第29話 灰色の子
朝の教室は、いつもと変わらないはずだった。
窓から入る光。
机の上に置かれた教科書。
廊下から聞こえる足音と話し声。
昨日、天文部室で聞いた声が、嘘だったみたいに。
――私のリボンを返して。
――まだ、終わりたくない。
――誰か、気づいて。
けれど、リノの耳の奥には、まだ残っていた。
黒いキャンディの欠片から漏れた、知らない魔法少女たちの声。
食べられた願い。
閉じ込められた記憶。
リノは胸元のリボンにそっと触れた。
白いリボン。
黒く染まった部分。
そして、そのあいだを縫うように残る灰色の糸。
ちゃんと、そこにある。
あるはずなのに。
「……リノ」
机の上で小さく丸まっていたミミルが、顔を上げた。
耳がぴくりと動く。
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
リノが小声で返す。
ミミルは、じっとリノの胸元を見た。
いつものように、リボンの状態を確かめようとしている。
でも、すぐに眉を寄せた。
「リボンの気配が、薄い」
リノは胸元を見る。
「薄い?」
「見えてる。ちゃんとある。でも……いつもみたいに読めない」
リノの指先が、リボンを握る。
「昨日の黒いキャンディの欠片のせいかな」
「分からない」
ミミルの声は、不安そうだった。
「ただ、少しぼやけてる。リノとぼくをつなぐ契約線も、いつもより細く見える」
契約線。
魔法少女と担当星兎をつなぐ、星の糸。
昨日、ミミルが話してくれたばかりのもの。
リノは息を吸った。
「痛いとかはないよ」
「でも、無理はしないで」
「うん」
そう答えたところで、前の席からミカが振り返った。
「リノちゃん、顔色悪いよ」
ミカは声をひそめる。
「昨日、あんまり眠れなかった?」
「……ちょっと」
リノは、いつもなら「大丈夫」と言っていたと思う。
でも、今日はそれをやめた。
「ちょっと、変な感じがする」
ミカは心配そうに眉を下げた。
「そっか」
それから、無理に笑わせようとはしなかった。
「じゃあ、今日は休み時間ちゃんと休もう」
「うん」
そのやりとりを、少し離れた席のセナも見ていた。
セナは手帳を開き、小さく何かを書き込む。
「昨日の解析による影響の可能性あり、ですね」
「セナちゃん、もう記録してる……」
ミカが苦笑する。
「記録は大事です。怖いことほど、形にした方が確認できます」
セナはそう言ってから、リノを見る。
「白咲さん。小さな異変でも、言ってください」
「うん」
リノは頷いた。
言っていい。
大丈夫じゃない時に、大丈夫じゃないと言っていい。
それは、簡単なようで、まだ少し難しい。
けれど、前よりはできる気がした。
その日の午前中、小さな違和感は何度かあった。
廊下の掲示板に貼られていた係決めの紙が、ふいに黒くにじむ。
体育館へ向かう階段の踊り場で、誰もいないのに声がする。
放課後の予定を書いた黒板の端に、知らない文字が浮かぶ。
どれも、すぐに消えた。
けれど、消える前に、リノには聞こえた。
――いい子でいたいの?
――悪い子になりたいの?
――どっちなの?
リノはそのたびに、胸元を押さえた。
胸の奥が、細い糸で引かれるように痛む。
昼休み。
リノたちは人の少ない中庭に集まっていた。
ミミル、ミカ、セナ、いろは。
少し遅れて、ルルとノアも来た。
ひまりとピリカは、星見台小の放課後に合流する予定だった。
「朝から、小さいノイズみたいな反応がいくつかあります」
セナが手帳を開く。
「ただ、形になる前に消えています。通常のノイズとは少し違うかもしれません」
ルルが空を見上げる。
「星の裏側から、こちらを探っている感じがする」
「探ってる?」
いろはが不安そうに聞いた。
ミミルは頷く。
「リボンの気配を探してるんだと思う」
ノアが壁にもたれたまま、つまらなさそうに言う。
「昨日、敵の欠片なんか覗いたからじゃないの」
「可能性はある」
ミミルは否定しなかった。
リノは自分の手を見る。
朝からずっと、指先が少し冷たい。
「私のせい?」
口に出した瞬間、ミカがすぐ首を振った。
「違うよ」
「でも、私のリボンが薄いって」
「それはリノちゃんのせいじゃない」
ミカの声はやわらかいけれど、はっきりしていた。
「狙ってくる方が悪い」
リノは少しだけ目を見開く。
ミカは続ける。
「怖いことが起きると、すぐ自分のせいかもって思っちゃうけど……それ、リノちゃんの悪いところっていうか」
「悪いところ」
「ううん、責めてるんじゃなくて」
ミカは慌てて手を振った。
「えっと、リノちゃんがずっとひとりで抱えようとするところ」
セナが頷く。
「それは同感です」
「セナちゃん、言い方」
「事実なので」
いろはが少し笑って、リノの肩に手を置く。
「今日はみんなで見よう。リノちゃんだけで考えなくていいよ」
リノは、ゆっくり頷いた。
「うん」
その時。
中庭の花壇の隅で、黒い光がにじんだ。
小さな黒いリボンが、土の中から芽のように伸びる。
ミミルが叫んだ。
「ノイズ!」
けれど、そのノイズは普通の形をしていなかった。
人の影でも、動物の影でもない。
白と黒の小さな旗のようなものが、何本も揺れている。
その中央で、灰色の糸がぐるぐると絡まっていた。
声がする。
――選ばないの?
