第31話 車輪のリボン
朝、目を覚ました時。
リノは、ベッドの横を見た。
白いカーテン。
机の上に置かれた教科書。
椅子の背に掛けた制服。
そして、誰もいない枕元。
「ミミル」
呼びかけてから、気づいた。
返事はない。
昨日も。
その前の日も。
何度呼んでも、ミミルの声は聞こえなかった。
分かっているはずなのに、朝になると呼んでしまう。
夢の中では、いつものようにミミルがいたから。
『リノ、起きないと遅れるよ』
と困った顔をしていた。
けれど、目を覚ますといない。
「……学校、行かないと」
リノは小さく呟いた。
今日は、退院して初めて学校へ戻る日だった。
ベッドの横には、黒い座面の車椅子が置かれている。
銀色のフレーム。
大きな車輪。
足を置くためのフットサポート。
病院で初めて座った時よりは、少しだけ見慣れた。
でも、まだ自分のものには見えなかった。
リノは両腕を使って、ゆっくり体を起こす。
足は、毛布の下にある。
触れば分かる。
冷たさも、布の感触も、少しは分かる。
それでも、自分の意思では動かなかった。
ベッドの縁まで体をずらし、車椅子のブレーキを確認する。
病院で何度も練習した。
手を置く場所。
体を移す順番。
転ばないための重心。
分かっている。
分かっているのに、怖い。
「大丈夫」
口に出してから、リノは止まった。
大丈夫ではない。
でも、できないわけでもない。
「……怖いけど、やる」
ベッドへ手をつく。
腕に力を入れる。
体を持ち上げ、車椅子へ移ろうとする。
少し位置がずれた。
「っ……」
肘が震える。
もう一度、力を入れる。
ようやく座面へ腰が乗った。
リノはしばらく動けなかった。
ただ移っただけ。
前なら立ち上がって、一歩動くだけだったこと。
それだけで、息が上がっている。
制服へ着替えるのにも時間がかかった。
スカートが足の下で折れても、すぐには直せない。
靴下を履くために、片足ずつ手で持ち上げなければならない。
靴を履いても、足がきちんと入っているのか何度も確認した。
鞄を膝の上へ置く。
その瞬間、口から言葉がこぼれた。
「ミミル、鞄……」
部屋は静かだった。
リノは、鞄の持ち手を握る。
「分かってるよ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「今日は、忘れてないから」
胸元へ手を当てる。
リボンは出ない。
契約線もない。
胸の奥には、穴が開いたような感覚だけが残っていた。
◇
学校までは、家の人に車で送ってもらった。
窓の外を流れていく道は、以前と同じだった。
いつも使っていた駅。
コンビニ。
朝の電車を待つ人たち。
駅の階段を、学生たちが足早に上がっていく。
リノは無意識に、その姿を目で追っていた。
「毎日送ってもらうのは、難しいよね」
自分でも、いつの間に口に出したのか分からなかった。
「慣れたら、また電車で行けるようになるよ」
運転席から返事がくる。
「駅員さんにお願いしたら、スロープも出してもらえるし」
「うん」
リノは答えた。
でも、胸の奥がざわついた。
駅員に声をかける。
スロープを待つ。
人の流れを止める。
電車に乗る。
降りる駅まで連絡してもらう。
今まで何も考えずにできたことが、ひとつずつ大きな壁になっている。
「電車に乗るだけなのに」
小さく呟いた言葉は、車の音に紛れた。
校門の前には、ミカたちが待っていた。
リノの姿を見つけると、ミカが大きく手を振る。
「リノちゃん!」
セナといろはも一緒だった。
車から車椅子を下ろしてもらい、リノが座る。
ミカはすぐにリノの後ろへ回った。
「押すね」
「待って」
思っていたより、強い声が出た。
ミカの手が、車椅子のハンドルの直前で止まる。
「あ……ごめん」
