第25話 赤いリボンの魔法少女
次の日の朝。
リノは、いつもより少し早く学校に着いた。
廊下はまだ静かだった。
文化祭の余韻も、昨日の騒ぎも、全部どこかに隠れてしまったみたいに、朝の校舎は何も知らない顔をしている。
けれど、リノは知っていた。
何もなかったわけじゃない。
透明なリボンはほどけた。
サイレント・スクール・ノイズも消えた。
でも、小鳥遊ユイが傷ついたことは消えていない。
昨日、ユイは保健室で少し休んだあと、先生に話をした。
全部ではない。
言えるところだけ。
ミカが隣にいて、セナが見たことを整理して、いろはが破られた星カードを持っていた。
リノも、そこにいた。
ユイは何度も声を詰まらせた。
それでも言った。
怖かった。
やめてと言えなかった。
笑わないと、もっと言われると思った。
動画は違う。
自分はステージを壊したんじゃない。
先生は、真剣な顔で聞いていた。
今日から、学校側でも話を聞くことになっている。
それはきっと、必要なことだ。
でも。
それで全部がすぐに元通りになるわけではない。
「リノちゃん」
昇降口の近くで、ミカが手を振った。
隣にはセナといろはもいる。
その少し後ろに、ユイが立っていた。
顔色はよくない。
制服の袖をぎゅっと握っている。
「おはよう」
リノが声をかけると、ユイは小さく頷いた。
「おはよう……」
その声は細かった。
ミカがそっと隣に立つ。
「無理しなくていいからね。途中でしんどくなったら、保健室行こ」
セナも頷く。
「先生には伝えてある。今日の一時間目の前に、担任の先生と話す予定」
いろはが、ユイの手元を見て言った。
「一緒に行こう」
ユイは少し迷ってから、頷いた。
「うん」
その時、鞄の中でミミルが小さく動いた。
「リノ」
「なに?」
「少し、変な気配がする」
リノの胸元が、少し熱を持つ。
昨日のノイズは消えたはず。
でも、黒い星の気配はまだ学校に残っている。
リノは廊下の奥を見る。
朝の静かな廊下。
でも、その向こうで誰かが小さく笑った気がした。
教室に近づくにつれて、声が聞こえてきた。
「え、今日呼び出されるんでしょ?」
「うちらだけ?」
「意味分かんないんだけど」
「動画上げたの、私じゃないし」
「コメントしただけじゃん」
「てか、ユイも笑ってたよね?」
リノの足が止まった。
ユイの肩が小さく震える。
ミカがユイの前に少しだけ立った。
教室の中では、数人の生徒が机の周りで話していた。
昨日、ユイを囲んでいた子たちだ。
その中のひとりが、リノたちに気づいた。
空気が止まる。
「あ……」
気まずそうな顔。
でも、すぐに別の子が口を尖らせた。
「大ごとにしすぎじゃない?」
ユイがびくっとする。
「昨日の、そんな本気で嫌だったなら、言えばよかったのに」
「そうそう。こっちは冗談のつもりだったし」
「先生に言うとか、こっちが悪者みたいじゃん」
リノの胸が熱くなる。
怒り。
それは、昨日よりもはっきりした形で胸の中にあった。
でも、リノはすぐに言葉にできなかった。
怒っていいのか、分からなかった。
怒ったら、黒に近づくのだろうか。
誰かを責めたい気持ちは、悪い子の気持ちなのだろうか。
その時だった。
教室の奥で、黒い気配が膨らんだ。
昨日の透明なリボンとは違う。
今度は、黒い紙の束みたいなものが机の上から湧き上がる。
付箋。
コメント。
言い訳。
消された投稿。
開きっぱなしのスマホ画面。
それらがぐるぐると渦を巻き、人の形を作っていく。
「私だけじゃない」
「冗談だった」
「悪気はなかった」
「みんなもやってた」
「謝ったら終わりでしょ」
「こっちだって傷ついた」
「責められるのは嫌」
黒い紙の体に、いくつもの口が浮かぶ。
エクスキューズ・ノイズ。
言い訳のノイズだった。
教室の中にいた生徒たちが、悲鳴を上げる。
リノはステッキを握ろうとした。
その瞬間。
「待って!」
