第30話 解けた魔法-前編
リノの指先から、リボンは出なかった。
「マジカル・リボン……」
放課後の教室で、小さく唱える。
手のひらに白い光が集まった。
細い糸になり、いつものリボンを結ぼうとする。
けれど――。
ぱら、と光が崩れた。
形になる前にほどけ、机の上へ落ちることもなく消えていく。
「リノ、もうやめよう」
机の端に座っていたミミルが、耳を伏せた。
「昨日から何回も試してる。無理に引っぱったら、傷ついた契約線がもっと細くなるかもしれない」
「でも……」
リノは空になった手のひらを見つめた。
「今、ノイズが出たらどうするの?」
「リノちゃん一人で何とかしなくていいよ」
隣にいたミカが、そっとリノの手を包んだ。
「ルル先輩もノアちゃんもいる。ひまりちゃんだって来てくれる。私たちもできることをするよ」
「分かってる」
そう答えても、胸の奥の不安は消えなかった。
昨日、コトのキャンディ型のハサミが鳴った。
ちきん。
たった一度の音で、リノとミミルをつなぐ契約線は傷つけられた。
ミミルは今も目の前にいる。
声も聞こえる。
それなのに、前より遠い。
手を伸ばせば触れられる場所にいるのに、水の底から話しかけられているみたいだった。
「怖いんだ」
リノは、ぽつりと言った。
「魔法が使えなくなるのも怖い。でも……」
ミミルを見る。
「ミミルの声まで聞こえなくなりそうで、怖い」
ミミルの星形のしっぽが、小さく震えた。
「ぼくも怖い」
いつものように「大丈夫」とは言わなかった。
「リノと離れるのは、怖いよ」
リノは少しだけ目を見開いた。
ミミルが怖いと言ってくれた。
隠さずに。
「でも、だからこそ今日は休んでほしい」
「……うん」
リノは、ようやく頷いた。
セナが開いていた手帳に線を引く。
「本日は魔法の使用禁止。ノイズ反応があった場合も、白咲さんは後方待機です」
「禁止って……」
「禁止です」
きっぱりと言われ、リノは言葉を引っ込めた。
いろはが苦笑する。
「セナちゃん、先生より厳しいかも」
「白咲さんは、少しくらい厳しくしないと前に出ますから」
「それは否定できないね」
ミカの言葉に、教室の空気がわずかに和らいだ。
その瞬間だった。
校舎全体が、大きく揺れた。
窓ガラスがびりびりと鳴る。
天井の蛍光灯が瞬き、教室の時計が止まった。
午後四時十一分。
秒針だけが、同じ場所で震えている。
ミミルの耳が立った。
「ノイズ……!」
セナがすぐに窓際へ向かう。
「場所は?」
ミミルは目を閉じた。
だが、すぐに苦しそうに顔を歪める。
「分からない……気配が広すぎる。契約線の傷が邪魔して、方向を読めない」
廊下から悲鳴が聞こえた。
リノは反射的に立ち上がる。
「行こう」
「リノ!」
「戦わない。後ろにいる」
ミミルを見つめて、言い直す。
「でも、何が起きてるかは見たい」
ミミルは迷った末、小さく頷いた。
「絶対に前へ出ないで」
「うん」
廊下へ出ると、窓の外が灰色に染まっていた。
空の色ではない。
旧校舎へ続く渡り廊下の周囲だけが、白と黒の間に閉じ込められたように色を失っている。
壁も床も、歩いている生徒の影さえも薄い灰色だった。
ルルとノアが階段の方から駆けてくる。
「やっぱり罠ね」
ルルは灰色の空間を見て、表情を険しくした。
「リノのリボンと同じ波長が混ざってる」
「私を狙ってるってこと?」
「たぶんね」
ノアがリノを一瞥する。
「だから、あんたは帰って」
「今、校舎の中に生徒がいる」
「私たちでやる」
「でも――」
「今のあんたが前に出たら、守る人数が一人増える」
冷たい言い方だった。
けれど、リノを突き放しているわけではない。
リノは唇を噛み、頷いた。
「……分かった」
校舎の外へ出ると、星見台小の制服姿のひまりが、息を切らしながら走ってきた。
「リノちゃん!」
肩にはピリカがしがみついている。
「赤がずっとざわざわしてる! なんか、すっごく嫌な感じなんだけど!」
「ひまり、今日はリノを守る方に集中して」
「分かってる!」
「その声は分かってない声だよ」
「分かってるってば!」
いつものやり取り。
それを聞いただけで、リノの胸が少しだけ温かくなった。
けれど、旧校舎の前へ着いた瞬間、その温かさは消えた。
巨大な灰色のリボンの塊が、校舎を覆っていた。
白い布と黒い布を無理に縫い合わせたような体。
何本もの糸が地面を這い、校舎の窓や扉に絡みついている。