ミカの表情が曇った。
リノは慌てて首を振る。
「違うの」
うまく言葉が出ない。
「手伝ってほしくないわけじゃなくて」
自分の両手を、車輪の上へ置く。
「ここは、自分で行ってみたい」
「うん」
「それで……手伝ってほしい時は、私から言いたい」
ミカは少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かった」
ハンドルから手を離す。
「言ってくれたら、すぐ手伝うね」
「うん」
セナは手帳を取り出した。
「では、今後の基本方針を決めます」
「もう決めるの?」
いろはが苦笑する。
「必要です。勝手に車椅子へ触れない。白咲さんから依頼があった場合に手伝う。ただし、転倒などの緊急時は例外とします」
「セナちゃん、学校の規則みたい」
「曖昧にすると、お互い困るので」
リノは少し笑った。
本当に少しだけ。
「ありがとう」
それから、車輪を回した。
車椅子が前へ進む。
校門を越え、いつもの道へ入る。
歩いていた時とは、高さが違った。
人の肩よりも下。
掲示板の上の方は見えにくい。
通り過ぎる鞄や手が、以前より近い。
同じ学校なのに、違う場所に来たようだった。
◇
最初に困ったのは、昇降口だった。
下駄箱は、立って使う高さに並んでいる。
リノの靴箱は、上から二段目だった。
「届かない……」
手を伸ばしても、指先が扉に触れるだけだった。
「取ろうか?」
ミカが聞く。
リノは少し迷ってから、頷く。
「お願い」
「うん」
ミカは何でもないことのように、上履きを取ってリノへ渡した。
それだけだった。
なのに、リノの胸の中には、悔しさと安心が同時に広がった。
できなかった。
でも、頼めた。
どちらを大事にすればいいのか、まだ分からない。
教室へ向かうには、階段ではなく校舎の端にあるエレベーターを使う必要があった。
けれど、そのエレベーターは普段、生徒が自由に使えるものではない。
職員室で鍵を借りなければならなかった。
「毎朝、先生にお願いするの?」
リノが尋ねる。
「今後は白咲さん用に準備するそうです」
セナが答えた。
「でも、今日は初日なので私が借りてきます」
「私も行くよ」
「二人もいりません」
「だって、セナちゃん早歩きだから」
「関係ありません」
二人が職員室へ向かう。
その間、リノは昇降口の壁際で待った。
登校してきた生徒たちが、リノを見た。
一瞬だけ視線が止まる。
すぐにそらされる。
友達同士で何かを話しながら、横を通り過ぎていく。
見られている。
見ないふりをされている。
どちらも、リノには分かってしまった。
「あ、白咲さん」
同じクラスの女の子が近づいてきた。
表情は心配そうだった。
「大変だったね」
「うん」
「早く治るといいね」
「ありがとう」
女の子は少し迷ってから言った。
「かわいそう……」
悪気はなかった。
本当に心配してくれているのだと思う。
だからリノは笑った。
「ありがとう」
女の子が去った後も、笑顔の形だけが顔に残っていた。
「リノちゃん」
ミカが心配そうに見る。
「大丈夫?」
「うん」
反射的に答えてしまった。
ミカは何も言わなかった。
ただ、リノの隣に立っていた。
その沈黙が、少し痛かった。
◇
エレベーターを降り、教室へ向かう。
廊下は広いと思っていた。
でも、車椅子で通ると、掃除用具や置かれた鞄が気になる。
誰かとすれ違うたびに、相手が大きく避けた。
「ごめんね」
リノが言う。
「え? 全然」
相手は笑う。
それでも、リノはまた謝った。
教室へ入ると、それまで聞こえていた話し声が一瞬止まった。
ほんの一瞬。
すぐに元へ戻った。
「白咲さん、おはよう」
「戻ってきたんだね」
「大丈夫?」
何人もの声が重なる。
先生は、リノが通りやすいように机の位置を変えていた。
