第24話 見えないリボン
文化祭が終わった学校は、少しだけ静かだった。
昨日まで廊下に貼られていたポスターは、ほとんど剥がされている。
焼きそばの匂いも、チュロスの甘い匂いも、もう残っていない。
教室の隅に置かれた段ボール箱だけが、文化祭の名残みたいに積まれていた。
星形の飾り。
余ったリボン。
保存用の願いごと星カード。
ステージ衣装の小物。
昨日まできらきらしていたものが、今は箱の中で眠っている。
「なんか、普通に戻っちゃったね」
ミカが机に頬杖をつきながら言った。
リノは窓辺の席から教室を見回す。
机はいつもの位置。
黒板には授業の予定。
廊下から聞こえるのは、呼び込みではなく、普通の足音と話し声。
「うん」
リノは小さく頷いた。
「でも、昨日の写真見たらすごいよ」
ミカはスマホを取り出し、文化祭の写真を見せてくる。
星とリボンの写真スポット。
ステージ上で笑ういろは。
マイクを握るミカ。
予定表を持つセナ。
リボンを結び直しているリノ。
そして、鞄の口からほんの少しだけ白いリボンが見えている写真。
「これ、ミミル写ってない?」
ミカが小声で言う。
リノは慌てて画面を覗き込んだ。
「ほんとだ……」
鞄の中から、ミミルが小さく抗議する。
「ぼく、ちゃんと隠れてたよ」
「リボンだけ見えてる」
「文化祭仕様だったから」
リノは思わず笑ってしまった。
ミカも笑う。
文化祭は終わった。
でも、全部がなくなったわけじゃない。
昨日、そう思えたばかりだった。
その時、廊下の方から小さな笑い声が聞こえた。
「ねえ、あの動画見た?」
「見た見た。やばくない?」
「ステージ止めたの、あの子だったって本当?」
リノの手が止まる。
笑い声は、楽しそうなのに、どこか冷たかった。
ミカも少しだけ表情を変えた。
「動画?」
リノは廊下を見る。
数人の生徒がスマホを覗き込みながら歩いている。
その中心に映っていたのは、文化祭のアイドルステージの動画だった。
音源が止まった瞬間。
ステージ上のみんなが一瞬だけ固まった場面。
その少し後ろで、機材の近くにいた女子生徒が映っている。
小鳥遊ユイ。
隣のクラスの子だった。
文化祭の時、リノは何度か見かけていた。
おとなしくて、あまり目立たないけれど、裏方としてよく動いていた子。
昨日の音源トラブルの時も、たしか機材のそばで先生を呼びに行っていた。
でも、動画はそこだけを切り取っていた。
まるでユイが機材を触って、音を止めたように見える部分だけを。
画面の下には、いくつものコメントが流れていた。
ステージクラッシャー。
空気読めなすぎ。
目立ちたかったの?
謝罪まだ?
裏方なのに何してんの。
いない方がよかった。
リノの胸が、冷たくなる。
「これ……」
ミカの声も低くなった。
「違うよね。あの子、直そうとしてたよね」
「うん」
リノは頷いた。
なのに、画面の中では違う物語になっている。
誰かの悪意で、切り取られている。
昼休み。
リノは廊下でユイを見かけた。
ユイは数人の女子に囲まれていた。
同じクラスの子たちらしい。
「ユイってさ、昨日すごかったよね」
「一瞬で全員止めたもんね」
「逆に才能じゃない?」
笑い声。
明るい声。
けれど、ユイの手は震えていた。
「私、止めたわけじゃ……」
「えー、怒った?」
「冗談だよ、冗談」
「そんな真面目に受け取らないでよ」
ユイは小さく笑った。
「ううん。大丈夫」
大丈夫。
その言葉に、リノの胸元のリボンが微かに熱を持った。
ミカが隣で息を呑む。
リノには分かる。
ミカにも、きっと分かる。
笑っているから平気、ではない。
大丈夫と言ったから、大丈夫なわけではない。
リノは一歩踏み出そうとした。
でも、足が止まった。
今、入っていいのだろうか。
ユイ本人が大丈夫と言った。
周りの子たちは、冗談だと言った。
ここでリノが何か言ったら、ユイがもっと困るかもしれない。
ただの勘違いだったら。
自分が余計なことをしたら。
「リノちゃん」
ミカが小声で言った。
「気になるよね」
「うん」
リノは唇を噛む。
「でも、どう声をかけたらいいか分からない」
ミカは少しだけ黙った。
そして言った。
「私、あの笑い方、ちょっと分かる」
リノはミカを見る。
「大丈夫って言うしかない時の顔」
ミカの声は、静かだった。
「平気じゃないのに、平気そうにしないと、その場がもっと怖くなる時の顔」
リノの胸が痛む。
その時、ユイたちの前を先生が通りかかった。
「何してるんだ?」
先生が声をかけると、周りの子たちはすぐに笑顔になった。
「話してただけです」
「文化祭の動画見てました」
「ね、ユイちゃん?」
ユイは一瞬だけ固まり、それから頷いた。
「はい。大丈夫です」
先生は少しだけ様子を見てから、廊下の先へ歩いていった。
先生がいなくなると、笑い声がまた小さく戻る。
「ほら、大丈夫だって」
「先生に言いつけるタイプじゃなくてよかった」
「ユイ、空気読めるじゃん」
リノの手が握りしめられる。
胸元のリボンが、また熱くなった。
放課後。
教室には、文化祭の反省プリントを書く時間があった。
リノたちは自分の教室でプリントを書き終えたあと、保存用の星カードを職員室へ届けるために廊下へ出た。
その途中、隣のクラスの前で、セナが足を止めた。
「白咲さん」
セナの視線の先に、ユイの机があった。
机の上には、何枚もの付箋が貼られている。
空気読めない係。
ステージクラッシャー。
主役泥棒。
謝罪まだ?
