第27話 小春の声・前編
ひまりは、いつも通り笑っていた。
「えー! まじで!? 今日の給食、星見台小はカレーだったんだよ。しかもね、にんじんが星の形だったの!」
放課後。
リノたちは、星見台小学校の近くにある小さな公園に集まっていた。
ひまりはベンチの上で足をぱたぱたさせながら、いつものように明るい声で話している。肩の上では、ピリカが小さな前足で耳を整えていた。
「星形にんじん、三つ入ってたの。すごくない?」
ミカが笑う。
「三つは大当たりだね」
「でしょ? だから今日はいい日かもって思ったんだけどさ」
ひまりはそこまで言って、ほんの少しだけ言葉を止めた。
ほんの少し。
でも、リノには分かった。
笑顔の端が、少しだけ固い。
声は明るい。
テンションも高い。
でも、それは何かを隠すために、いつもより強く光らせているような明るさだった。
「ひまり」
ピリカが小さく言う。
「赤、熱いよ」
「えー、そうかな? 普通だよ、ふつう!」
「“ふつう”って言う時ほど普通じゃないんだよ」
「ピリカ、それ誰情報?」
「ひまり観察情報」
「なにそれ〜」
ひまりは笑った。
けれど、ピリカは笑っていなかった。
前の日、メルは言った。
泣いてた、あの子の声。
怒っても、戻ってこなかったのにね。
その言葉を聞いた時、ひまりの赤いリボンは、今まで見たことがないくらい強く震えた。
それからずっと、ひまりは明るい。
明るすぎるくらいに。
リノは、そっと声をかけた。
「ひまり、大丈夫?」
「うん!」
ひまりはすぐに頷いた。
「大丈夫だよ〜。ちょっとドキドキしてるだけ!」
その返事は早すぎた。
ミカがリノを見る。
その目は、心配そうだった。
セナも手帳を持ったまま、静かにひまりを見ている。
ルルは公園の入口近くで空を見上げていた。
「黒い星の気配が、薄く残ってる」
その声に、空気が変わった。
ノアがベンチの背にもたれたまま、面倒そうに目を細める。
「またメル?」
「分からない。でも、星見台小の方から来てる」
ルルの言葉に、ひまりの足が止まった。
「学校……?」
ピリカがひまりの肩で身構える。
「ひまり、無理しないで」
「無理じゃないよ」
ひまりは立ち上がった。
赤いリボンが、風もないのに小さく揺れる。
「星見台小なら、わたしの学校だもん」
声は明るかった。
でも、最後だけ少し低かった。
リノたちは、星見台小学校の裏門の方へ向かった。
夕方の小学校は、リノたちの学校とは少し違う匂いがした。
低い門。
カラフルな掲示物。
校庭の隅に置かれた一輪車。
花壇には、朝顔のつるが伸びている。
ひまりは、その景色の中にいると、やっぱり小学生だった。
校庭の広さも、掲示板の高さも、ひまりに似合っていた。
けれど。
校舎の裏側から、笑い声が聞こえた。
「だからさ、変な顔だったって!」
「やめてよ〜」
「ほら、笑ってるじゃん」
「怒んないでよ、冗談だって」
ひまりの表情が、すっと変わった。
リノたちは足を止める。
校舎の影。
数人の小学生が、一人の女の子を囲んでいた。
女の子は笑っていた。
口元だけで。
目は笑っていない。
手は、スカートの端をぎゅっと握っている。
「ほんと、面白かったよね。さっきの発表」
「声ちっちゃすぎて聞こえなかったし」
「でも、本人も笑ってるからいいじゃん」
女の子は、小さく笑った。
「うん……大丈夫」
その声を聞いた瞬間。
ひまりの赤いリボンが、ぱっと熱を持った。
「……笑ってるけど」
ひまりの声は低かった。
「痛そう」
リノは胸元を押さえた。