リノの席は、教室の端。
入口に近く、周囲の机との間が広く取られている。
「みんなで机を動かしてくれたんだよ」
先生が明るく言う。
「これなら通りやすいでしょう?」
「はい」
リノは頷いた。
「ありがとうございます」
教室中の視線が集まる。
リノのために変えられた教室。
自分のために動かされた机。
自分のために狭くなった誰かの場所。
「リノちゃん、ここなら私も近いよ」
ミカが自分の席を指さす。
「うん」
リノは笑った。
でも、胸の奥で小さな声がした。
――みんなに迷惑をかけている。
リノは、その声を聞かなかったことにした。
席へ車椅子を寄せる。
机の下に足が入る位置を探す。
何度か切り返す必要があった。
後ろの机に車輪が軽く当たる。
「あ、ごめん」
「いいよ、大丈夫」
また謝った。
今日だけで、何回目だろう。
「白咲さん」
先生が教室の前から声をかける。
「こちら、黒瀬レイナさん。生徒会で校内の生活支援を担当してくれることになりました」
一人の女の子が、教室へ入ってきた。
艶のある暗い茶色の髪。
肩より少し下まで伸びた髪は、きれいに整えられている。
制服にも乱れがない。
背筋を伸ばし、柔らかな笑顔を浮かべていた。
「黒瀬レイナです」
優しく、落ち着いた声だった。
「困ったことがあったら、遠慮なく言ってね」
レイナはリノの前まで来ると、目線を合わせるように少し腰をかがめた。
「エレベーターの使い方とか、通りやすい道も一緒に確認しようか」
「ありがとう」
「ううん。最初は分からないことが多いよね」
レイナは車椅子のハンドルへ触れず、先に尋ねた。
「今は押した方がいい?」
リノは少し驚いた。
今日、何人かが何も言わずに車椅子へ触れようとした。
でもレイナは、ちゃんと聞いてくれた。
「今は自分で大丈夫」
「分かった」
レイナはすぐに手を引いた。
「必要な時は言ってね」
ミカが、ほっとしたように笑う。
「すごく親切な子だね」
「学校のことなら、だいたい分かるから」
レイナも笑った。
「リノちゃんが困らないようにしたいだけだよ」
リノは、その言葉に少し安心した。
「よろしくね、レイナちゃん」
「うん。よろしく、リノちゃん」
柔らかい声。
やさしい笑顔。
その時は、何も変だとは思わなかった。
◇
授業中、リノは何度も机の端を見た。
教科書の陰。
筆箱の横。
以前なら、そこにミミルがいた。
先生に見つからないように小さく丸まり、ときどき退屈そうにあくびをしていた。
ノートを覗き込んで、
『リノ、そこ書き間違えてるよ』
と小声で教えてくれることもあった。
今は、何もない。
リノはノートの端に、無意識に星形を描いていた。
その横に、長い耳。
白い体。
星形のしっぽ。
「ミミル……」
声には出さなかった。
隣のミカが、その絵に気づいた。
何も言わず、自分のノートの端に小さな兎を描く。
少し丸すぎて、耳の長い雪だるまみたいだった。
リノは思わず吹き出しそうになる。
ミカが小声で言う。
「似てない?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけなんだ」
「しっぽが丸いよ」
「あ、ほんとだ」
ミカは星形に描き直した。
リノはその絵を見つめた。
泣きそうになった。
でも、今度の涙は、苦しいだけではなかった。
◇
移動教室では、教室の扉が重かった。
片手で車輪を押し、もう片方で扉を開けようとする。
扉が途中で戻ってくる。
「あっ」
車椅子の前方へ扉が当たりそうになった。
すぐ横から手が伸び、扉を押さえた。
「危ないよ」
レイナだった。
「ありがとう」
「こういう扉、重いよね」
レイナは扉を大きく開き、リノが通れるようにする。
「みんなも少し気をつけてあげた方がいいかもね」
