第21話 リボンを結び直す日
黒い門が閉じた次の日、町は何事もなかったみたいに朝を迎えた。
駅前の時計は、ちゃんと前へ進んでいる。
商店街の看板に、黒い文字は浮かんでいない。
公園の遊具も、鳥かごみたいな形には見えなかった。
空は少しだけ薄曇りで、いつもの朝より静かだった。
けれど、リノには分かっている。
全部が元通りになったわけではない。
黒い星は、まだ空のどこかにある。
見えないだけで、消えたわけじゃない。
リノは通学路を歩きながら、胸元をそっと押さえた。
制服の下に隠したブローチ。
その奥にあるリボンには、黒い染みが残っている。
灰色の糸が、それを縫い止めている。
昨日、星の裏側で見た景色を思い出す。
黒い夜空。
星の代わりに浮かんでいた割れた鏡。
どこにも行かない駅のホーム。
鳥かごの中のステージ。
そして、遠くに見えた白い庭。
星結びの庭。
ミミルの故郷。
リノは鞄の中をちらりと見た。
ミミルは、珍しく静かだった。
いつもなら「リノ、遅刻するよ」とか「今日はパンの匂いがする」とか、何かしら小声で話しかけてくる。
でも今朝は、ずっと黙っている。
「ミミル」
リノが小さく呼ぶと、鞄の中で白い耳がぴくりと動いた。
「……うん」
「眠い?」
「ちょっと」
ミミルはそれだけ言って、また黙った。
リノはそれ以上聞かなかった。
聞きたいことはたくさんある。
星兎族のこと。
星結びの庭のこと。
魔法少女を選ぶ役目のこと。
ノアとルル先輩を助けられなかったという言葉のこと。
でも、ミミルが今すぐ話せる状態じゃないことも分かった。
隠しているというより、言葉にするのが怖いのだと思う。
だったら、急がなくてもいい。
そう思えた自分に、リノは少しだけ驚いた。
前なら、早く知りたいと思っていた。
全部を知らないと、全部を助けられない気がしていた。
でも今は、少しだけ違う。
待つことも、たぶん一緒にいることの一つだ。
「リノちゃん!」
後ろから声がした。
振り返ると、ミカが小走りで近づいてくる。
少し息を弾ませながら、いつものように笑っていた。
「おはよう」
「おはよう、ミカちゃん」
「昨日、ちゃんと寝た?」
リノは少し考えた。
「寝た、と思う」
「その言い方、あんまり寝てないやつだ」
「ミカちゃんは?」
「私は寝たよ。途中で起きたけど」
「起きたの?」
「うん。なんか、空が気になって」
ミカは少しだけ空を見上げた。
黒い門はない。
黒い星も見えない。
でも、ミカも何かを感じているのかもしれない。
「でも、朝になったら普通で、ちょっと安心した」
「うん」
「普通って、すごいね」
ミカがぽつりと言った。
リノはその言葉に頷く。
「うん。すごい」
普通に朝が来ること。
学校へ行けること。
友達と並んで歩けること。
それは、当たり前みたいで、当たり前じゃなかった。
星の裏側から帰ってきた今は、特にそう思う。
学校に着くと、教室は文化祭前の空気でいっぱいだった。
机の上には、作りかけの飾り。
黒板には、当日までの確認事項。
窓辺には、星とリボンの飾りが並んでいる。
昨日、世界が裏返りかけたことなんて、誰も知らないみたいだった。
「おはよう、白咲さん」
セナが予定表を持って声をかけてくる。
「おはよう、セナちゃん」
「体調は?」
「大丈夫……じゃなくて、少し眠い」
リノがそう言うと、セナは少しだけ目を細めた。
「正直でよろしい」
その言い方が少し先生みたいで、ミカが笑った。
「セナちゃん、厳しい」
「明日から本番に向けて忙しくなるから。今倒れられると困る」
「それ、心配してくれてるんだよね?」
「もちろん」
セナは当然のように言った。
リノは少しだけ笑った。
心配されることに、まだ慣れていない。
でも、前より怖くはなかった。
いろはは教室の前で、看板の位置を確認していた。
「うーん、こっちかな。いや、ちょっと斜め?」
両手に星形の飾りを持って、真剣な顔をしている。
