し心配そうに見る人。
何も気にしていない人。
その全部が気になってしまう。
リノは窓へ視線を向けた。
流れる景色。
見慣れた街並み。
それなのに今日は違って見える。
「思ってたより大丈夫そうだね。」
レイナが微笑む。
「うん。」
「これなら毎日乗れそうじゃない?」
リノは少しだけ笑った。
「そう……かな。」
その時だった。
電車がカーブへ差しかかる。
車体が大きく揺れた。
「あっ!」
リノの膝の上の鞄が滑り落ちる。
チャックが少し開いていた。
教科書。
ノート。
筆箱。
全部床へ散らばった。
「ご、ごめんなさい!」
リノは慌てる。
でも足は動かない。
拾えない。
ミカがしゃがむ。
「大丈夫!」
いろはも拾う。
近くの会社員まで手伝ってくれた。
「はい。」
ノートを渡される。
「ありがとうございます……。」
また。
また誰かに助けてもらった。
レイナも教科書を拾う。
「はい。」
「ありがとう。」
レイナは優しく笑う。
「みんな拾ってくれてよかったね。」
その一言だけだった。
でもリノの胸が少し苦しくなる。
みんなに助けてもらえてよかった。
本当は嬉しいはずなのに。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
◇
電車は順調に走る。
次は乗り換え駅。
ミカたちは駅員へ確認に向かった。
ほんの少しだけ。
リノとレイナが二人になる。
レイナが小さく笑った。
「思ってたより大変だね。」
「うん。」
「みんな、リノちゃんに合わせて早起きして。」
リノは黙って聞いていた。
「遠回りして。」
胸が少し痛くなる。
「駅員さんにも来てもらって。」
視線が下がる。
「車内の人にも場所を空けてもらって。」
リノは膝を見つめた。
「……うん。」
レイナは優しく笑う。
「でも大丈夫。」
「みんな優しいから。」
その笑顔は変わらない。
でも。
最後の一言だけ。
声色が少しだけ変わった。
「嫌でも、優しくしてくれるよねぇー?」
リノが顔を上げる。
「え?」
レイナはきょとんとした顔をした。
「どうしたの?」
「今……。」
「もうすぐ乗り換え駅だよ。」
レイナはいつもの笑顔だった。
聞き間違いだったのだろうか。
リノは何も言えなくなる。
◇
その時だった。
車内アナウンスが流れる。
『次は──』
ザーッ……
ノイズが混じる。
『ご迷惑を──』
「……え?」
リノだけが顔を上げた。
周りの乗客は普通にスマートフォンを見ている。
誰も気づいていない。
もう一度。
『ご乗車ありがとうございます──』
ザーッ……
『ご迷惑をおかけしています。』
今度は確かに聞こえた。
リノの背筋へ冷たいものが走る。
車内の照明が一瞬だけ暗くなる。
つり革がゆっくり揺れた。
窓ガラスへ目を向ける。
映っているのは車椅子に座る自分。
その隣に。
立っているもう一人のリノ。
黒いリボンを胸につけた自分が笑っていた。
──ほら。
声が聞こえる。
──また、みんなを巻き込んだ。
「違う……。」
リノは小さく首を振る。
その瞬間。
電車全体が大きく揺れた。
ガタンッ!!
照明が何度も点滅する。
窓の外の景色が、一瞬で灰色へ変わった。
車内へ冷たい風が吹き込む。
そして。
つり革の影が。
黒いリボンのように、ゆっくりと床へ伸び始めた。
「ノイズ……!」
セナが息を呑む。
ミカがすぐにリノの前へ立つ。
レイナだけが。
ほんの少しだけ。
口元を緩めていた。
「始まったねぇー。」
つり革の影が。
黒いリボンのように、ゆっくりと床へ伸び始めた。
「ノイズ……!」
セナが息を呑む。
ミカがすぐにリノの前へ立つ。
レイナだけが。
ほんの少しだけ。
口元を緩めていた。
「始まったねぇー。」
その声は誰にも届かないほど小さかった。
次の瞬間。
ガタンッ!!