中心には、何も映さない穴が開いていた。
そこから、声が聞こえる。
――白にもなれない。
――黒にもなれない。
――どちらも捨てないなんて、選べないだけ。
――灰色は、きれいな言い訳。
リノの胸元が焼けるように痛んだ。
「グレイアウト・ノイズ……」
ミミルが震える。
「リノの灰色を裏返して作られてる」
旧校舎の屋根から、拍手が聞こえた。
「大正解〜」
メルが足を揺らしながら座っていた。
その隣には、ミルクティーベージュの髪をゆるく巻いたスミレ。
黒いキャンディ瓶を抱え、楽しそうにリノを見ている。
少し離れた時計台の上には、パステルピンクの髪のコト。
キャンディ型のハサミを両手で持ち、きらきらした目で笑っていた。
「やっほー、灰色の子」
メルが手を振る。
「今日は、ほんとの本番だよ」
「あなたたち……!」
ひまりの赤いリボンが光る。
メルは笑った。
「赤リボンちゃんも来てくれたんだ。よかったね、いい子ちゃん。みんなが守ってくれるよ」
その言葉が、リノの胸に小さな棘を残した。
スミレが身を乗り出す。
「昨日より灰色の香り濃くなってんじゃん。めっちゃ甘そう」
「リノちゃんを食べものみたいに言わないで!」
ひまりが叫ぶ。
「えー? でも願いって、ちゃんと味あるし」
スミレはキャンディ瓶を振った。
「怖い、寂しい、でも助けたい。全部混ざってる子って濃いんだよね〜」
コトが静かにハサミを開く。
「糸も、昨日より見つけやすいなの」
ミミルがリノの前に飛び出した。
「触らせない!」
「今日は全部切るなの」
コトは穏やかな声で告げた。
その一言で、空気が変わった。
メルたちは遊びに来たのではない。
本当に、リノを連れていくつもりなのだ。
ルルが星の光をまとった。
「マジカル・スター・ドレスアップ」
ノアの周囲に黒い羽のようなリボンが広がる。
ひまりも胸元の赤いリボンを握った。
「レッド・リボン・ドレスアップ!」
赤い光がひまりの体を包む。
胸元に大きな赤いリボン。
裾に引かれた白い境界線。
背中に広がる、痛みを止めるための赤。
「魔法少女……ひまり!」
三人が、リノの前に立った。
リノは拳を握る。
自分だけが戦えない。
その事実が、胸の奥で黒くにじんだ。
ノイズが動いた。
灰色の糸が校庭を走り、リノたちへ襲いかかる。
「ステラ・プロテクト・フィールド!」
ルルの星の結界が糸を弾く。
「レッド・リボン・ライン!」
ひまりの赤い線が、ノイズとリノの間に引かれた。
「ここから先は、だめ!」
ノアの黒いリボンが灰色の塊を縛り上げる。
「ブラック・リボン・バインド」
三人の攻撃が重なる。
しかし、グレイアウト・ノイズは崩れなかった。
絡みついたリボンを通じて、声が流れ出す。
――黒い子は、誰かを傷つけた。
――星の子は、正しさで友達を傷つけた。
――赤い子は、大事な人を守れなかった。
ノアの表情が強張る。
ルルの星の光が揺らぐ。
ひまりの赤が熱を持つ。
「聞かないで!」
ピリカが叫ぶ。
「その声は、本当のことを傷つけるために使ってるだけ!」
メルが頬に指を当てる。
「でも、本当のことでしょ?」
スミレが楽しそうに瓶を覗く。
「やば、みんなの記憶、反応してる」
灰色の糸が、今度はミカたちへ向かった。
ミカ。
セナ。
いろは。
魔法を持たない三人を狙っている。
「危ない!」
リノは反射的に前へ出た。
「リノ、だめ!」
ミミルの制止より先に、リノは胸元のリボンを握った。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
白い光が、途切れながらリノを包む。
一度、二度。
何度もリボンがほどけかける。
ミミルが必死に星の光を重ね、ようやく白い衣装が結ばれた。
胸元のリボンは薄い。
灰色の糸は、今にも切れそうだった。
「リノ、すぐ解除して!」
「今だけ」
リノは手を伸ばした。
「マジカル・リボン・シールド!」
白いリボンが広がり、ミカたちを灰色の糸から守る。
出た。
魔法が出た。
けれど、喜んだのは一瞬だった。
ノイズの中心に開いた穴が、ゆっくりと笑うように歪んだ。
「かかった」
メルが囁いた。
リノのリボンが、勝手に枝分かれしていく。
ミカへ。
セナへ。
いろはへ。
ひまりへ。
ルルへ。
ノアへ。
みんなを守るために結んだ線が、逆にリノを全員へつないでいく。
ノイズの声が響く。
――誰も捨てないんでしょ?