周囲の生徒たちが頷く。
「そっか、扉押さえないと」
「ごめん、気づかなかった」
レイナは笑う。
「大丈夫。これから気をつければいいよ」
すべて正しい言葉だった。
誰も悪くない。
それでもリノは、自分のせいで周囲へ注意が向けられているように感じた。
移動教室が終わった後。
廊下には、リノとレイナだけが残った。
レイナが隣を歩きながら言う。
「みんな、優しいね」
「うん」
「リノちゃんが戻ってくるから、机も全部動かしてくれたんでしょ?」
「そうみたい」
「結構、大変だったみたいだよ」
リノの手が止まった。
「大変……?」
「あ」
レイナは困ったように笑う。
「ごめん。責めてるわけじゃないよ」
「うん」
「ただ、リノちゃんが気にしそうだから、言わない方がよかったね」
優しい声。
申し訳なさそうな表情。
「気にしないで」
リノは笑おうとした。
「みんながしてくれたことだから」
「そうだね」
レイナは頷く。
「たくさん助けてもらえて、よかったね」
その言葉のどこが引っかかったのか、リノには分からなかった。
レイナは笑顔のまま先へ進む。
リノも車輪を回した。
後ろで、レイナがごく小さな声で呟いた。
「気にするよねぇー」
リノは振り返った。
「何か言った?」
レイナはいつもの柔らかな顔で首をかしげた。
「ううん。次、音楽室だから、曲がる場所を教えようと思って」
「そっか」
「こっちだよ」
レイナが前を歩く。
その背中を見ながら、リノは先ほどの声を思い出していた。
聞き間違いだったのかもしれない。
◇
体育の時間。
リノは体育館の端にいた。
先生は椅子を用意しようとしたが、リノが車椅子のままで大丈夫だと伝えた。
「無理しなくていいからね」
「はい」
先生は配慮してくれている。
分かっている。
それでも、その言葉が、
――参加しなくていい。
と聞こえてしまった。
クラスメイトたちはボールを追って走っている。
靴音が体育館へ響く。
転んで、笑う声。
先生の笛。
以前のリノも、あちら側にいた。
今は端から見ている。
いろはが休憩時間になると、すぐに走ってきた。
「リノちゃん、暇じゃない?」
「大丈夫だよ」
「記録係とかやる?」
セナも近づく。
「ちょうど試合結果の記録が必要です」
「私のために役割作らなくていいよ」
思わず、強い口調になった。
二人が止まる。
リノはすぐに後悔した。
「ごめん」
「白咲さんのためだけではありません」
セナは落ち着いて答えた。
「記録係は以前から必要でした。ただ、今まで曖昧に誰かがやっていただけです」
「でも」
「白咲さんがやりたくないなら、別の人に頼みます」
セナは手帳を差し出した。
「やりますか?」
リノは少し考える。
かわいそうだから与えられた役割ではない。
必要な役割。
「……やる」
「お願いします」
セナはいつも通りの顔で手帳を渡した。
特別な笑顔も、励ましもなかった。
それが、リノにはありがたかった。
◇
放課後。
リノは一人でバリアフリートイレへ入った。
広い室内。
手すり。
低い位置にある洗面台。
鏡も、車椅子に座ったまま見られる高さだった。
リノは手を洗い、顔を上げる。
鏡の中に、自分がいた。
制服姿。
少し疲れた顔。
車椅子に座っている。
肩にはミミルがいない。
ただ、それだけ。
リノは目をそらそうとした。
その瞬間。
鏡の中のリノが、立ち上がった。
「――え?」
現実のリノは車椅子に座ったまま。
けれど、鏡の中のリノだけが、二本の足で立っていた。
制服のスカートを揺らし、まっすぐこちらを見ている。
目元に、黒い影。
胸元には、黒く染まったリボン。
鏡のリノが口を動かした。
声は聞こえない。
でも、何を言ったのか分かった。
――まだ、助ける側のつもり?