電車全体が大きく揺れる。
乗客たちから悲鳴が上がった。
「きゃっ!」
「うわっ!」
急ブレーキでもない。
それなのに、まるで何かへぶつかったような衝撃だった。
車内の照明が消える。
真っ暗。
一秒。
二秒。
再び明かりが戻る。
しかし、そこはさっきまでの電車ではなかった。
窓の外は、どこまでも灰色。
ビルも。
住宅街も。
駅もない。
線路だけが、果てしなく続いている。
「景色が……」
ミカが窓へ近づく。
「消えてる……。」
リノも窓を見る。
いつもなら見える街並みはどこにもない。
灰色の空。
黒い線路。
ただ、それだけ。
車内アナウンスが流れる。
『まもなく────』
ザーッ……
『終点はありません。』
全員が顔を上げる。
「え?」
乗客たちもざわつき始めた。
「故障?」
「何これ……」
車掌へ連絡しようとする人もいる。
しかし。
「圏外?」
「スマホがつながらない!」
「なんで!?」
電波が消えていた。
セナもスマートフォンを見る。
「通信不能……。」
その時。
ルルから届いていたはずのメッセージが、一瞬だけ表示された。
『電車から降りないで』
その直後。
画面は真っ黒になった。
「ルル先輩!」
返事は来ない。
ノアへ連絡しても同じだった。
「外と切り離されてる……。」
リノは胸の奥がざわついた。
ミミルがいたら。
きっと何か教えてくれた。
でも。
今は誰もいない。
突然。
電車の天井から。
ぽたり。
黒い雫が落ちた。
「なに……?」
それは床へ落ちると。
じわり。
黒いリボンへ変わる。
一本。
また一本。
つり革から。
窓枠から。
座席の下から。
無数の黒いリボンが現れ始めた。
「離れて!」
セナが叫ぶ。
しかし遅かった。
黒いリボンが床を這う。
まるで生き物のように。
乗客たちの足元へ絡みついていく。
「きゃああ!」
「足が!」
「助けて!」
逃げようとしても。
黒いリボンは次々と増えていく。
リノの車椅子にも近づいてきた。
「リノちゃん!」
ミカが前へ出る。
一本のリボンを踏みつける。
しかし。
ぐにゃり。
まるで影を踏んだように足が抜ける。
「触れない!?」
その瞬間。
黒いリボンが車椅子の前輪へ巻き付いた。
ぎゅっ。
車輪が止まる。
「!」
リノは車輪を回そうとする。
動かない。
もう一度。
力いっぱい押す。
びくともしない。
「動いて……!」
後輪まで拘束される。
車椅子は完全に固定された。
「リノちゃん!」
ミカが引っ張る。
動かない。
セナも押す。
まるで床へ縫い付けられているようだった。
車内アナウンスが笑う。
『ご迷惑をおかけしております。』
『お急ぎのお客様は────』
ザーッ……
『どうぞ、お先に。』
乗客たちの表情が少しずつ変わる。
「……この子のせい?」
一人が呟く。
「え?」
「車椅子の子が乗ってからおかしくなった。」
別の人も言う。
「そういえば……。」
リノの胸が締め付けられる。
「違います!」
ミカが叫ぶ。
「そんなわけない!」
しかし。
ノイズは人の心へ入り込む。
「迷惑なんだよ。」
「早く降りて。」
「なんで私たちまで。」
幻聴なのか。
本当に聞こえているのか。
もう分からない。
リノは耳を塞いだ。
「違う……。」
「違う……。」
黒いリボンがさらに増える。
乗客たちの足元を縛る。
座席まで飲み込んでいく。
レイナは。
その様子を少し離れた場所から見つめていた。
スマートフォンは胸元。
録画は止めているように見える。
けれど。
カメラの赤いランプだけが、小さく光っていた。
「すごい。」
誰にも聞こえない声。
「こんなの、誰でも信じちゃうよねぇー。」
リノはその声に顔を上げる。
「レイナちゃん……?」
レイナはすぐに笑顔へ戻る。
「リノちゃん、大丈夫?」
その優しい声に。
さっき聞こえた声が重なる。
どちらが本当なのか。
リノにはもう分からなかった。
そして。
車両の一番前。
運転席の扉が。
ギィィ……
ひとりでに開き始めた。
暗い運転席の奥から。
黒いキャンディの甘い匂いが、ゆっくりと車内へ流れ込んでくる。
その奥で。
誰かが笑った。
「ふふっ。」
小さな女の子の笑い声。
その声を聞いた瞬間。
リノの背筋に、今まで感じたことのない悪寒が走った。
――そこにいたのは、今までのノイズとはまったく違う存在だった。
黒い影が、一歩。
運転席から姿を現そうとしていた。