――だったら、全部抱えて。
次の瞬間。
仲間たちの痛みが、一気にリノへ流れ込んだ。
見てもらえなかったミカの寂しさ。
間違えることを許されなかったセナの息苦しさ。
主役にならなければ、自分が消えてしまう気がしたいろはの孤独。
アヤメを正しさで傷つけたルルの後悔。
灯里を救うため、自分を切り捨てたノアの黒い痛み。
小春を失ったひまりの赤い記憶。
守るためと言いながら、隠し続けたミミルの罪悪感。
「っ……!」
リノの膝が崩れた。
それでもリボンを離せない。
離したら、みんなが傷つく。
誰かを捨てることになる。
「リノ、切って!」
ノアが叫ぶ。
「そのリボンを手放して!」
「できない……」
「私たちは自分で立てる!」
ルルの声が飛ぶ。
「リノが全部持つ必要はない!」
「でも……!」
ひまりが赤いリボンで、リノにつながった灰色の糸を押さえる。
「リノちゃん、わたしも守るから!」
リノの視界がにじんだ。
みんなの声が聞こえる。
それでも、手が動かない。
怖かった。
自分が手を離した瞬間、何かが壊れてしまいそうで。
メルは、そんなリノを見て優しく笑った。
「いい子ちゃんって、ほんとかわいい」
「全部つないだら、全部の痛みが来るって分かってたのにね」
スミレがキャンディ瓶を抱きしめる。
「やば。灰色、めっちゃ甘くなってる」
コトが、静かに一歩踏み出した。
パステルピンクの髪が、灰色の風に揺れる。
ハサミが狙うのは、リノとミミルの間。
昨日傷つけた、星の糸。
ミミルが気づいた。
「リノ!」
コトは、にこりと笑った。
「今なの」
ミミルが飛び出す。
「切らせない!」
コトのハサミが、見えない光を挟む。
「全部切れたら、先生のところまで届くなの」
「やめて!」
リノが叫ぶ。
コトは小さく首を傾げた。
「大丈夫なの」
その声は静かで、明るかった。
「もう痛くならないように、きれいに切るなの」
ちきん。
世界の音が消えた。
風も。
声も。
リボンが揺れる音も。
リノの胸元で、何かが弾けた。
白い光が飛び散る。
灰色の糸が切れる。
胸の奥から、星を引き抜かれたような痛みが走った。
「――ミミル」
声が出ない。
ミミルの姿が、一瞬だけぼやけた。
リノとミミルをつないでいた契約線が、二つに分かれて宙を漂っている。
切れた線の向こう側から、巨大な黒い影が伸びてきた。
甘い匂い。
黒いキャンディ先生。
その影が、リノの胸元に残った灰色のリボンを掴もうとする。
メルが目を輝かせた。
「先生、届いたよ!」
スミレも息を呑む。
「灰色、食べられるじゃん」
黒い指先が、リノへ近づく。
しかし。
その間に、小さな白い影が飛び込んだ。
「リノには、触らせない!」
ミミルだった。
ミミルは、切れた契約線の端を自分の体へ巻きつけた。
黒い影が、ミミルを包み込む。
「ミミル!」
リノは手を伸ばした。
立ち上がろうとする。
でも、足に力が入らない。
膝が地面についたまま、動かなかった。
ミミルの白い体が、星の光へ変わり始める。
「ごめん、リノ」
遠ざかりかけた声が、一瞬だけ近くなった。
「今度は、ちゃんと怖いって言えばよかった」
「やめて……」
「リノと離れたくないって、もっと早く言えばよかった」
「今言ってるじゃん!」
リノの涙がこぼれる。
「だから、戻ってきてよ!」
ミミルは、泣きそうな顔で笑った。
「これだけは、もう隠さない」
星形のしっぽが、最後に強く光る。
「ぼくは、リノと一緒にいたい」
「私も!」
リノは必死に手を伸ばす。
「私もミミルと一緒にいたい!」
指先が、ミミルの白いリボンに触れそうになる。
けれど、黒い影がミミルを引き込んだ。
星の裏側へ。
星結びの庭より、もっと深い場所へ。
リノの声が届かない場所へ。
ミミルは最後に、静かに言った。
「リノ」
「待って」
「歩けなくても」
ミミルの体が、白い星の粒へほどけていく。
「進めないってことじゃないから」
リノの手が、空を掴んだ。
白い光が指先をすり抜ける。
そして。
ミミルは消えた。
「ミミル……?」
返事はなかった。
リノの衣装が、一気にほどける。
白いリボンも。
黒い染みも。
灰色の糸も。
すべてが光の粉になり、制服姿へ戻っていく。
メルたちの黒い霧が広がった。
「先生、灰色は食べられなかったね」
スミレが瓶の中を覗く。
「でも、香りはいっぱい取れたし。これ、絶対あとで甘くなるやつ」
コトはハサミを胸の前で閉じた。
「糸、ちゃんと切れたなの」
メルは、地面に座り込んだリノを見下ろした。
「いい子ちゃん」
甘い声だった。
「魔法がなくなっても、まだいい子でいられるかな?」
ひまりが赤いリボンを放つ。
「逃がさない!」
しかし、三人の姿は黒い霧へ溶けていく。
最後にメルの声だけが残った。
「またね、灰色だった子」
黒い霧が消える。
リノは地面に両手をついた。
立ち上がろうとする。
けれど。
足が、動かなかった