廊下の向こうから、明るいけれど少し震えた声が飛んできた。
ぱたぱたぱた、と軽い足音が近づいてくる。
リノが振り返ると、廊下の先から小さな女の子が走ってきていた。
リノたちよりずっと背が低い。
肩にはランドセルのひもが片方だけかかっていて、胸元では赤い防犯ブザーが揺れている。
その肩の上には、赤橙色の星形しっぽをした小さな星兎族が、必死にしがみついていた。
「ひまり、勝手に中学校入っちゃだめって言ったよね!?」
「だって、ノイズいたんだもん!」
「いたけど! いたけどさあ!」
女の子は息を切らしながら、教室の入口でぴたりと止まった。
次の瞬間、赤いリボンが夕焼けみたいに床を走る。
炎みたいに揺れて、けれど火ではない。
熱を持った布のようなリボンが、教室の入口で一本の線を引いた。
女の子は、少し頬をふくらませながら、でもまっすぐ教室の中を見た。
「それ、冗談って言ってるけどさ……」
声は少し高めで、明るい。
けれど、最後だけ少し落ち着いた。
「言われた子、ちゃんと痛かったと思う」
教室の空気が凍った。
女の子は、ユイの方をちらりと見る。
それからもう一度、ノイズの方を向いた。
「泣いちゃうくらいだったなら、もう冗談じゃないよ」
ミミルが鞄の中で息を呑む。
「赤いリボン……」
リノは小声で聞き返した。
「赤い、リボン?」
女の子はリノを見ると、ぱっと表情を変えた。
「あ、あなたがリノ?」
「え……? うん」
「灰色の子って聞いた」
「灰色の子……」
女の子はリノをじっと見つめる。
それから、少し首をかしげた。
「なんか、やさしそう」
「え?」
「でも、怒るのは苦手そう」
リノは思わず固まった。
「えっ」
肩の上の星兎族が、ぴょんと女の子の頭に乗った。
「ひまり、初対面でそれ言う?」
「だって、そう見えたんだもん」
「思ったことすぐ言わない!」
「えー、でも悪口じゃないよ?」
「悪口じゃなくても、びっくりするでしょ!」
星兎族は、ひまりの肩へ戻って胸を張った。
白い体。
耳の先と星形のしっぽだけが、赤橙色に淡く光っている。
首には、小さな赤いリボン。
ミミルが鞄から顔を出し、目を丸くした。
「ピリカ……!」
「ミミル! 久しぶり!」
ピリカは嬉しそうに前足を振った。
けれど、すぐにリノを見て、それからミミルをじっと見る。
「……もしかして、魔法少女には担当星兎がいるってことも、まだ説明してない?」
ミミルの耳が、ぺたりと伏せた。
「……ごめん」
リノはミミルを見る。
「また?」
「本当に、ごめん」
ピリカは小さくため息をついた。
「ミミル、そういうとこだよ」
ミミルは何も言い返せず、さらに耳を下げた。
ピリカはひまりの肩の上で説明する。
「魔法少女には、それぞれ案内役の星兎がつくの。契約とか、ノイズの気配とか、リボンの状態とかを見る役目。わたしはピリカ。ひまりの担当星兎だよ」
「担当星兎……」
リノが繰り返す。
星結びの庭。
星兎族。
魔法少女。
担当星兎。
まだ知らないことが、あまりにも多い。
ひまりは、そんな空気に気づいたのか、少し慌てたように手を振った。
「あ、えっと、わたしは夕凪ひまり。星見台小学校の六年生」
そして胸元の赤いリボンを、両手でぎゅっと握る。
「赤いリボンの魔法少女、です」
最後だけ少し丁寧になったせいで、ピリカが小さく笑った。
「急に自己紹介かたくなった」
「だって、ちゃんと言った方がいいかなって」
「いいけど」
ひまりは頬を少し赤くしながら、リノたちに向き直った。
「昨日、文化祭に来てたんだ」
「文化祭に?」
ミカが聞くと、ひまりはぱっと笑った。
「うん! 地域公開の日だったでしょ? 星見台小の友だちと来たの。ステージ、すっごくキラキラしてた! リボンも星もふわふわで、見ててドキドキしたんだよね」
それから、ひまりは少しだけ表情を曇らせる。
「でも、帰る時に黒いキャンディみたいなにおいがしたの。ピリカと一緒に探してたら、今日ここに来ちゃって」