リノは息を呑んだ。
ユイはそれを見つけて、慌てて付箋を剥がしていた。
手が震えている。
「小鳥遊さん」
セナが声をかけると、ユイはびくっと肩を揺らした。
「大丈夫です」
聞かれる前に、ユイは言った。
「これ、ただの冗談なので」
その声は、細かった。
リノはゆっくり近づく。
「ユイちゃん」
ユイは顔を上げる。
目が赤い。
「私、勝手に入っていいか分からなかった。でも」
リノは付箋を見る。
「これは、冗談じゃないと思う」
ユイの唇が震えた。
「でも、私が気にしなければ」
「気にするよ」
ミカが言った。
いつもの明るさより、少しだけまっすぐな声だった。
「こんなの、気にするよ」
ユイは俯いた。
その時、窓辺に黒と赤紫の影が現れた。
メルだった。
机の上にちょこんと座り、足をぶらぶら揺らしている。
「見つけちゃった?」
リノの背筋が冷たくなる。
「メル」
メルは楽しそうに笑った。
「でもさあ、これくらいで怒るのって、どうなの?」
黒いキャンディを指先で転がす。
「冗談かもしれないよ?」
「冗談じゃない」
「本当に?」
メルは首を傾げた。
「勘違いだったら、リノちゃんが悪者になっちゃうね」
リノの胸が小さく揺れる。
メルはそこを逃さない。
「助けるって難しいねえ。本人が大丈夫って言ってるのに、いい子ちゃんが勝手に大ごとにしちゃうの?」
「……」
「もしかして、助けたい自分が気持ちいいだけだったりして」
リノの手が震えた。
セナが一歩前に出る。
「大ごとにするかどうかは、起きていることを確認してから判断する」
メルがセナを見る。
「まじめちゃんは、ほんと記録好きだね」
「記録は必要」
セナは机の付箋に視線を落とした。
「なかったことにしないために」
メルは少しだけつまらなそうに唇を尖らせた。
そして、ユイの机の中へ黒いキャンディを落とす。
「じゃあ、見てみれば?」
その瞬間、机の中からばさりと何かが落ちた。
破られたノート。
折られたプリント。
そして、半分に裂かれた星形カード。
文化祭の願いごと星カードだった。
ユイが、それを見た瞬間、息を止めた。
リノはカードを拾い上げる。
破れた文字を合わせる。
そこには、丸い字でこう書かれていた。
友達と普通に話せますように。
ユイの目から、涙がこぼれた。
「普通に」
小さな声だった。
「普通に話したかっただけなのに」
教室の空気が、音を失った。
次の瞬間、透明なリボンが教室中に張り巡らされた。
机の脚から。
黒板の端から。
窓枠から。
スマホの画面から。
見えないはずの糸が、光の角度でかすかに浮かび上がる。
それはユイの口元へ絡みついた。
「……っ」
ユイが何か言おうとする。
でも、声が出ない。
黒板に白い文字が流れ始めた。
聞こえなかった。
そんなつもりじゃない。
冗談じゃん。
みんな言ってる。
あの子も悪い。
本人も笑ってた。
いじめじゃないよ。
ただ、仲良くないだけ。
机が勝手に動き出し、ユイを囲むように並んでいく。
スマホ画面が黒く光り、コメントが雪崩のように流れる。
既読。
未読。
拡散。
スクショ。
削除済み。
でも、もう消えない。
ミミルが鞄の中で叫んだ。
「サイレント・スクール・ノイズ!」
教室だけではない。
廊下まで、透明なリボンが広がっている。
見えない糸が、学校全体を静かに縛っていく。
メルは窓辺で嬉しそうに拍手した。
「すごいすごい。みんな、ちょっとずつ悪い子」
リノはブローチを握った。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
光が教室に広がる。
でも、サイレント・スクール・ノイズは音を吸い込むように揺れた。
リノの変身の光さえ、透明なリボンに絡め取られていく。
ルル先輩が廊下から駆けつけた。
「リノちゃん!」
その隣にはノアもいた。
「面倒なことになってる」
ノアは黒いリボンを構える。
「やった奴らを縛れば早い」
「待って」
リノはノアを止めた。
