第30話 解けた魔法-後編
後編
「リノちゃん!」
ミカが駆け寄ってくる。
その声に応えようとして、リノは顔を上げた。
けれど、体が思うように動かない。
上半身は動く。
手も動く。
胸も苦しいほど呼吸している。
ただ、腰から下だけが遠かった。
そこに足があるのは見えている。
制服のスカートの下に、二本の足がある。
けれど、自分の体なのに、自分のものではないみたいだった。
「リノちゃん、立てる?」
ひまりが震えながら、リノの腕を支える。
「ゆっくりでいいから。わたし、持つから」
「うん……」
リノは地面に手をついた。
足に力を入れる。
膝を立てようとする。
何も起こらない。
もう一度。
強く。
立って。
動いて。
お願い。
けれど、足はリノの声を聞かなかった。
体が傾く。
地面へ倒れる直前、ノアがリノを受け止めた。
「無理するな」
「でも、立たないと」
「今は立つな」
「立たないと、ミミルを――」
「ミミルを追える場所が分かるの?」
ノアの言葉に、リノは止まった。
「分からないなら、まず自分の状態を見て」
厳しい声だった。
けれど、リノを抱えるノアの腕は震えていた。
「動かない」
リノは、足を見つめた。
「私の足……動かない」
ミカが口元を押さえる。
いろはの目から涙が落ちた。
セナは震える指でスマートフォンを取り出す。
「救急連絡をします。白咲さんは動かさないでください。意識はあります。呼吸も……あります」
事務的に話そうとしている。
でも、その声は何度も裏返りそうになっていた。
「セナちゃん」
「泣くのは後です」
セナは、自分自身に言い聞かせるように続けた。
「今は、できることをします」
ルルがリノの胸元へ星の光を当てる。
けれど、いつも見えていたはずの契約線はなかった。
「完全に切れてる」
ルルの声がかすれた。
「ミミルの気配も……こちら側にはない」
「こちら側には、ってことは」
ひまりが顔を上げる。
「どこかにはいるんだよね?」
ルルは答えられなかった。
リノは震える手で、胸元を探した。
いつもミミルが触れていた白いリボン。
心配そうに呼びかけてきた声。
「ミミル……?」
返事はない。
もう一度呼ぶ。
「ミミル」
何も聞こえない。
遠くからでもない。
水の底からでもない。
本当に、何もない。
「魔法が……」
リノは手のひらを開いた。
「マジカル・リボン……」
光は集まらなかった。
小さな糸一本さえ現れない。
「使えない」
涙が頬を伝う。
「魔法が使えない」
足は動かない。
ミミルはいない。
自分の中にあったものを、一度に全部奪われた気がした。
救急車のサイレンが近づいてくる。
ミカがリノの手を握った。
「リノちゃん、私たちいるから」
ひまりも反対側の手を握る。
「ミミルも絶対探すから」
リノは二人の手を握り返そうとした。
でも、力が入らなかった。
ただ、指先を少し重ねることしかできなかった。
意識が遠ざかる。
最後に見えたのは、灰色の空だった。
◇
目を覚ますと、白い天井があった。
規則正しく並ぶ小さな穴。
少しだけ眩しい照明。
鼻の奥に、消毒液の匂いが残っている。
リノは目を瞬いた。
病院。
腕には点滴がつながっていた。
体を起こそうとすると、すぐそばから椅子の音がした。
「リノちゃん」
ミカが立ち上がる。
目の周りが赤い。
「目、覚めた?」
「うん……」
声がうまく出なかった。
リノは室内を見回した。
ミカ。
セナ。
いろは。
ルル。
ノア。
少し離れた椅子では、ひまりがピリカを抱いたまま眠っている。
みんながいる。
でも。
「ミミルは?」
部屋が静かになった。
誰も、すぐには答えなかった。
「見つかってない」
ノアが答えた。
遠回しに言わなかった。
「星の裏側にも、今のところ気配はない」
「消えたの?」
「分からない」
ルルが静かに言う。
「契約線が切れた反動で、深い場所へ落とされた可能性がある。黒いキャンディ先生に捕まっている可能性も……」
言葉が途切れる。
「完全に消えたと決まったわけではないわ」
完全に消えたと決まっていない。
その言葉にすがりたかった。
けれど、胸元は空っぽだった。
呼んでも、返事はない。
「足は?」
リノは尋ねた。
自分の足へ視線を落とす。
白い毛布の下に、確かにある。
けれど、まだ感覚が薄い。
「検査では、骨や神経に大きな損傷は見つかっていません」
セナが説明した。
「お医者さんも、原因が分からないって」
いろはが小さな声で続ける。
「立とうとしても、力が入らない状態みたい」
「じゃあ、いつ治るの?」
誰も答えなかった。
リノは毛布の上から、自分の足を握った。
触られている感覚はある。
でも、自分で動かせない。
「もう歩けないのかな」
「まだ決まってないよ」
ミカがすぐに言う。
「先生も、今は経過を見ようって」
「でも、いつまで?」
「リノちゃん……」
「学校は? 家では? 電車に乗る時は?」
次々と言葉がこぼれた。
「階段はどうするの? みんなと出かける時は? 私だけ遅くなったら? またノイズが出たら?」
