第28話 食べられた願い
ルルのいる天文部室は、いつもより静かだった。
窓際に置かれた古い望遠鏡。
壁に貼られた星図。
棚に並んだ天文雑誌。
いつもなら、どこか落ち着く場所のはずだった。
けれど今日だけは、星の絵も、夜空の写真も、少し遠く見えた。
机の上には、小さな黒い欠片が置かれている。
黒いキャンディの欠片。
ひまりが過去の記憶の中で倒した、リボンを食べる敵が残したもの。
そして、メルが何度も残していった黒い甘さの正体に近いもの。
誰も、すぐにはそれに触れなかった。
ひまりは椅子に座って、両手で赤いリボンを握っていた。
いつもなら足をぱたぱたさせたり、ピリカと小さな言い合いをしたりする。
でも今日は、膝の上にいるピリカをそっと抱えたまま、静かにしている。
ピリカも同じだった。
いつもの元気な声はない。
小さな体を丸めて、ひまりの手の中にいる。
ミミルは、机の端に座っていた。
耳が下がっている。
星形のしっぽも、いつものように揺れていない。
リノは、そんなミミルを見つめていた。
「ミミル」
静かな声だった。
でも、その静かさの中に、怒りがあった。
「もう隠さないって言ったよね」
ミミルは顔を上げられなかった。
「なのに、まだあったの?」
誰も口を挟まない。
ミカはリノの隣で、心配そうに手を握っている。
セナは手帳を開いているけれど、ペンは止まっていた。
いろはは唇をきゅっと結び、黒い欠片を見ないようにしている。
ノアは壁にもたれ、腕を組んだまま黙っていた。
ルルは窓際に立っている。
星を見ているようで、見ていなかった。
「ごめん」
ミミルは、ようやく声を出した。
「怖がらせたくなかった」
リノの胸元のリボンが、小さく揺れる。
ミミルは続けた。
「でも、それはまた……ぼくの言い訳だった」
リノは何も言わなかった。
ミミルの言葉を待っていた。
ミミルは、机の上の黒い欠片を見た。
「魔法少女のリボンは、強い願いそのものなんだ」
その声は、かすれていた。
「ただの飾りじゃない。魔法の道具でもない。心の奥で結ばれた願い、痛み、決意……そういうものが形になっている」
ひまりの指が、赤いリボンを強く握る。
「だから、リボンを断ち切られると、力だけじゃなくて、願いの一部も傷つく。記憶の欠片が散ることもある」
ピリカが、ひまりの膝の上で小さく震えた。
小春の赤いリボン。
食べられた欠片。
メルが知っていた小春の記憶。
「ノイズとは違うの?」
ミカが小さく聞いた。
ミミルは頷く。
「ノイズは、心の声がほどけたもの。言えなかった言葉や、押し込めた願いが、形を持ってしまったもの」
ミミルは黒い欠片を見つめる。
「でも、リボンを食べるものは違う。ほどけた声じゃない」
少し間を置いて、言った。
「誰かの願いを、外から奪うものなんだ」
部屋の空気が冷たくなった。
いろはが、ぽつりと言う。
「奪うって……魔法少女から?」
「うん」
ミミルは頷いた。
「魔法少女のリボンを食べる。リボンの色を、力を、記憶を、願いを」
ノアが小さく舌打ちした。
「最悪」
それだけ言って、黒いリボンを指先に巻きつける。
「趣味が悪すぎる」
ルルは静かに目を伏せた。
「星の裏側には、そんなものまでいるのね」
「昔からいたわけじゃない」
ミミルが言った。
「少なくとも、ぼくが知っている星結びの庭では、そんな存在を近づけないための封印があった」
「星結びの庭……」
リノが呟く。
ミミルたち星兎族の場所。
星の裏側にある、心の声を結び直すための庭。
「じゃあ、今は?」
セナが聞いた。
「その封印は、今も機能しているのですか?」
ミミルは答えに詰まった。
それだけで、十分だった。
「分かりました」
セナはゆっくりとペンを動かす。
「つまり、少なくとも完全ではないということですね」
ミミルは小さく頷く。