その言葉は、まっすぐだった。
けれど、ひまりの視線は、今の女の子だけを見ていなかった。
もっと昔の誰かを、見ているようだった。
「ひまり?」
ピリカが小さく呼ぶ。
けれど、ひまりは答えなかった。
赤いリボンの光が、公園から校舎裏へと薄く伸びる。
黒い星の気配が、その光に反応した。
空気が、ゆがむ。
笑い声が、遠くなる。
リノの足元に、夕焼け色の影が広がった。
そして。
世界が、少しだけ過去へ傾いた。
小春ちゃんは、ひまりより一つ年上の幼なじみだった。
家が近くて、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。
学校では学年が違うけれど、帰り道は途中まで同じだった。
姉妹ではない。
でも、ひまりにとって小春ちゃんは、少しだけお姉ちゃんみたいな子だった。
「ひまりちゃん、走ると転んじゃうよ」
「転ばないもん!」
そう言った次の瞬間、ひまりは石につまずいた。
「わっ」
膝をつく前に、小春ちゃんが手を伸ばしてくれた。
「だいじょうぶ? びっくりしたね」
小春ちゃんは、ひまりの手をぎゅっと握ってくれた。
「痛いところ、ない?」
「……ない」
「よかった」
小春ちゃんは、ほっとしたみたいに笑った。
小春ちゃんは、いつもそうだった。
ひまりが泣きそうになると、先にしゃがんでくれた。
ひまりが転びそうになると、手を伸ばしてくれた。
ひまりが失敗してむっとしている時には、急がずに待ってくれた。
痛い時には、痛いって言っていいんだよ。
小春ちゃんは、そういう顔でそばにいてくれる子だった。
なのに。
小春ちゃんは、自分が痛い時だけ、いつも笑っていた。
ある日の放課後。
ひまりと小春は、学校の隅のベンチで折り紙をしていた。
小春ちゃんは赤い折り紙で、小さなリボンを作っていた。
「すごい! 小春ちゃん、またできた!」
「ひまりちゃんもやってみる?」
「やる!」
ひまりは赤い折り紙を受け取って、見よう見まねで折り始める。
けれど、すぐに形がぐちゃっとなった。
「あれ? なんか、リボンじゃなくて……つぶれたちょうちょみたいになった」
小春ちゃんは笑った。
でも、ばかにするような笑い方じゃなかった。
「じゃあ、一緒にやろう」
「いいの?」
「うん」
小春ちゃんは、ひまりの指に自分の指をそっと添えた。
「ここをね、ぎゅってするんだよ」
「ぎゅって?」
「うん。でも、強くしすぎると、くしゃってなっちゃうから。少しだけ」
「少しだけってむずかしい〜」
「そうだね。むずかしいね」
小春ちゃんは、ひまりを急かさなかった。
「ここを押さえて、ゆっくり折るの」
「こう?」
「うん。上手」
「ほんと?」
「ほんと。ひまりちゃんのリボン、元気でかわいいよ」
そう言って笑う小春ちゃんが、ひまりは好きだった。
「リボンも元気でいいじゃん!」
「うん」
小春ちゃんは頷いた。
「ひまりちゃんのリボンは、元気なくらいがいいと思う」
その笑顔は、やさしかった。
春の日の光みたいに、あたたかかった。
でも、小春ちゃんの笑顔には、時々、細い影が混じった。
教室で誰かにからかわれた時。
「小春って、声ちっちゃいよね」
「もう一回言ってみてよ」
「聞こえなかった〜」
小春ちゃんは笑った。
「ごめんね。今度はもう少し大きく言うね」
その声は、やさしかった。
怒っていないみたいに聞こえた。
周りの子たちも笑った。
「ほら、小春も笑ってるじゃん」
「怒ってないって」
「冗談だもんね」
小春ちゃんも、また笑った。
でも、ひまりは見ていた。