リノが近づくと、いろはは振り返った。
「あ、白咲さん。これ、どっちがかわいいと思う?」
「右かな」
「やっぱり? でも左も捨てがたくない?」
「うん。左は少し目立つ」
「だよねえ」
いろはは悩んだ末に、右側へ飾りを置いた。
「じゃあ右。左は写真スポットの方に使う」
そう言ってから、いろはは少し照れたように笑った。
「私、ちゃんと悩めてる気がする」
「悩めてる?」
「前は、悩んでる暇ないって思ってたから。全部決めて、全部完璧にしなきゃって」
いろはは飾りを見上げる。
「でも今は、どっちでもいいなって思えることもあるし、誰かに聞いてもいいなって思える」
リノは頷いた。
「それ、いいと思う」
「うん」
いろはは嬉しそうに笑った。
「明日は楽しくしたいな。主役になるためじゃなくて、楽しかったって言える日にしたい」
その言葉に、リノは少しだけ胸が温かくなった。
人は、少しずつ変われる。
一度ノイズになりかけても。
一度黒く染まりかけても。
全部がなかったことにはならないけれど、そこから結び直すことはできる。
昼休み。
リノたちは屋上へ集まった。
ミミルが話したいことがある、と朝の終わりに小さく言ったからだった。
屋上には、リノ、ミカ、セナ、ルル先輩、そしてミミルがいた。
ノアはいない。
呼んだわけではない。
でも、どこかで聞いているかもしれないと、リノはなんとなく思った。
ミミルは給水塔の影に座り、小さな手を膝の上で握っていた。
いつもよりずっと小さく見える。
「昨日、星結びの庭が見えたよね」
ミミルが言った。
リノは頷く。
「うん」
「あそこは、ぼくたち星兎族の故郷」
ミカがそっと聞く。
「星兎族って、ミミルみたいな子たち?」
「うん。星の裏側に落ちた声を、リボンで結び直す役目を持ってる」
ミミルは空を見上げた。
「本当は、星の裏側に落ちた声がノイズになる前に、ほどいて、結び直して、現実へ戻せたらよかった」
「でも、できなかった?」
セナが静かに聞く。
ミミルは小さく頷いた。
「人の心の声は、どんどん増えていった。星兎族だけでは、全部を結び直せなくなった」
リノは胸元を押さえる。
「だから、魔法少女を選ぶようになったの?」
ミミルは目を伏せた。
「うん」
屋上の風が、リノの髪を揺らす。
「心の痛みに気づける子。誰かの声を聞ける子。自分の痛みを隠してでも、誰かを助けようとする子」
ミミルの声が震える。
「そういう子を、魔法少女として選んできた」
リノは黙った。
それは、優しい選び方のようにも聞こえる。
でも、同時にとても残酷にも聞こえた。
誰かの痛みに気づける子だから。
誰かを助けようとする子だから。
だから、戦わせる。
セナが少し眉を寄せる。
「それは、選ばれた本人の意思なの?」
ミミルは答えられなかった。
その沈黙が、答えのようだった。
ルル先輩が静かに言った。
「私も、最初は嬉しかったよ。誰かを助けられるって思った」
その声は、とても静かだった。
「でも、助ける方法を間違えた」
ミミルの耳が伏せられる。
「ルル……」
「責めてるわけじゃない」
ルル先輩はミミルを見る。
「でも、私たちは誰かに選ばれて、誰かに導かれて、善悪値で見られていた。そこに苦しさがなかったとは言えない」
リノはミミルを見る。
ミミルは泣きそうな顔をしていた。
「ぼくは、ノアもルルも助けたかった」
「うん」
「でも、怖かった。黒くなっていくのを見るのが怖かった。善悪値が下がるのを見るのが怖かった。だから、止めなきゃって思った」
ミミルの声が小さくなる。
「でも、本当は、止める前に聞かなきゃいけなかった」
リノはそっとしゃがんで、ミミルと目線を合わせた。
「今は聞いてくれてるよ」
ミミルの目が揺れる。
「リノ」
「まだ隠してること、あるよね」
ミミルはびくっとした。
リノは責める声にならないよう、ゆっくり言った。
「でも、今すぐ全部言えないなら、待つ」