「今は、星兎族が魔法少女たちの気配を隠している。契約線を隠して、リボンの色をぼかして、星の裏側に居場所が漏れないようにしている」
「位置情報を隠している状態ですね」
セナの声は冷静だった。
「守られているというより、見つからないようにされている」
ミミルは何も言えなかった。
「そして、その隠蔽は破られる可能性がある」
セナは続ける。
「条件は?」
ミミルは、ゆっくり答える。
「黒いキャンディに触れすぎること。強い感情でリボンの色が暴れること。契約線が傷つくこと。魔法少女の願いが、星の裏側へ強く漏れること」
リノは、自分の胸元に触れた。
白いリボン。
黒い染み。
灰色の糸。
自分の灰色は、隠れているのだろうか。
それとも、もう見つかりかけているのだろうか。
ミカが少し震えた声で言う。
「それ、かなり怖いね……」
「うん」
リノは頷いた。
「怖いよ」
リノはミミルを見た。
「怖いことを知るのは怖い」
ミミルの耳が、さらに下がる。
「でも、知らないまま守られるのは、もっと怖い」
ミミルは、ぎゅっと目を閉じた。
「ごめん」
「謝って終わりにはしないで」
リノの声は、強くはなかった。
でも、まっすぐだった。
「これからは、怖いことも教えて」
ミミルは顔を上げる。
「うん」
「私たち、怖がるかもしれない。迷うかもしれない。間違えるかもしれない」
リノは、胸元のリボンを握った。
「でも、知らないまま戦うのは、もういやだよ」
ミミルは、今度こそはっきり頷いた。
「分かった」
短い言葉だった。
けれど、その声は震えていた。
「もう、隠さない」
天文部室に、少しだけ息が戻った。
けれど、黒い欠片はまだ机の上にある。
ピリカが、ひまりの膝から降りた。
「これ、調べるの?」
ミミルは頷く。
「危ない。でも、調べないといけない」
ルルが机に近づく。
「私も手伝う。星の糸なら、少し読める」
ノアが鼻で笑った。
「触ったら食われるとか言わないよね」
「欠片だけなら、すぐには食べないと思う」
「“思う”か」
ノアは嫌そうに眉を寄せる。
「ほんと、嫌なものばっかり増える」
いろはが小さく手を上げた。
「あの、私たちは離れてた方がいい?」
ミミルは少し考えた。
「ミカ、セナ、いろはは少し後ろにいて。もし欠片から何か出たら、すぐ廊下へ」
ミカは頷いた。
「分かった」
セナも手帳を閉じる。
「記録は続けます。ただし、安全距離は取ります」
「セナちゃん、こういう時ほんと頼りになるね」
いろはが小声で言う。
「怖い時ほど、やることを決めた方が落ち着きます」
セナはそう言って、少しだけ息を吸った。
ミミルとピリカが、黒い欠片の両側に立つ。
ルルが星の光を指先に集める。
部室の中に、細い白い糸が伸びた。
星の糸。
その糸が黒いキャンディの欠片に触れた瞬間。
かちり、と小さな音がした。
まるで、硬い飴にひびが入ったような音。
欠片の奥から、声が漏れた。
「やめて」
リノの背筋が凍る。
それは小春の声ではなかった。
知らない女の子の声。
「私のリボンを返して」
別の声。
「まだ、終わりたくない」
また別の声。
「誰か、気づいて」
黒い欠片の表面に、薄い色が浮かぶ。
赤。
青。
黄色。
紫。
どれもすぐに黒に沈んでいく。
ひまりが、息を呑んだ。
「小春ちゃんだけじゃ、なかったの?」
誰も答えられなかった。
ピリカが、ぎゅっと前足を握る。
「小春だけじゃない」
ミミルの声は苦しかった。
「たぶん、ずっと前から」
ルルが目を伏せる。
「ずっと前から狙われていたのに、私たちは知らなかった」
「いや」
ノアが低く言った。
「知らされてなかった、でしょ」
その言葉に、ミミルが小さく震える。
ルルは否定しなかった。
リノは、黒い欠片から聞こえる声に耳を澄ませた。
知らない声ばかり。
でも、どれも痛かった。
助けてほしかった。
返してほしかった。