「それだけじゃ、また見えないところに隠れる」
「じゃあ、放っておくの?」
「放っておかない」
リノは透明なリボンに縛られたユイを見る。
「でも、ユイちゃんの声を置いていきたくない」
ルル先輩が静かに頷いた。
「助ける側が、勝手に答えを決めないで」
その言葉は、ルル自身の過去から出てきたものだった。
「本人が言いたいことを、聞いて」
リノは頷く。
サイレント・スクール・ノイズが囁く。
「大丈夫」
「平気」
「笑ってた」
「言わなかった」
「だから、傷ついてない」
「違う」
ミカが前に出た。
透明なリボンがミカの口元にも伸びる。
でも、ミカはマイクも原稿も持っていない手で、それを掴んだ。
「笑ってたから平気、じゃない」
リボンがきしむ。
「大丈夫って言ったから、大丈夫だったわけじゃない」
ミカの声は震えていた。
でも、届いていた。
ユイの目が少しだけミカを見る。
セナは落ちた付箋や破られたカードを拾い、机の上に並べていた。
「これは残す」
「セナちゃん?」
「証拠として残す。動画も、投稿された時間も、コメントも、消される前に記録する」
セナはスマホを取り出す。
「謝れば終わりじゃない。何が起きたかを、先生に伝える必要がある」
いろはも教室に入ってきた。
ユイを見て、顔を歪める。
「ひどい」
その言葉は、小さくて、でもはっきりしていた。
「かわいそうって見たいわけじゃない。でも、見なかったことにはしたくない」
いろはは破られた星カードを見つめる。
「こんなの、ひとりで隠さなくていいよ」
透明なリボンが震える。
黒板の文字が荒くなる。
冗談。
冗談。
冗談。
冗談。
メルは楽しそうに笑った。
「ひとりが悪いんじゃないよ?」
リノはメルを見る。
「みんながちょっとずつ押しただけ」
メルは黒いキャンディを指で弾く。
「ちょっと笑って、ちょっと無視して、ちょっと拡散しただけ」
透明なリボンが教室中で鳴る。
「ね? 大きな悪い子なんて、どこにもいないでしょ?」
リノはステッキを握りしめた。
胸元の黒い染みが熱い。
怒りがあった。
怖さもあった。
助けたい気持ちもあった。
でも、メルの言葉に引きずられたくなかった。
「少しずつでも」
リノは言った。
「傷は本物になる」
透明なリボンが、一瞬止まった。
「誰かひとりだけのせいにして終わらせない」
リノはユイの方へ歩く。
「でも、誰も悪くないことにも、しない」
ユイの口元に絡まったリボンが震える。
リノは手を伸ばした。
「ユイちゃん」
声が届いているか分からない。
それでも、リノは続けた。
「全部言わなくていい」
ユイの目が揺れる。
「でも、言いたい言葉は、消されなくていい」
透明なリボンの奥で、ユイの唇が震えた。
リノはステッキを掲げる。
「見えない傷は、なかったことにはならない」
リボンが光る。
「笑ってたから平気、じゃない」
透明な糸が、少しずつ見えるようになっていく。
「大丈夫って言った声の奥に、助けてがあったなら」
リノの灰色の糸が、ユイの口元へ伸びる。
「私は、そこを聞きたい」
胸元のリボンが強く光った。
「マジカル・リボン・アンミュート!」
灰色のリボンが、透明な糸を切るのではなく、そっとほどいた。
ユイの口元を縛っていたリボンがほどける。
黒板に流れていた「冗談」の文字が剥がれ落ち、その下に隠れていた言葉が現れる。
怖かった。
やめてって言えなかった。
笑わないと、もっと言われると思った。
消してほしかった。
でも、誰にも言えなかった。
普通に話したかった。
それは、ユイが言いたくないことまで勝手に暴く光ではなかった。
ユイが握りしめていた言葉だけを、通す光だった。
ユイは震える息を吸った。
「やめて」
小さな声だった。
でも、教室に響いた。
「私、やってない」
透明なリボンが大きく震える。
「ステージを止めたんじゃない。音が戻るように、先生を呼びに行っただけ」
ユイの目から涙が落ちる。
「笑ってたのは、平気だったからじゃない」
声は震えている。
でも、消えていない。