――白にも黒にもならないの?
――灰色って、きれいな言い訳。
リノの胸元が、きゅっと痛んだ。
「リノ!」
ミカが叫ぶ。
リノは一歩前に出た。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
白い光が広がる。
リボンが足元から舞い上がり、制服を包む。
胸元に白いリボンが結ばれ、スカートの裾がふわりと広がる。
黒い染みと灰色の糸も、いつもの場所にある。
変身はできた。
リノはほっとする。
「マジカル・リボン・ガイド!」
リノの手から白いリボンが伸びる。
ノイズの絡まった灰色の糸に向かって、まっすぐ。
けれど。
途中で、リボンがふっと薄くなった。
「え……?」
リノの指先から力が抜ける。
リボンはノイズに届く前に、光の粉になって消えた。
ノイズの声が強くなる。
――どっちにもなれない。
――選べない子。
――誰も捨てないなんて、誰も救えないってこと。
リノの足が止まる。
胸元の灰色の糸が、ひりひりと痛む。
「違う」
リノは小さく呟いた。
「私は、選ばないんじゃない」
声が震えた。
それでも、言う。
「捨てたくないだけ」
ノアの黒いリボンが、ノイズの周囲を縛った。
「ぼーっとしない」
ノアが横に立つ。
「言い返すのはいいけど、足も動かして」
「ご、ごめん」
「謝る暇があるならもう一回」
リノは頷き、もう一度手を伸ばす。
「マジカル・リボン・ガイド!」
今度は、ルルの星の光がリノのリボンを支えた。
「ステラ・チャート」
星の線が道を作る。
リノのリボンはその線に沿って進み、灰色の絡まりに届いた。
ほどく。
ほどいて、声を聞く。
リノは息を整えた。
「大丈夫。選ばなくていいんじゃない」
ノイズの奥に向かって言う。
「白か黒かだけじゃない気持ちがあってもいい」
ノイズの声が揺れる。
――でも。
――でも、どっちにもなれないのは。
「怖いよね」
リノは頷いた。
「私も怖い」
リボンが、灰色の糸をそっとほどいていく。
「でも、怖いままでも、ここにいていい」
小さなノイズは、ふっと消えた。
黒い光がほどけ、中庭に元の静けさが戻る。
リノは膝に手をついた。
息が少し荒い。
「リノ!」
ミミルが飛んでくる。
「今、魔法が途中で消えた」
「うん」
リノは自分の手を見る。
「何か、引っかかる感じがした」
ルルが眉を寄せる。
「昨日の欠片の影響だけならいいけれど」
「いいけど、じゃないでしょ」
ノアが空を睨む。
「いるんじゃないの。見てるやつ」
その瞬間。
ぱちん、と軽い音がした。
拍手。
中庭の木の上に、黒と赤紫のフリルが揺れていた。
「やっほー、いい子ちゃん」
メルだった。
キャンディみたいな杖を肩に乗せ、楽しそうに笑っている。
リノはすぐに身構えた。
「メル……」
「すごいすごい。さっきの答え、先生に聞かせてあげたかったなあ」
メルは木の枝からひょいと飛び降りる。
「灰色の子、やっぱりおもしろい」
ミミルがリノの前に出る。
「リノに近づかないで」
「うさぎちゃん、こわーい」
メルはくすくす笑う。
でも、今日はいつもの軽さの奥に、別のものがあった。
遊びだけじゃない。
リノはそれを感じた。
「昨日、先生に報告したよ」
メルは言う。
「灰色の子、見つけたって」
リノの胸が冷たくなる。
「先生って、黒いキャンディ先生のこと?」
「そうだよ」
メルは嬉しそうに頷いた。
「メルを見つけてくれた、やさしい先生」
やさしい。
その言葉が、黒いキャンディの甘い匂いと混ざって、リノの胸に刺さる。
「メル、今まで遊んでただけだよ」
メルは軽く手を広げた。
「いい子ちゃんたちが、どんな味になるのかなって」
ミカが一歩後ろへ下がる。
セナがすぐに周囲を見る。
避難経路。人の気配。先生の位置。
いろはは震えながらも、ミカの手を握った。
メルは続ける。
「でもね、先生が言ったの」