「来ちゃって、じゃないよ」
ピリカがすぐに言う。
「学校に勝手に入るの、ほんとはダメだからね」
「わかってるけど、ノイズいたもん」
「それはそうだけど!」
ひまりはノイズへ向き直る。
「ピリカ、いくよ」
「はいはい。熱くしすぎ注意ね」
「わかってるってば」
「その返事、だいたい分かってない時のやつ」
「今日は分かってるもん!」
ひまりは赤いリボンを指先に絡め、ノイズを見上げた。
「言い訳で隠したら、痛かったことまで見えなくなっちゃうよ」
赤いリボンが、ぱっと走る。
「レッド・リボン・ブレイズ!」
夕焼けみたいな赤い光が教室を照らした。
ノイズの腕が焼き切られ、黒い紙が空中でぱらぱらと散る。
リノは驚く。
強い。
でも、ただ荒いだけではない。
ひまりのリボンは、燃やしているというより、黒い言葉を照らしているようにも見えた。
ノイズが叫んだ。
「悪気はなかった!」
ひまりは少し眉を下げた。
「悪気なかったって言うの、だめじゃないよ」
ノイズの動きが、一瞬止まる。
ひまりは赤いリボンをぎゅっと握った。
「でも、それで痛かったことが消えるわけじゃないよ」
ノイズが揺れる。
「みんなやってた!」
「みんなで笑ったら、言われた子だけ逃げられないじゃん」
ひまりの声は、少し震えていた。
怒鳴っているわけではない。
でも、確かに怒っている。
その怒りは、怖いというより、あたたかい赤だった。
「それって、ずるいよ」
ひまりの赤いリボンが、床に一本の線を引いた。
「レッド・リボン・ライン!」
赤い線が、ノイズとユイたちの間に引かれる。
ひまりはその線の前に立った。
「ここから先は、止めるね」
小さな体なのに、その背中は大きく見えた。
「もう傷つけてほしくないから」
ユイは、リノの後ろで震えていた。
その目には、恐怖だけではない何かが浮かんでいる。
少しだけ、安心したような色。
ミカがそっとユイの肩に手を置いた。
「大丈夫って言わなくていいからね」
ユイは小さく頷く。
エクスキューズ・ノイズは黒い紙を増やし、赤い線を越えようとする。
「謝るからいいでしょ」
「反省してるって言えばいいでしょ」
「怒られるの嫌」
「悪者にしないで」
「こっちだって怖い」
ひまりの表情が、少しだけ険しくなる。
「怖いのは、分かるよ」
赤いリボンが熱を持つ。
「でも、怖いからって、人を怖くさせていいわけじゃないよ」
リノはひまりの背中を見た。
その言葉は、子どもらしい素直さで出てきているのに、ひどく真っ直ぐだった。
ノイズの中で、黒い紙が燃え上がる。
教室の中にいた生徒のひとりが、顔を歪めた。
「だって、私だけじゃないし……」
その声に、ノイズが反応して膨らむ。
ひまりはすぐに赤いリボンを伸ばした。
「それ、ちょっとズルい」
ひまりの声が震える。
「みんなでやったって言ったら、痛かったことが薄くなるみたいに言うの、ズルいよ」
赤い光が強くなる。
ピリカが慌てて叫んだ。
「ひまり、熱い!」
「分かってる!」
「分かってない! 今、ばしゅーってなりかけてる!」
「ばしゅーってなってない!」
「なってる!」
赤いリボンが、ノイズだけでなく教室の机にまで届きそうになる。
リノは慌てて前に出た。
「ひまり!」
ひまりは振り返る。
目が少し潤んでいた。
「なんで止めるの?」
「止めるのは必要。でも」
「でも?」
「怒っていい。でも、怒りだけで全部燃やしたら、何が起きたかも、どう向き合うかも、残らなくなる」
ひまりは唇を噛んだ。
「でも、見てたら胸がぎゅってしたんだもん」
その言葉が、あまりにも子どもらしくて、リノの胸が痛んだ。
「ユイが怖いって言ったのに、まだ言い訳してるの、すごくやだった」
「うん」
「わたし、こういうの嫌い」
「うん」
「だって、ひどいもん」
ひまりの赤いリボンが震える。
その赤は、怒りだけではない。