机の下で、小春ちゃんの手がぎゅっと握られていたこと。
笑ったあと、少しだけ息を止めること。
帰り道で、いつもより言葉が少なくなること。
「小春ちゃん」
「なあに?」
「さっきの、痛かった?」
小春ちゃんは驚いた顔をした。
それから、困ったように笑った。
「大丈夫だよ」
「大丈夫って聞いてないよ。痛かった? って聞いたの」
小春ちゃんは、何かを言いかけて、やめた。
その代わりに、ひまりの頭をそっとなでた。
「ひまりちゃんは、そういうの見つけるの上手だね」
「上手っていうか、見えるもん」
「そっか」
小春ちゃんは、空を見上げた。
「でも、見えないふりしていい時もあるよ」
「なんで?」
「その方が、みんな困らないから」
ひまりは、むっとした。
「小春ちゃんが困ってるじゃん」
小春ちゃんはまた笑った。
その笑顔は、いつもの笑顔より少しだけ薄かった。
「ひまりちゃんは、ちゃんと怒れるんだね」
「怒るよ。だって嫌だもん」
「そっか」
小春ちゃんは、小さく頷いた。
「それは、すごいことだよ」
「すごいの?」
「うん」
小春ちゃんは、ひまりの手をそっと握った。
「でもね、ひまりちゃん」
「なに?」
「怒ってる時も、痛かったら痛いって言っていいんだよ」
ひまりは首をかしげた。
「怒ってる時も?」
「うん。怒ってると、強くなったみたいに感じるけど」
小春ちゃんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「痛いのがなくなるわけじゃないから」
その言葉の意味を、ひまりはその時まだ、全部は分からなかった。
ただ、小春ちゃんの手が少し冷たいことだけを覚えていた。
ひまりが小春ちゃんの秘密を知ったのは、雨上がりの夕方だった。
いつもの帰り道。
小春ちゃんは、少し先を歩いていた。
ランドセルの横で、赤いリボンのキーホルダーが揺れていた。
「小春ちゃん、今日も一緒に帰ろ!」
ひまりが手を振ると、小春ちゃんは振り返った。
でも、その顔はいつもと違っていた。
「ひまりちゃん、今日は先に帰って」
「え?」
「ちょっと、用事があるから」
「じゃあ待ってる」
「だめ」
小春ちゃんの声が、初めて少し強くなった。
ひまりはびくっとした。
小春ちゃんはすぐに表情をやわらげる。
「ごめんね。びっくりさせちゃったね」
「小春ちゃん……?」
「ほんとに、今日はだめなの」
小春ちゃんは、ひまりの目を見て言った。
「お願い。先に帰って」
その声はやさしかった。
でも、やさしいからこそ、何かを隠しているように聞こえた。
小春ちゃんは、校舎裏の方へ走っていった。
ひまりは迷った。
だめって言われた。
でも、小春ちゃんの声がいつもと違った。
胸が、ぎゅっとした。
ひまりは、こっそり後を追った。
校舎裏には、水たまりがいくつも残っていた。
夕焼けが水面に映って、赤く光っている。
そこで、ひまりは見た。
小春ちゃんが、赤いリボンをまとって立っているところを。
白い衣装に、赤いリボン。
胸元には、夕焼けみたいな光。
足元には、赤いリボンが何本も広がっていた。
そして、小春ちゃんの肩には、赤橙色の星形しっぽを持つ小さな星兎族がいた。
「ピリカ、左!」
「うん! 小春、そのまま校舎から離して!」
ピリカが叫ぶ。
小春ちゃんは赤いリボンを地面に走らせた。
「レッド・リボン・ライン!」
赤い光が、校舎と黒い影の間に線を引く。
黒い影が、その線に触れた瞬間、じゅっと音を立てて後ろへ下がった。
それはノイズに似ていた。
でも、違った。