終わりたくなかった。
魔法少女だった誰かの、食べられた願い。
ひまりが椅子から立ち上がった。
赤いリボンが、小さく光る。
「小春ちゃんの声を」
ひまりの声は震えていた。
でも、逃げていなかった。
「誰かのキャンディにされたくない」
ピリカも頷いた。
「思い出は、食べものじゃない」
その言葉に、ミカが泣きそうな顔をした。
「ほんとだよ」
いろはも小さく頷く。
「誰かの大事なものなのに」
黒い欠片が、また鳴った。
かちり。
今度は、表面に模様が浮かんだ。
黒い星。
でも、ただの黒い星ではなかった。
星の周りに、小さな結び目のような印がある。
ミミルが硬直した。
ピリカも、目を見開く。
「……これ」
ピリカの声がかすれる。
ミミルが、震えるように呟いた。
「星結びの庭の封印印だ」
リノはミミルを見る。
「星結びの庭って、ミミルたちの場所だよね?」
「うん」
ミミルは、黒い欠片を見つめたまま答える。
「でも、この印は外に出てはいけないものなんだ」
「どういうこと?」
ミカが聞く。
ミミルは、すぐには答えられなかった。
ルルが静かに言う。
「黒いキャンディ先生は、星結びの庭の封印に触れたことがある。あるいは、封印の内側にいたことがある」
部屋の空気が、さらに重くなる。
「星兎族の中に裏切り者がいるってこと?」
いろはが恐る恐る聞いた。
ミミルはすぐに首を振ろうとして、止まった。
否定しきれない。
その事実が、ミミル自身を一番傷つけているように見えた。
セナが静かにまとめる。
「現時点で断定はできません。ただ、黒いキャンディ先生は星結びの庭について、私たちよりも詳しい可能性があります」
ノアが苦い顔をする。
「敵が内側を知ってるって、一番面倒なやつじゃん」
ミミルはうつむいた。
「ぼくも、庭に戻って確かめないといけない」
リノはすぐに言った。
「一人で行かないで」
ミミルが顔を上げる。
「でも」
「一人で抱えないって言ったよ」
ミミルは言葉を止めた。
リノは、少しだけ表情をやわらげる。
「今度は、ちゃんと言って」
ミミルは、小さく頷いた。
「うん」
その時、黒い欠片がぱきんと割れた。
中から、甘い匂いがふわりと立ち上る。
黒くて、苦くて、少しだけ泣きそうな匂い。
ひまりが赤いリボンで口元を押さえた。
「この匂い……」
「メルのキャンディと同じ」
リノが呟いた。
部室の窓の外で、風が吹いた。
夕方の空は、少しずつ夜へ向かっている。
空にまだ星は見えない。
でも、星の裏側の影だけは、もうここまで近づいているような気がした。
「もう、ただノイズを止めるだけじゃ足りないんだね」
ミカが言った。
リノは頷いた。
「うん」
「怖いね」
「怖い」
リノは正直に答えた。
そして、机の上の割れた黒い欠片を見た。
「でも、知ったからには、もう見ないふりはできない」
ひまりが、小さく頷く。
「うん」
赤いリボンが、ひまりの胸元で静かに揺れた。
「小春ちゃんの声も、ほかの子の声も、キャンディの中に閉じ込めたままにしたくない」
ピリカが、ひまりの肩に戻る。
「ひまり」
「なに?」
「泣きそう?」
「ちょっと」
「おやついる?」
ひまりは、ほんの少しだけ笑った。
「いる」
ミカが、ほっとしたように笑う。
「星形クッキー、買ってこようか?」
「え、あるの?」
「探せばあるかも」
「やった」
ひまりの声に、少しだけいつもの明るさが戻る。
でも、それはもう、何かを隠すためだけの明るさではなかった。
泣きそうでも、立っているための明るさ。
リノはそれを見て、少しだけ胸が温かくなった。
けれど、ミミルの表情はまだ晴れない。
割れた黒い欠片。
星結びの庭の封印印。
メルの先生。
食べられたリボンたち。
分からないことは、増えた。
知らなかったことも、増えた。
でも、リノは思う。
知らないままよりは、ずっといい。