痛みに気づいてしまった心の色だった。
ノイズがその隙を狙って叫ぶ。
「ほら」
「怒りすぎ」
「こっちが傷ついた」
「責められてつらい」
「もう謝るって言ってるのに」
黒い紙が、ひまりの赤いリボンに絡みつく。
ひまりの顔が歪む。
「う……」
赤い光が、さらに強くなる。
ピリカが叫ぶ。
「ひまり、燃やしすぎ!」
ミミルも焦った声を出す。
「リノ、赤が強くなりすぎてる!」
「どういうこと?」
「怒りに飲まれると、赤は守る線じゃなくて、焼き尽くす炎になる」
リノはひまりを見る。
ひまりは小さな手でリボンを握りしめていた。
怒っている。
でも、それだけではない。
泣きそうだった。
「ひまり」
「怒ってると」
ひまりが小さく言った。
「ちゃんと立ってられるんだよね」
リノは息を止めた。
ひまりは俯いたまま続ける。
「泣いちゃったら、止められない気がするから」
赤いリボンが震える。
「だから、わたしの赤は……たぶん、泣かないための色でもあるんだと思う」
その言葉に、リノの胸が痛んだ。
ひまりは、怒りたいだけじゃない。
怒ることで、自分の悲しさを支えている。
赤いリボンは、怒りの色。
でも、その奥にあるのは、守りたいという気持ちだ。
リノはステッキを握り直した。
「ひまりの怒りは、間違ってない」
ひまりが顔を上げる。
「え?」
「私も怒ってる」
リノは自分の胸元に触れた。
黒い染み。
灰色の糸。
そこに、ほんの少しだけ赤い光が映っている気がした。
「昨日のことも、今の言葉も、ひどいって思ってる」
ひまりの目が揺れる。
「じゃあ」
「でも、怒りを誰かを傷つけるためだけに使いたくない」
リノはノイズへ向き直る。
「止めるために使いたい」
ひまりは黙ってリノを見る。
リノは言った。
「一緒に、線を引いて」
「線?」
「ここから先はだめって、ちゃんと分かる線」
ひまりは赤いリボンを見た。
それから、小さく頷いた。
「うん」
そして、少しだけ笑った。
「リノ、怒るの苦手だけど、言葉はふわふわであったかいね」
「ふわふわ?」
「うん。なんか、毛布みたい」
ピリカが肩の上でつぶやく。
「こんな時に例えがふわふわ」
「いいじゃん」
ひまりは赤いリボンを床へ伸ばす。
リノも灰色のリボンを重ねた。
赤と灰色のリボンが、教室の床に一本の境界線を作る。
燃えすぎず。
薄れすぎず。
そこにあるのは、やさしさだけではない。
怒りだけでもない。
これ以上、誰かを傷つけないための線。
ひまりが言った。
「ここから先は、冗談じゃ済まないよ」
リノが続ける。
「でも、悪者にして捨てるだけでも終わらせない」
ノイズが暴れる。
「私だけじゃない!」
「みんなもやってた!」
「責められるのが怖い!」
「認めたら、終わりじゃん!」
「怖かったことと」
リノは言った。
「傷つけたことは、別に考えないといけない」
灰色のリボンが、黒い紙をほどいていく。
その奥から、別の声が出てくる。
自分が責められるのが怖い。
仲間外れにされたくなかった。
みんなが笑っていたから、止められなかった。
悪いことだと認めたくなかった。
謝ったら、自分が悪い子になる気がした。
ひまりはそれを聞いて、眉を下げた。
「怖かったんだね」
ノイズが少しだけ揺れる。
でも、ひまりは赤いリボンを握り直した。
「でもさ」
声が少し低くなる。
「それでユイの痛かったことは、なくならないよ」
ノイズが震える。
「悪い子になりたくないからって、傷つけたことを消したらだめだよ」
ひまりの声は子どもっぽい。
でも、逃げ道を塞ぐ力があった。
リノはステッキを掲げる。
「言い訳の奥にある怖さは、見る」
ひまりも赤いリボンを構えた。
「でも、ひどいことは、ひどいって言っていいんだよ」
二人のリボンが同時に走った。
「マジカル・リボン・アンミュート!」
「レッド・リボン・ライン!」
灰色のリボンが、言い訳の言葉をほどく。