リノの息が止まる。
「あなた……」
以前、鏡の中で会った自分。
見てほしい。
選ばれたい。
感謝されたい。
隠していた願いを、全部知っていたもう一人のリノ。
「違う」
何が違うのか分からないまま、リノは首を振った。
鏡のリノが笑う。
リノが目を閉じた。
一秒。
二秒。
ゆっくり目を開く。
鏡には、車椅子に座った自分だけが映っていた。
立っているリノはいない。
「……疲れてるだけ」
自分に言い聞かせる。
車椅子の向きを変え、トイレを出た。
鏡は、もう見なかった。
◇
学校の玄関前には、小さな段差があった。
朝は人が多く、気づかないうちに誰かが車椅子を押してくれていた。
帰りは、リノが先に外へ出ようとした。
前輪が段差に当たる。
ごつん。
車椅子が止まった。
少し勢いをつけて、もう一度。
ごつん。
越えられない。
「……もう一回」
リノは車輪を回す。
前輪が段差にぶつかる。
後ろから、下校する生徒たちの足音が聞こえる。
リノが入口を塞いでいる。
「通れないんだけど」
誰かが小さく言った。
責める声ではなかった。
でも、リノの胸へ刺さった。
「ごめんなさい」
誰に向けたのか分からないまま謝る。
もう一度、車輪を回す。
越えられない。
焦るほど、手が滑る。
「リノちゃん」
ミカが走ってきた。
段差の前で止まる。
「押そうか?」
リノはすぐに答えられなかった。
自分で越えたい。
できるようにならないと。
毎回誰かに頼るわけにはいかない。
でも、後ろには人がいる。
自分のせいで待っている。
「リノちゃん」
ミカは急かさず、待っている。
リノは車輪を握った。
それから、ゆっくり手を離した。
「……お願い」
「うん」
ミカはそれだけ言った。
車椅子を少し後ろへ引き、前輪を上げる。
段差を越える。
ほんの数秒。
リノが何度やっても越えられなかった場所を、簡単に進んだ。
「ありがとう」
「うん」
悔しかった。
でも、ほっとした。
どちらの気持ちも本当だった。
校門では、セナといろはがスマートフォンを見ながら待っていた。
「通学方法を調べました」
セナが画面を見せる。
「最寄り駅にはエレベーターがあります。ただし、普段使用している改札とは反対側です」
「乗り換えも、かなり遠回りだよ」
いろはが路線図を指さす。
「あと、電車に乗る前に駅員さんへ声をかけるみたい」
「スロープを準備して、降りる駅にも連絡してもらいます」
リノは画面を見る。
今まで毎日使っていた電車。
時刻表だけ確認すれば乗れた。
でも今は、乗る前にも、降りる時にも、誰かの助けが必要になる。
「電車に乗るだけなのに」
朝と同じ言葉が口から出た。
セナは少し考えてから言った。
「今までは、白咲さんに合わせなくても利用できるように作られていただけです」
「私に合わせなくても?」
「歩ける人が利用することを前提にしていた、という意味です」
リノは駅の構内図を見る。
階段は近い。
エレベーターは遠い。
「私が変わったから困ってるんじゃなくて」
言葉を探す。
「今まで、困る人がいるって見えてなかっただけ?」
「そうだと思います」
セナは頷いた。
分かっても、不安は消えなかった。
けれど、自分だけの失敗ではないと思えた。
「明日」
リノは言った。
「電車で行ってみる」
「一緒に行くよ」
ミカがすぐ答える。
「私も」
セナも頷く。
「私も行く!」
いろはが手を上げた。
「みんな一緒だと、余計に混まない?」
「白咲さん、そういう問題ではありません」
「初めてなんだから、一人よりいいよ」
ミカが笑う。
リノは少し迷ってから頷いた。
「お願い」
少し離れた場所で、レイナがこちらを見ていた。
いつからいたのか分からない。
「明日、電車に乗るの?」
「うん」
リノが答える。
レイナはやさしく微笑んだ。
「大丈夫だよ。私も駅まで一緒に行こうか?」
「いいの?」
「もちろん」
レイナは胸元へ手を当てる。
「困ってる子を放っておけないもん」
ミカが笑う。
「ありがとう、レイナちゃん」
「ううん。みんなで行った方が安心だよ」
その言葉に、リノも少しだけ安心した。
◇
リノたちが校門を離れた後。
レイナは一人、その場に残っていた。
柔らかな笑顔は、まだ消えていない。
鞄からスマートフォンを取り出す。
画面には、短い動画が映っていた。
玄関前の段差。
何度も車輪をぶつけるリノ。
後ろに並び始める生徒たち。
小さく聞こえる声。
『通れないんだけど』
そして、謝るリノ。
『ごめんなさい』
レイナは動画を最初まで戻す。
もう一度再生する。
ごつん。
ごつん。
越えられない。
「一人じゃ、何もできない」
表情は優しいままだった。
声だけが、少し伸びる。
「だよねぇー?」
画面の中で、ミカがリノの車椅子を押して段差を越える。
レイナは動画を保存した。
まだ、誰にも送らない。
「明日は電車かぁ」
楽しそうに呟く。
「もっと分かりやすいの、撮れそうだね」
スマートフォンの画面が暗くなる。
そこに映ったレイナの笑顔は、いつもと同じようにやさしかった。
けれど、その目だけは。
黒いキャンディの表面みたいに、冷たく光っていた。