怖くても。
痛くても。
知って、選びたい。
守られるだけじゃなく、一緒に考えたい。
リノはミミルを見た。
「ミミル」
「うん」
「次に何か分かったら、すぐ教えて」
「うん」
「怖くても」
「うん」
「言いにくくても」
ミミルは、今度はリノの目を見て答えた。
「言う」
その声は小さかったけれど、確かだった。
その夜。
星の裏側の奥にある、黒いキャンディの部屋では、甘い匂いが満ちていた。
床も壁も、黒い飴細工のように艶めいている。
天井からは、いくつもの瓶が吊るされていた。
瓶の中には、色の薄いリボンの欠片が入っている。
赤。
青。
黄色。
紫。
どれも、誰かの願いだったもの。
部屋の中央で、メルは黒いキャンディをころころ転がしていた。
「先生、いい子ちゃんたち、気づきはじめたよ」
メルは楽しそうに笑う。
「食べごろになるかな?」
返事はない。
けれど、部屋の奥の暗がりが、ゆっくりと揺れた。
そこにいる何かが、聞いている。
メルはそれだけで嬉しそうだった。
「灰色の子、やっぱりおもしろいよ」
メルは黒いキャンディを口元に近づける。
「白くなりたいのに黒も捨てられない。黒になりたいわけじゃないのに、ちゃんと黒いとこも持ってる」
くすくす笑う。
「先生が好きそう」
その時、横から軽い声がした。
「んー、でもまだ早くない?」
ミルクティーベージュの髪をゆるく巻いた女の子が、瓶をのぞき込んでいた。
毛先には、薄いピンクが溶けたみたいに入っている。
片目の下には、黒いハートのシール。
黒とピンクのミニワンピ風の衣装に、黒いキャンディ瓶を抱えている。
爪は、黒とピンクにきらきら光っていた。
「気づいたばっかの怖さって、ちょい苦いんだよね」
彼女は瓶の中の赤い欠片を見て、にこっと笑った。
「でもさ、寝かせたら絶対甘くなるやつ」
メルが振り返る。
「スミレ、味見したの?」
「ちょっとだけ」
スミレは軽く肩をすくめる。
「小春ちゃんの赤、まだちょっと残ってるし」
瓶を指で軽く叩く。
「泣きそ〜って味だった」
メルは嬉しそうに笑った。
「赤リボンちゃんが聞いたら怒りそう」
「怒った方が味濃くなるじゃん?」
「それ、先生喜ぶね」
「でしょ」
スミレは黒いキャンディ瓶を抱え直す。
「てか、灰色の子も気になるんだよね。白でも黒でもない記憶って、どんな味すんの? やばくない?」
その後ろで、小さな音がした。
ちきん。
キャンディ型の小さなハサミが閉じる音。
黒とはちみつ色の服を着た女の子が、静かに首をかしげていた。
パステルピンクの髪が、黒い部屋の中で淡く浮かんでいる。
さらりとした髪は肩のあたりで揺れて、甘い砂糖菓子みたいにやわらかい色をしていた。
表情はほとんど変わらない。
けれど、目だけはきらきらしていた。
「じゃあ、隠してる糸を少し切るなの?」
声は小さい。
でも、なぜか楽しそうだった。
「見つかりやすくなったら、先生もうれしいなの」
メルは手を叩いた。
「いいねえ、コト。もっと甘くしよっか」
スミレも笑う。
「やば。次、めっちゃ楽しそうじゃん」
コトは、もう一度ハサミを閉じた。
ちきん。
「お手伝いするなの」
部屋の奥の暗がりが、ゆっくりと震えた。
それは笑ったようにも、何かを飲み込んだようにも見えた。
やがて、暗がりの奥から声がした。
「次は、灰色の子を見つけておいで」
甘くて、黒くて、少しだけ泣きそうな声。
メルの顔がぱっと明るくなる。
「はーい、先生」
スミレはキャンディ瓶を揺らした。
「灰色の記憶、味見していい?」
コトはハサミを胸の前で持った。
「糸、ちょっとだけ切るなの」
黒いキャンディの部屋で、三人の笑い声が混ざった。
甘くて、黒くて、少しだけ泣きそうな匂いがした。
そして、吊るされた瓶の中で。
誰かの赤いリボンの欠片が、かすかに震えた。
ついに敵の正体の確信へ!