赤いリボンが、逃げる言葉の前に線を引く。
エクスキューズ・ノイズの体が崩れていく。
「冗談だった」
「私だけじゃない」
「悪気はなかった」
その言葉が熱に照らされ、ほどけ、奥にある本音だけが残る。
ごめんって言うのが怖かった。
悪いって認めるのが怖かった。
でも、傷つけた。
最後に、ノイズは小さく呟いた。
「責められたくない」
リノは頷いた。
「責めるだけでは終わらせない」
ひまりが言う。
「でも、逃げるのはだめだよ」
ノイズは光になってほどけた。
教室に静けさが戻る。
赤い線は、床の上に淡く残っていた。
それはもう、燃える炎ではなかった。
ここから先は、だめ。
そう示すための、境界線だった。
加害側の生徒たちは、誰もすぐには何も言えなかった。
先生が教室に入ってくる。
セナがすぐに前へ出た。
「先生。昨日の件について、追加で話したいことがあります」
先生は頷く。
「分かった。ひとりずつ話を聞こう」
セナは続ける。
「動画とコメントの記録、付箋、破られたカードは保存しています」
ミカがユイを見る。
「一緒に行こう」
ユイは小さく頷いた。
でも、足はまだ震えている。
いろはが反対側に立つ。
「怖いなら、ゆっくりでいいよ」
ユイは涙をこらえながら言った。
「怒ってくれる人がいるって」
その声は、本当に小さかった。
「少しだけ、安心する」
ひまりがぴくっと動いた。
リノはひまりを見る。
ひまりは目を丸くして、それからぱっと顔を赤くした。
「え、えへへ……そっか」
すぐに照れ隠しのように赤いリボンを触る。
「よ、よかった。ちょっとドキドキしてたんだよね」
ピリカが肩の上でにやっと笑った。
「ひまり、照れてる」
「照れてないし!」
「今のは照れてる」
「ピリカ、しー!」
ミカが小さく笑った。
「ありがとう、ひまり」
「えへへ……どういたしまして、でいいのかな」
ひまりは少し困ったように笑った。
「でも、ユイがちょっとでも安心したなら、うれしい」
その言い方が素直で、リノの胸が少し温かくなった。
けれど、ミミルはまだ真面目な顔をしていた。
リノはミミルを見る。
「ミミル」
「うん」
「あとで、ちゃんと説明して」
ミミルは耳を伏せたまま頷いた。
「する。今度は、隠さない」
ピリカが小さく手を上げる。
「わたしも説明する。ミミルだけだと、また半分くらい隠しそうだから」
「隠さないよ!」
「ほんと?」
「……たぶん」
「ほら!」
少しだけ、空気が緩んだ。
放課後。
リノたちは校舎裏の静かな場所に集まっていた。
ユイは先生と保健室の先生に付き添われて、今日は早めに帰ることになった。
明日以降のことは、先生たちとも相談して決める。
すぐに全部が解決するわけではない。
でも、ユイはもうひとりではなかった。
ひまりはフェンスにもたれ、赤いリボンを指に巻きつけていた。
ピリカはその肩の上で、耳を揺らしている。
朝より少し落ち着いたひまりは、改めて見ると本当に小学生らしかった。
ランドセルの肩ひも。
少し大きめの靴。
赤い防犯ブザー。
ピリカとじゃれ合って、すぐに笑う顔。
その全部が、リノの胸に引っかかった。
「ひまりは、小学生?」
リノが尋ねると、ひまりはぱっと顔を上げた。
「うん、六年生!」
少し胸を張る。
「来年、中学生なんだよ。すごいでしょ」
「うん。すごい」
「えへへ、うれしい〜」
ひまりは素直に笑った。
でも、リノはそう答えながら、胸の奥が少し冷たくなるのを感じていた。
こんなに小さい子まで、魔法少女として戦っている。
ノイズの前に立って、誰かの痛みに怒って、赤いリボンを燃やしている。
それは、すごいことだと思った。
でも同時に、少しだけ怖かった。
「ミミル」
リノは、鞄の中のミミルを見る。
「魔法少女って、年齢で選ばれるんじゃないの?」
ミミルの耳が、ぴくりと動いた。
「……違う」
その声は、いつもより少し低かった。