「リノ」
ノアが低い声で遮る。
「今、一度に全部考えないで」
「でも、考えないと」
「今日決められないことまで決めようとしない」
ノアはベッドの横へ来た。
「今のあんたは、歩けない。魔法も使えない。ミミルもいない」
ミカが不安そうにノアを見る。
けれど、ノアは目をそらさなかった。
「だからって、全部終わったわけじゃない」
リノは唇を噛んだ。
「ノアには分からないよ」
「分からないね」
即答だった。
「同じ痛みじゃないから」
ノアは自分の黒いリボンを見る。
「でも、失くしたら何も残らないって思う感じなら、少しは知ってる」
リノは何も言えなくなった。
眠っていたひまりが、小さく動いた。
「リノちゃん……?」
目を開き、リノが起きていることに気づく。
「リノちゃん!」
勢いよく立ち上がった拍子に、ピリカが膝から転がり落ちた。
「ひまり、急に動かない!」
「ご、ごめん!」
ひまりはベッドのそばへ駆け寄る。
「足、まだ動かない?」
「うん」
ひまりの目に涙が浮かぶ。
けれど、泣かないように我慢しようとしていた。
「泣いていいよ」
リノが言うと、ひまりは少し驚いた。
「でも、リノちゃんの前で」
「私も泣いてるから」
頬には、いつの間にか涙が流れていた。
ひまりは唇を震わせ、それから泣いた。
「ミミル、いなくなっちゃった」
「うん」
「リノちゃん、立てなくなっちゃった」
「うん」
「わたし、止められなかった」
「ひまりちゃんのせいじゃないよ」
「でも……」
リノはひまりの手を握った。
「私も、自分のせいだって思ってる」
「リノちゃんのせいじゃない!」
ひまりは強く言った。
そのまっすぐな声に、リノは少しだけ息を止める。
「なら、ひまりちゃんのせいでもないよ」
ひまりは何も言えず、泣きながら頷いた。
◇
数日後。
病室へ、一台の車椅子が運ばれてきた。
黒い座面。
銀色のフレーム。
両側についた大きな車輪。
「当面は、これを使って移動することになります」
病院の職員が説明する。
当面。
それが一週間なのか、一か月なのか。
もっと長いのかは、誰にも分からない。
「一度、移ってみましょうか」
ベッドの横へ車椅子が寄せられる。
リノはその距離を見つめた。
ほんの少し。
今までなら、一歩で越えられた距離。
けれど今は、一人では移れない。
「支えますね」
職員とミカが、リノの体を支える。
リノは腕に力を入れ、ベッドから車椅子へ体を移した。
座面に腰が落ち着く。
足は、フットサポートの上へ置かれた。
「どうですか? 苦しくないですか?」
「……大丈夫です」
言った後、リノは少し迷った。
「たぶん」
職員は頷く。
「分からない時は、分からないと言って大丈夫ですよ。少しずつ調整しましょう」
リノは車輪に手を置いた。
押してみる。
車椅子が、わずかに前へ進んだ。
もう一度押す。
まっすぐ進まず、少し右へ曲がる。
「あ……」
「最初は難しいよ」
ミカが慌てて押そうとする。
その手が車椅子のハンドルへ触れる直前、リノは言った。
「待って」
ミカの手が止まる。
「自分で、もう一回やってみたい」
「うん」
ミカはすぐに手を離した。
「手伝ってほしくなったら言ってね」
リノは、左右の車輪をゆっくり回した。
少し進む。
また曲がる。
止まる。
思うようには動かない。
それでも、もう一度手を動かす。
少しずつ、病室の扉へ近づいていく。
扉の横には、大きな鏡があった。
そこに、車椅子に座るリノが映った。
制服ではなく、薄い色の病衣。
少し乱れた髪。
疲れた顔。
足は動かない。
肩には、いつもいたはずのミミルもいない。
リノは鏡から目をそらした。
「リノちゃん?」
「なんでもない」
そう答えた瞬間。
鏡の中の自分だけが、まだこちらを見ているような気がした。
目を戻す。
普通の自分が映っている。
車椅子に座った、自分。
それだけ。
けれど、鏡の奥で誰かが囁いた気がした。
――助けられる側になったね。
リノは息を呑んだ。
「どうしたの?」
ミカが尋ねる。
「……なんでもない」
今度は、さっきよりも小さな声だった。
リノは鏡から目をそらし、車輪へ手を置いた。
一度、深く息を吸う。
手のひらに力を入れる。
車椅子が、ゆっくりと前へ進む。
歩いてはいない。
魔法も使っていない。
ミミルの声も聞こえない。
それでも、車輪は回った。
病室の外へ出ると、長い廊下が続いていた。
リノは、その先を見つめた。
怖かった。
この先、学校へどう通うのか。
電車へどう乗るのか。
誰かに助けを頼み続けるのか。
ミミルを見つけられるのか。
何一つ分からない。
でも。
ミミルの最後の言葉だけは、まだ胸の奥に残っている。
――歩けなくても、進めないってことじゃないから。
リノは、もう一度車輪を回した。
灰色の糸は切れている。
けれど、その言葉まで消えたわけではなかった。
廊下の窓から差し込む光の中を、車椅子がゆっくりと進んでいく。
その後ろで。
誰も見ていない鏡の中のリノだけが、立ったまま笑っていた。