黒いキャンディを指先で転がす。
「灰色の子は、ちゃんと連れておいでって」
リノは息を呑んだ。
連れておいで。
それは、もうただのいたずらではなかった。
「だから、ごめんね」
メルが、にこっと笑う。
「ここからは、ほんとの悪い子の時間」
その言葉と同時に、メルの左右に黒い飴の霧が広がった。
甘い匂い。
黒くて、苦くて、泣きそうな匂い。
霧の中から、二つの影が現れる。
一人は、ミルクティーベージュの髪をゆるく巻いた女の子。
毛先には、薄いピンクのグラデーション。
片目の下に黒いハートシール。
黒とピンクのミニワンピ風の衣装。
手には黒いキャンディ瓶。
彼女はリノを見るなり、ぱっと笑った。
「やば、ほんとに灰色じゃん」
声は軽い。
まるで、友達に新しいアクセサリーを見せてもらった時みたいな声。
「白でも黒でもないとか、めっちゃレアじゃない?」
リノは警戒して一歩下がる。
「あなたは……」
「スミレ」
彼女はキャンディ瓶を抱えたまま、ひらひら手を振る。
「記憶を味見する係、みたいな?」
「味見……?」
ミカの声が震える。
スミレはにこにこ笑ったまま、リノの胸元を見る。
「ねえ、その記憶ちょっと味見していい?」
リノはリボンを握る。
「嫌」
「即答じゃん。うける」
スミレは肩をすくめた。
「痛いのに優しくしようとしてる味とか、絶対濃いやつなのに」
ひゅ、と風が走った。
赤いリボンが中庭を横切り、スミレの足元に線を引く。
「人の記憶を、味とか言わないで」
校門の方から、ひまりが走ってきていた。
肩にはピリカ。
息を切らしながらも、ひまりの目はまっすぐスミレを睨んでいる。
「ひまりちゃん!」
ミカが叫ぶ。
ひまりはリノの隣に立つ。
「遅くなってごめん。なんか、赤がざわざわして……って、なにこの人たち!」
ピリカが素早く言う。
「黒いキャンディ先生の配下だと思う。気をつけて」
スミレはひまりを見て、にやっと笑った。
「えー、怒った? 赤リボンちゃん、すぐ味濃くなるじゃん」
「だから味って言うなってば!」
「ひまり、熱くなりすぎない」
ピリカがすぐに止める。
「分かってる!」
「分かってない時の声なの、それ」
その横で、もう一人の女の子が静かに一歩前へ出た。
パステルピンクの髪が、黒い霧の中でふわりと揺れる。
さらりとした髪は肩のあたりで切りそろえられていて、砂糖菓子みたいにやわらかい色をしている。
黒とはちみつ色の服。
小さなケープ。
手には、キャンディ型の小さなハサミ。
表情はほとんど変わらない。
でも、目だけはきらきらしていた。
「こんにちはなの」
彼女は小さく頭を下げた。
「コトは、糸を切る係なの」
セナの目が鋭くなる。
「糸?」
コトは、リノとミミルの間を見る。
何もない空間を見ているようで、見ていない。
そこにある、見えない星の糸を見ている。
「隠してる糸、見つけたなの」
コトは嬉しそうに、ほんの少し笑った。
「ちょっと切ったら、先生が見つけやすくなるなの」
ミミルの顔色が変わった。
「リノから離れて!」
コトは首をかしげる。
「離れたら切れないなの」
「切らせない!」
リノは手を広げ、リボンを構える。
メルが楽しそうに笑った。
「紹介終わり。じゃあ、遊ぼっか」
「これは遊びじゃない」
ルルが星の光をまとった。
「スターライト・バリア」
星の結界が、中庭を包む。
外からは見えないように。
中の被害が広がらないように。
ノアも黒いリボンを広げる。
「今日は見逃す気ないから」
「黒リボンちゃん、こわーい」
メルは黒いキャンディを投げた。
キャンディは地面に当たり、ぱりんと割れる。
そこから、小さなノイズがいくつも生まれた。
白と黒の旗。
灰色の糸。
中途半端な声。
――白くなれない。
――黒くなれない。
――選べない。
――助けたいなんて、きれいごと。
リノの胸が痛む。
「リノ、下がって!」