もっと黒い。
もっと飢えている。
影の中心には、裂けた口のようなものがあった。
その口が、赤いリボンを見て笑った。
「赤い願い」
声がした。
甘くて、ざらざらしていて、聞いているだけで喉が痛くなる声。
「怒りのリボンは、よく燃える」
小春ちゃんは震えていた。
でも、逃げなかった。
「あなたには、誰のリボンも食べさせない」
小春ちゃんの赤いリボンが、黒い影の口に巻きつく。
一本。
二本。
三本。
影の口が、ぎりぎりと閉じていく。
「小春、いける!」
ピリカが叫ぶ。
小春ちゃんは息を切らしながら、リボンを強く引いた。
「これ以上、近づかせない……!」
ひまりは、校舎の角に隠れたまま、息を止めていた。
小春ちゃんが、知らない顔をしていた。
いつものやさしい小春ちゃんじゃない。
でも、怖い小春ちゃんでもない。
誰かを守るために、必死で立っている小春ちゃんだった。
すごい。
そう思った。
怖いのに、目が離せなかった。
小春ちゃんの赤いリボンは、ただ怒っている色じゃなかった。
校舎にいる誰かを守るための線。
これ以上、傷つけないでと伝えるための光。
ひまりが知っている小春ちゃんのやさしさが、そのまま赤になったみたいだった。
黒い影が、リボンに縛られたまま地面に沈んでいく。
口が閉じられ、甘い声が小さくなる。
「赤い願い……熱い……」
小春ちゃんは、もう一度リボンを引いた。
「ピリカ!」
「うん!」
ピリカの星形しっぽが光る。
赤い星の糸が小春ちゃんのリボンに絡まり、黒い影を地面へ押し込んでいく。
勝ったのかもしれない。
小春ちゃんが、勝てるのかもしれない。
そう思った、その時。
小春ちゃんの膝が、少しだけ揺れた。
「小春ちゃん……!」
ひまりは、思わず声を出していた。
小春ちゃんが振り返る。
「ひまりちゃん……?」
その顔が、真っ青になった。
ピリカが叫ぶ。
「小春、後ろ!」
沈んでいたはずの黒い影が、ぱっと跳ねた。
「見つけた」
閉じられていた口が、裂けるように開いた。
「あっちにも、小さな赤がある」
黒い影は、小春ちゃんではなく、ひまりへ向かって伸びた。
「まだ結ばれてないけど……おいしそう」
ひまりの足が動かなくなった。
逃げなきゃ。
そう思ったのに、体が動かなかった。
「ひまりちゃん!」
小春ちゃんは、自分の胸元を守っていた赤いリボンをほどいた。
そのリボンを、ひまりの前へ投げる。
守るための線。
近づかせないための境界線。
赤いリボンが、ひまりと黒い影の間に張られた。
黒い影は、そのリボンに噛みつく。
その瞬間。
小春ちゃん自身の胸元のリボンが、薄くなった。
「小春、だめ!」
ピリカの声が裂ける。
黒い影が笑った。
「守る方を選んだんだ」
影の口が、小春ちゃんの赤いリボンに食いついた。
ぶつり。
嫌な音がした。
小春ちゃんのリボンが、ちぎれた。
「っ……!」
「小春ちゃん!」
小春ちゃんが膝をつく。
その足元から、赤色がゆっくり広がっていった。
血のようにも、ほどけたリボンの色のようにも見えた。
夕焼けをこぼしたみたいな赤が、地面の上で静かに大きくなっていく。
ひまりは、動けなかった。
わたしが、呼んだから。
わたしが、出てきたから。
小春ちゃんが、振り返ったから。
小春ちゃんが、わたしを守ったから。
「小春ちゃん、やだ」
ひまりの声は、かすれていた。
「やだよ、立って。ねえ、立ってよ」
小春ちゃんは、ひまりの方を見た。
いつものように笑おうとした。
でも、途中で止まった。
笑えなかった。
その顔を見た瞬間、ひまりの胸が壊れそうになった。