「怖かったから」
その言葉が届いた瞬間、サイレント・スクール・ノイズの体にひびが入った。
ミカが泣きそうな顔で頷く。
「聞こえたよ」
セナが静かに言う。
「今の言葉も、ちゃんと残す」
いろはがユイのそばへ一歩近づく。
「ひとりにしない」
ノアは黒いリボンで廊下へ伸びた透明な糸を押さえた。
「甘いこと言ってる間に、逃げ道を塞いどく」
リノは少しだけ笑いそうになった。
「ありがとう」
「別に」
ノアはそっぽを向く。
ルル先輩は星の結界を広げ、校舎へ広がるノイズを教室へ戻していく。
「リノちゃん、今なら」
「うん」
リノはステッキを構え直した。
サイレント・スクール・ノイズはまだ叫んでいる。
「みんな言ってた」
「私だけじゃない」
「見てただけ」
「拡散しただけ」
「笑っただけ」
「直接やってない」
「それでも」
リノは真っ直ぐに言った。
「見ていただけのリボンも、誰かを縛ることがある」
灰色の糸が、教室中へ広がる。
「笑っただけの声も、誰かの声を消すことがある」
透明なリボンが光に変わっていく。
「だから、見えないままにしない」
リノは最後の結び目へ手を伸ばした。
「マジカル・リボン・アンミュート!」
灰色の光が弾けた。
黒板の文字が消える。
スマホ画面の黒いコメントがほどける。
机を囲んでいた透明なリボンが、一本ずつ光になって消えていく。
サイレント・スクール・ノイズは最後に小さく呟いた。
「聞いて」
リノは頷いた。
「聞くよ」
ノイズは光になってほどけた。
教室に、音が戻った。
廊下の足音。
遠くの部活動の声。
窓の外の風。
そして、ユイの泣き声。
ユイはその場にしゃがみ込み、声を殺さずに泣いていた。
リノはその隣に膝をつく。
「ユイちゃん」
「ごめんなさい」
ユイは泣きながら言った。
「私、もっと早く言えばよかったのに」
「謝らなくていい」
リノは首を横に振る。
「怖かったんだよね」
ユイは何度も頷いた。
「明日」
声が震える。
「明日、教室に行くの怖い」
リノはすぐに「大丈夫」とは言わなかった。
言えなかった。
大丈夫じゃないかもしれない。
怖いままかもしれない。
でも。
「怖いままでいいと思う」
リノは言った。
「でも、ひとりで行かなくていい」
ユイが顔を上げる。
ミカがすぐに頷いた。
「一緒に保健室行こ。今はまず、ちゃんと休もう」
セナは付箋、破られた星カード、動画の画面を確認しながら言った。
「このあと、先生に話す。小鳥遊さんが話せるところだけでいい。足りないところは、私たちが見たことを伝える」
いろはも言う。
「全部ひとりで説明しなくていいよ」
ルル先輩は優しく続けた。
「焦らなくていい。言えるところからでいい」
ノアは廊下側の扉にもたれたまま、低く言った。
「逃げたら捕まえる」
「ノア」
リノが少し驚くと、ノアは面倒そうに目をそらした。
「加害側の話」
ミカが小さく笑いそうになって、でもすぐに真剣な顔に戻った。
メルは窓辺に座っていた。
さっきまでの楽しそうな笑顔は、少しだけ薄くなっている。
「なーんだ」
メルはつまらなそうに言った。
「思ったより面倒なことするんだね」
リノは立ち上がり、メルを見る。
「面倒でも、必要だから」
「助けるって、浄化して終わりじゃないんだ」
メルは黒いキャンディを指で転がす。
「じゃあ次は、助けたあとに困るものをあげる」
リノの胸元のリボンが熱を持つ。
メルはにこっと笑った。
「またね、いい子ちゃん」
黒い扉が開き、メルの姿を飲み込んだ。
教室には、破れた星カードが残っていた。
友達と普通に話せますように。
リノはそれを見つめる。
普通に話す。
それは、簡単な願いに見える。
でも、ユイにとっては、ずっと届かなかった願いだった。
ユイはまだ泣いていた。
けれど、その声はもう、透明なリボンに縛られていなかった。
「怖い」
そう言えた声は、弱くなんかなかった。
リノは、その声の隣に立つことにした。
明日の教室まで、一緒に行くために。