ミミルが叫ぶ。
「まだ契約線が不安定だ!」
「でも、今止めないと」
「一人で止めなくていいって言ったでしょ!」
ミカの声だった。
リノは振り返る。
ミカは怖がっている。
でも、逃げずにそこにいた。
「私たちもいるよ!」
セナがすぐ続ける。
「いろはさん、ミカさん、一般生徒の気配がないか確認を。私は先生が近づいた場合の説明を考えます」
「う、うん!」
いろはが頷く。
「写真は撮らない。今日は記録より安全!」
「それがいいと思う」
ミカも頷いた。
リノは息を吸う。
「うん」
一人じゃない。
だから、前に出る。
「マジカル・リボン・ガイド!」
リノのリボンが伸びる。
ひまりも隣で赤いリボンを構えた。
「レッド・リボン・ライン!」
赤い線が地面を走り、ノイズの進路を止める。
ルルの星の結界が支え、ノアの黒いリボンがノイズを縛る。
リノはその中心へ、白いリボンを伸ばした。
ほどく。
聞く。
絡まった声を、ひとつずつ。
けれど、途中でまた、リボンが薄くなった。
リノの視界が揺れる。
声が流れ込む。
――どっちにもなれない。
――灰色って、都合がいいだけ。
――誰も捨てないって、誰も選ばないってこと。
リノは歯を食いしばる。
「違う」
足元がぐらつく。
「私は、選ばないんじゃない」
リボンを握り直す。
「捨てたくないだけ」
その瞬間、スミレが楽しそうに声を上げた。
「やば」
スミレの黒いキャンディ瓶の中で、小さな灰色の光が揺れた。
「今の記憶、ちょっと甘かった」
リノが振り返る。
「何をしたの?」
「ちょっと香りをもらっただけ」
スミレは悪びれずに笑う。
「痛いの我慢してる味する」
ひまりが赤いリボンを強く光らせる。
「やめてって言ってるじゃん!」
「ひまり!」
ピリカが叫ぶ。
ひまりの赤が熱くなりすぎる前に、リノは手を伸ばした。
「ひまりちゃん、大丈夫」
「でも!」
「怒ってくれてありがとう」
リノは少しだけ笑った。
「でも、今は線を間違えないで」
ひまりは息を呑む。
小春の声が、ひまりの中で響いたのかもしれない。
怒ってる時ほど、線を間違えないで。
ひまりは、唇を噛んで頷いた。
「……分かった」
その隙だった。
コトが動いた。
走るでも、跳ぶでもない。
まるで最初からそこに道があったみたいに、静かにリノへ近づいていた。
ミミルが気づく。
「リノ!」
コトのハサミが、何もない空間を挟む。
リノには見えない。
でも、胸の奥がぞくりとした。
コトは小さく言う。
「全部じゃないなの」
ハサミが、光を噛む。
「ちょっとだけなの」
ミミルが飛び込む。
「やめて!」
「見つけやすくするだけなの」
ちきん。
小さな音だった。
本当に、小さな音。
でも、その瞬間。
リノの胸元の灰色の糸が、一瞬だけ透明になった。
呼吸が止まる。
胸の奥から、何かが遠ざかる感覚。
ミミルの声が、水の中から聞こえるみたいにぼやけた。
「リノ!」
リノは膝をついた。
「なに、今の……」
ミミルがリノの肩にしがみつく。
「契約線が……傷ついた」
コトは、ハサミを胸の前で持って、きらきらした目で笑う。
「少し切れたなの」
その声は、静かで、元気で、残酷だった。
「先生、よろこぶなの」
ノアの黒いリボンが、コトへ向かって走る。
「ふざけるな」
けれどメルが黒いキャンディを弾いた。
黒い霧が広がり、ノアのリボンを飲み込む。
「今日はここまで」
メルが笑う。
「味見だけだよ」
「逃がすと思ってる?」
ノアの声が低くなる。
メルは楽しそうに首を傾げた。
「黒リボンちゃんが本気になったらこわいもん。逃げるよ?」
スミレがキャンディ瓶を揺らす。
「灰色の記憶、やばそうだった〜」
瓶の中で、かすかな灰色の光が揺れる。
「次はちゃんと味見したいな」
ひまりが叫ぶ。
「返して!」
「香りだけだから、まだ返すほどじゃないって」
スミレは軽く笑った。