「大丈夫って、言わないで」
ひまりは震えながら言った。
「今は、言わないで」
小春ちゃんの目が揺れた。
そして、小さく頷いた。
「……痛い」
初めて聞いた気がした。
小春ちゃんの、痛いという声。
「痛いよ、ひまりちゃん」
ひまりの目から、涙が落ちた。
「うん」
ひまりは何度も頷いた。
「うん、痛いよね。痛かったよね」
黒い影が、小春ちゃんの赤いリボンへさらに絡みつく。
ピリカが泣きそうな声で叫んだ。
「やめて! 小春のリボンを食べないで!」
食べないで。
その言葉で、ひまりはようやく理解した。
この影は、小春ちゃんを傷つけているだけじゃない。
小春ちゃんのリボンを。
小春ちゃんの願いを。
小春ちゃんが大事にしていたものを。
食べようとしている。
「誰か」
ひまりは震えながら呟いた。
「誰か、止めてよ」
でも、誰も来なかった。
先生も。
友達も。
大人も。
誰も。
ひまりの足元にも、赤い色が近づいてくる。
怖い。
怖いのに、胸の奥が熱かった。
泣きたい。
でも、泣いたら、もっと何もできなくなる気がした。
「小春ちゃんを」
ひまりは震える手を伸ばした。
「痛くしないで」
その瞬間、黒い影がまたひまりへ伸びた。
小春ちゃんが、最後の力で赤いリボンを投げた。
「ひまりちゃん!」
世界が、赤く光った。
次に目を開けると、ひまりは夕焼けの水面の上に立っていた。
空も地面も、赤と金色が混ざっていた。
風はないのに、どこかでリボンが揺れている。
夢みたいな場所だった。
現実ではない。
でも、嘘でもない。
目の前に、小春ちゃんがいた。
赤いリボンは、ほどけかけていた。
ピリカもそこにいた。
小さな体を震わせて、小春ちゃんのそばにいる。
「小春ちゃん!」
ひまりは走ろうとした。
でも、水面はやわらかく揺れて、思うように進めなかった。
小春ちゃんは、少し困ったように笑った。
その笑顔は、いつものようにひまりを安心させようとしているのに、今にも消えてしまいそうだった。
「ひまりちゃん」
「やだよ」
ひまりの目から涙が落ちた。
「わたし、こんなのやだ」
小春ちゃんは頷いた。
「うん」
「小春ちゃんが持っててよ」
「うん」
「わたし、こんなのいらない」
「うん。いらないって言っていいよ」
小春ちゃんは、ほどけかけた赤いリボンを両手で持った。
「でも、ひまりちゃんなら、痛いって言えない子を見つけられるから」
「やだよ」
ひまりは首を振った。
「小春ちゃんも一緒に見つければいいじゃん」
小春ちゃんは、少しだけ目を伏せた。
「わたしね」
声は、とても小さかった。
「痛いって言うの、あんまり上手じゃなかったの」
ひまりは泣きながら、小春ちゃんを見た。
「笑う方が、簡単だったから」
「じゃあ練習すればいいじゃん!」
ひまりは叫んだ。
「わたし、一緒に練習するよ! 小春ちゃんが痛いって言えるまで、隣にいるよ!」
小春ちゃんの目が揺れた。
それは、初めて見る表情だった。
笑っていない小春ちゃん。
泣きそうな小春ちゃん。
「ありがとう」
小春ちゃんは言った。
「ひまりちゃんは、そういうことをまっすぐ言える子だね」
そして、小春ちゃんは赤いリボンを持ち上げた。
ほどけかけたそのリボンは、夕焼けの中で、まだあたたかく光っていた。
「ひまりちゃん」
「なに?」
「これから、ちょっとだけ大事な話をするね」
ひまりは首を振った。
「やだ。大事な話って、さよならみたいでやだ」
小春ちゃんは、泣きそうに笑った。
「うん。そうだね」
その言葉で、ひまりの涙がもっとこぼれた。