「心の声が、星の裏側に届きやすい子が選ばれる。ノイズに近い声を聞ける子。誰かの痛みに、気づきすぎてしまう子」
「それって」
リノは、ひまりを見る。
ひまりはピリカに何か言われて、「えー! まじで!?」と大きな声を上げている。
その笑顔は、普通の小学六年生そのものだった。
「小学生でも?」
ミミルは、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
リノの指先が、胸元のリボンを握る。
「そんなの……」
言葉が続かなかった。
ひまりが強いことは分かる。
赤いリボンが、誰かを守るための色だということも分かる。
でも。
強いから、大丈夫。
魔法が使えるから、戦っていい。
そんなふうには、思えなかった。
リノの胸元で、灰色の糸が静かに揺れた。
「魔法少女って、誰かを助けるために選ばれるんだと思ってた」
リノは小さく言った。
「でも……助けが必要な子が、選ばれてるみたい」
ミミルは何も言えなかった。
ピリカも、少しだけ黙る。
ひまりは、リノたちの空気に気づいたのか、きょとんと首をかしげた。
「なに? なんか難しい話?」
「ううん」
リノは首を横に振った。
そして、ひまりの赤いリボンを見た。
「ひまりは、すごいね」
「えへへ、そう?」
ひまりはすぐに笑った。
けれどリノは、その笑顔を見ながら思った。
すごい、だけで終わらせちゃいけない。
この子が戦えてしまう理由を。
この子が赤くならなきゃいけなかった理由を。
ちゃんと、知らなきゃいけない。
「でも、魔法少女歴はリノより長いと思う」
ひまりは少し胸を張った。
「だから、ちょっと先輩」
指で小さく丸を作る。
「ちょっとだけね」
ピリカがすかさず言う。
「けっこう先輩だよ」
「ピリカ、そういうの自分で言うとえらそうじゃん」
「わたしが言ってるからセーフ」
「セーフなの?」
ミカが笑う。
「ひまりちゃん、かわいい」
ひまりは赤くなる。
「かわいいって言わないでよ〜。先輩っぽくなくなるじゃん」
「でもかわいいよ」
「えー! まじで!? うれしいけど、ちょっと困る!」
ひまりは両手で頬を押さえた。
いろはが笑う。
「赤いリボンもすごく似合ってる」
「ほんと?」
「うん。夕焼けみたいできれい」
「えへへ……ピリカ、聞いた?」
「聞いた聞いた。よかったね」
「やったー」
その明るさに、リノは少し驚いていた。
戦っている時のひまりとは違う。
でも、きっとこっちも本当のひまりなのだ。
元気で、素直で、褒められるとすぐ嬉しそうになる。
だけど、人が傷つく場面では、すぐに赤いリボンが熱を持つ。
ひまりは胸元の赤いリボンに触れた。
「わたしは、ひどいことが嫌い」
その声は、さっきより少し落ち着いていた。
「やめてって言えない子に、もっと言わせるのも嫌い。泣いてる子の前で、へらへらするのも嫌い」
リノは頷く。
「うん」
「だから怒る」
「うん」
「でも」
ひまりは少しだけ俯いた。
「今日、熱くしすぎそうになった」
赤いリボンが、風に揺れる。
「リノが止めなかったら、たぶん、ばしゅーってなってた」
ピリカが頷く。
「ばしゅーってなってた」
「ピリカ、そこは否定してよ」
「事実だもん」
ひまりは少しだけ唇を尖らせた。
リノは首を横に振る。
「ひまりが線を引いてくれたから、ユイちゃんは少し安心できた」
ひまりはリノを見る。
「リノは、怒るの苦手そう」
「うん」
「でも、ちゃんと怒ってた」
「そうかな」
「うん。ふわふわだったけど」
「ふわふわ……」
「でも、あったかかった」
ひまりは少し照れたように笑った。
「怒りって、怖いだけじゃないんだよ」
夕焼けの光が、ひまりの赤いリボンを照らす。
「誰かを踏みつけるために使ったら、黒くなるかもだけど」
ひまりはリノをまっすぐ見た。
「守りたいものがあるから、赤くなるんだよ」
リノの胸元の灰色の糸が、静かに光った。