「でも、赤リボンちゃんの怒った顔、けっこう好き」
「好きじゃない!」
ピリカがひまりの肩を押さえる。
「落ち着いて。追ったら罠」
コトはリノをじっと見ていた。
「糸、まだ残ってるなの」
ハサミを小さく閉じる。
「次はもう少し切るなの」
メルは最後に、リノへ視線を向けた。
「いい子ちゃん」
リノは膝をついたまま、メルを見る。
メルの笑顔は、甘い。
甘くて、怖い。
「魔法が使えなくなっても、まだみんなを助けたいって言える?」
リノは答えようとした。
でも、声が出なかった。
胸元のリボンが、いつもより遠い。
ミミルの声も、少しだけ遠い。
メルは満足そうに笑う。
「またね、灰色の子」
黒いキャンディの霧が広がった。
メルの姿も。
スミレの笑顔も。
コトのパステルピンクの髪も。
全部、甘い匂いの向こうに消えていく。
中庭には、静けさだけが残った。
ルルの結界がゆっくり解ける。
ノアは舌打ちし、消えた霧の方を睨んでいた。
「逃げ足だけは速い」
ひまりは悔しそうに拳を握る。
「なんなの、あの子たち……」
ピリカが低く言う。
「メルだけじゃなかった。先生側が、本格的に動き始めたんだと思う」
ミカがリノのそばへ駆け寄る。
「リノちゃん!」
リノはゆっくり顔を上げた。
ミカの顔が、心配で歪んでいる。
「大丈夫?」
いつもの言葉が、口の中まで出かかった。
大丈夫。
でも、リノはそれを飲み込んだ。
胸が痛い。
手が冷たい。
ミミルの声が、いつもより少し遠い。
大丈夫なんかじゃない。
「大丈夫じゃ、ないかも」
そう言うと、ミカは泣きそうな顔で、でも少しだけ安心したように頷いた。
「うん。言ってくれてよかった」
セナが近づく。
「白咲さん、立てますか?」
「うん……たぶん」
「たぶんは禁止です。ひまりさん、反対側を」
「分かった!」
ひまりがリノの腕を支える。
「リノちゃん、無理したらだめだからね」
「ひまりちゃんも、さっき熱くなってたよ」
「うっ……それはそうだけど」
ピリカが頷く。
「反省点なの」
「ピリカまで!」
ほんの少し、空気がやわらぐ。
でも、ミミルの顔は青いままだった。
ミミルはリノの胸元を見つめている。
「契約線が傷ついてる」
その言葉で、みんなの表情が引き締まった。
「まだ繋がってる。でも……薄い」
リノは、そっと手を伸ばした。
小さなリボンを出そうとする。
「マジカル・リボン……」
白い光が、指先に集まる。
いつものように、リボンが生まれる。
生まれるはずだった。
けれど。
ぱら、と。
光は途中でほどけた。
白いリボンは形になる前に、細かな粒になって消える。
リノは、自分の手を見つめた。
もう一度。
「マジカル・リボン……」
今度も、光は集まっただけで、すぐ消えた。
完全に出ないわけじゃない。
けれど、結べない。
伸びない。
声に届かない。
リノの喉が、きゅっと詰まった。
「……出ない」
ミミルが震える声で言う。
「リノ、ごめん。ぼくが、守れなかった」
「ミミルのせいじゃない」
リノはすぐに言った。
けれど、その声にも力はなかった。
ノアが静かに近づく。
「今は責任の押しつけ合いしてる場合じゃない」
ルルも頷いた。
「まずは状態を確認する。焦って魔法を使おうとしない方がいい」
リノは頷いた。
「うん」
でも、手のひらを見るのをやめられなかった。
何度も誰かの声を聞いた手。
ほどけた心を結び直してきた手。
自分の黒い気持ちも、灰色の糸も、全部握ってきた手。
その手から、リボンが出ない。
中庭の空は、夕方の色に染まり始めていた。
赤でもなく。
黒でもなく。
白でもない。
曖昧な、灰色の雲が、空の端に広がっている。
リノは胸元を押さえた。
そこにリボンはある。
けれど、遠い。
まるで、自分の願いが、少しだけ自分から離れてしまったみたいに。
リノの胸元で、灰色の糸が、誰にも聞こえない音を立ててほつれていた。