小春ちゃんは、ひまりの前にしゃがむようにして、赤いリボンをそっと差し出した。
「怒るためだけに使わなくていいよ」
小春ちゃんの声が、水面にやさしく広がる。
「誰かを痛くするためじゃなくて」
赤いリボンが、ひまりの手首に近づく。
「もう痛くしないでって、線を引くために使って」
ひまりは、リボンを見つめた。
欲しくなかった。
こんなもの、欲しくなかった。
だって、これを受け取ったら。
小春ちゃんが、本当に遠くへ行ってしまう気がした。
「でもね、ひまりちゃん」
小春ちゃんは、ひまりの手をそっと包んだ。
「泣きたい時は、泣いていいからね」
ひまりは声にならない声で泣いた。
小春ちゃんの手は、あたたかかった。
でも、そのあたたかさは、少しずつ薄くなっていた。
ピリカが小春ちゃんのそばで、必死に首を振る。
「小春、だめ。まだ、まだ結び直せるかもしれない」
小春ちゃんは、ピリカを見た。
「ピリカ」
「やだ」
「お願い」
「やだよ、小春」
ピリカの目から、星みたいな涙が落ちた。
小春ちゃんは、やわらかく笑った。
「ひまりちゃんを、ひとりにしないで」
ピリカは震えた。
「小春……っ」
「わたしの代わりじゃなくていいの」
小春ちゃんは、ゆっくり言った。
「ひまりちゃんのそばにいてあげて」
ピリカは、何度も何度も頷いた。
「うん」
声は泣いていた。
「うん、いる。絶対いる」
小春ちゃんは、ひまりの手首に赤いリボンを結び始めた。
強すぎず。
弱すぎず。
昔、折り紙で教えてくれたみたいに。
「小春ちゃん」
ひまりは泣きながら呼んだ。
「わたし、ちゃんとできるか分かんないよ」
「うん」
「怒りすぎちゃうかもしれない」
「うん」
「泣いたら、立てないかもしれない」
「うん」
小春ちゃんは、全部受け止めるように頷いた。
「それでもいいよ」
赤いリボンが、ひまりの手首に結ばれる。
「できない時は、できないって言っていい」
「泣いたら、泣いたまま止まってもいい」
「でも、ひまりちゃんが見つけた痛い声を、なかったことにしないで」
ひまりは、赤いリボンを握った。
「小春ちゃんは?」
小春ちゃんは、少しだけ黙った。
「小春ちゃんの痛い声は、誰が見つけるの?」
その問いに、小春ちゃんはすぐに答えなかった。
水面に、赤い波紋が広がる。
やがて、小春ちゃんはひまりの額にそっと額を寄せた。
「ひまりちゃんが、見つけてくれたよ」
その声は、涙みたいにやさしかった。
「さっき、痛いって言えたから」
ひまりは息を呑んだ。
「ひまりちゃんが聞いてくれたから、わたし、言えたよ」
「じゃあ、もう一回言って」
ひまりは必死に言った。
「何回でも聞くから。痛いって言って。やだって言って。帰りたいって言って」
小春ちゃんの目から、涙が落ちた。
「帰りたい」
ひまりの胸が、ぎゅっと潰れた。
「帰りたいよ、ひまりちゃん」
その言葉は、あまりにも小さくて。
あまりにも遅くて。
それでも、確かに小春ちゃんの本当の声だった。
ひまりは泣きながら頷いた。
「うん」
「うん、帰ろう」
「わたし、一緒に帰る」
小春ちゃんは、ひまりの手を握った。
でも、その指先はもう、光みたいに透け始めていた。
「ひまりちゃん」
小春ちゃんの声が、遠くなる。
「ちゃんと見て」
「やだ」
「笑ってる子の、手を見て」
「やだよ」
「怒ってる時ほど」
小春ちゃんの姿が、夕焼けに溶けていく。
「線を、間違えないで」
ひまりは叫んだ。
「小春ちゃん!」
赤いリボンが、強く光った。
世界が、ほどけた。