そこに、ほんの少しだけ赤い光が映った気がした。
ミミルが言う。
「色付きのリボンは、善悪値だけでは測れない。心の中心にある願いが、強く結ばれた時に生まれる色なんだ」
リノはミミルを見る。
「赤は、怒り?」
「怒りを、守る力に変えた色」
ピリカが頷く。
「ひまりの赤は、誰も止めなかった痛みから生まれた。だから、ひどいことを見過ごせない」
ひまりは少しだけ黙った。
それから、少し照れたように笑う。
「まあ、むかしの話は、そのうちね」
リノは頷いた。
「うん」
ひまりの過去を、勝手にほどくことはしない。
ひまりが話したい時に、聞けばいい。
「魔法少女には、みんな担当星兎がいるの?」
リノが聞くと、ピリカが頷いた。
「うん。ひとりに一匹。基本はね」
「基本?」
セナがすぐに反応する。
ピリカは少しだけ目を泳がせた。
「えっと……例外もあるかもだけど」
ミミルが小さく咳払いをする。
「その話は、あとでちゃんと説明する」
リノはじっとミミルを見る。
「本当に?」
「本当に」
ピリカが横から言う。
「わたしが見張るから大丈夫」
ミミルは小さく肩を落とした。
ミカがピリカを見て、目を輝かせる。
「星兎族って、ミミル以外にもこんなにかわいい子がいるんだね」
「かわいい?」
ピリカが嬉しそうに耳を立てる。
ひまりがすぐに言う。
「ピリカ、調子に乗る」
「乗ってないもん」
いろはが小さく笑う。
「ピリカちゃん、赤いリボン似合うね」
「ほんと?」
「うん。ひまりちゃんとおそろいでかわいい」
「ひまり、聞いた?」
「聞こえてるよ〜」
ひまりは少しだけ顔を赤くして、でも嬉しそうに笑った。
セナが腕を組む。
「善悪値だけでは測れない魔法少女がいるなら、システムそのものの前提が揺らぐ」
ひまりはきょとんとした顔をした。
「えっと……ぜんていが、ゆらゆら?」
ピリカが小声で訂正する。
「前提が揺らぐ、ね」
「そう、それ」
ひまりはうなずいたあと、セナを見て言った。
「まじめちゃん、難しいこと言うね」
セナが少しだけ瞬きをした。
「……まじめちゃん?」
ミカが吹き出した。
「セナちゃん、新しいあだ名増えたね」
「増やさなくていい」
少しだけ空気が緩んだ。
リノはひまりを見る。
「ひまり」
「なに?」
「今日はありがとう」
ひまりは一瞬きょとんとして、それからぱっと笑った。
「うん!」
そしてすぐに照れたように視線をそらす。
「えへへ、ちゃんとお礼言われると、ちょっとドキドキするね」
「また会える?」
ひまりは少し考えた。
それから、赤いリボンを指でくるっと回す。
「リノが怒るの苦手なままなら、たぶん」
「それ、会いに来てくれるってこと?」
「見張りだよ、見張り」
「そっか」
リノは笑った。
「じゃあ、よろしく」
ひまりは少しだけ頬を赤くして、胸を張った。
「まかせて。赤いリボンの先輩だからね」
ピリカがその肩の上で笑う。
「また来るよ。ミミルがちゃんと説明してるか見に来ないと」
「ピリカ……」
ミミルは困ったように名前を呼んだ。
でも、少しだけほっとしているようにも見えた。
夕方の風が吹いた。
文化祭の飾りはもうない。
昨日の星カードも、今日は箱の中にしまわれている。
でも、学校にはまだ、見えないリボンが残っているのかもしれない。
結び直すべきもの。
ほどくべきもの。
そして、ここから先はだめだと線を引くべきもの。
リノは胸元に触れた。
黒い染み。
灰色の糸。
そして、そこに映った小さな赤い光。
怒ってもいい。
その言葉は、リノの中でまだ少し熱かった。
誰かを傷つけるためではなく。
誰かを、これ以上傷つけさせないために。
けれど、同時に思う。
怒れるほど、痛みに近い子が選ばれてしまうなら。
やさしい子ほど、ノイズの声を聞いてしまうなら。
魔法少女とは、本当に誰かを救うためだけのものなのだろうか。
赤いリボンは、夕焼けの中でやわらかく揺れていた。