「……待つ?」
「うん」
リノは小さく頷いた。
「でも、ひとりで隠して苦しくなる前に、少しずつ話して」
ミミルはしばらくリノを見つめていた。
そして、泣きそうな顔で頷いた。
「うん」
ミカがそっと笑う。
「じゃあ、ミミルもひとりにしない作戦だね」
「またその作戦名?」
セナが少しだけ呆れたように言う。
「分かりやすいでしょ?」
「まあ、分かりやすい」
ミカとセナのやり取りに、ミミルが小さく笑った。
その笑い方が、少しだけいつものミミルに戻っていて、リノはほっとした。
放課後。
文化祭準備は、仕上げに入った。
教室では、飾りの配置を確認したり、衣装を並べたり、ステージの立ち位置を確認したりしている。
リノは衣装用のリボンを一つずつ点検していた。
ほどけかけているものを結び直す。
曲がっているものを整える。
きつく結びすぎているものは、少しだけゆるめる。
その作業は、魔法に少し似ていた。
ほどく。
結び直す。
きつすぎるなら、ゆるめる。
ゆるみすぎているなら、支える。
全部を真っ白にするわけじゃない。
全部を黒として切り捨てるわけでもない。
そこにある形を見て、結び直す。
「リノちゃん、これお願いしていい?」
ミカが司会用の小さなリボンを差し出した。
「うん」
「ちょっときつくて」
リノはリボンを受け取る。
確かに、結び目がきつくなりすぎていた。
「無理に引っ張ると、しわになるね」
「私みたい」
ミカがぽつりと言った。
リノは思わず顔を上げる。
ミカは少し照れたように笑った。
「前の私。笑顔をきつく結びすぎて、ほどけなくなってた」
リノはリボンを見つめる。
「でも、ほどけた」
「うん」
ミカはリノを見る。
「リノちゃんが、ほどいてくれた」
リノは少しだけ首を横に振った。
「ミカちゃんが、ほどいてもいいって思ってくれたからだよ」
ミカは一瞬きょとんとして、それから優しく笑った。
「そっか」
リノはリボンを結び直す。
きつすぎず、ほどけすぎず。
ちょうどいい形に。
「できた」
「ありがとう」
ミカはそれを受け取って、胸元に当てた。
「どう?」
「似合う」
「ほんと?」
「うん」
ミカは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、前より少し自然だった。
その時、教室の窓がかすかに揺れた。
リノは窓の外を見る。
空は夕方の色をしている。
黒い門はない。
けれど、窓ガラスの端に、一瞬だけ黒い扉の影が映った気がした。
メル。
リノは胸元を押さえる。
メルはまだ来ていない。
でも、来る。
きっと、近いうちに。
いい子をやめたら、もっと楽しいよ?
あの声が、耳の奥で蘇る。
リノは小さく息を吸った。
見てほしい気持ちは消えない。
選ばれたい気持ちも消えない。
楽になりたい気持ちだって、きっとある。
でも、それを誰かにぶつける理由にはしない。
そう決めたばかりだ。
「白咲さん」
セナが声をかけてくる。
「リボンの確認、終わりそう?」
「あと少し」
「無理しないで。今日は最終確認だけでいいから」
「うん」
セナは少しだけリノの顔を見た。
「本当に?」
リノは笑った。
「本当に」
「ならいい」
セナはそれだけ言って、予定表へ戻っていった。
リノは最後のリボンを手に取る。
それは、少しだけ黒い布を混ぜた星空みたいなリボンだった。
いろはが、余った布を組み合わせて作ったものだ。
「黒が入ってても、かわいいかなって」
そう言っていた。
リノはそのリボンを見つめる。
黒が入っていても、かわいい。
黒が入っていても、終わりじゃない。
リノは胸元の自分のリボンを思った。
黒い染み。
灰色の糸。
それは傷跡で、道しるべでもある。
リノは星空のリボンを、衣装の端にそっと結んだ。
窓の外では、夕日が沈みかけている。
文化祭前日の教室は、少しだけ散らかっていて、少しだけ疲れていて、でも確かに明日へ向かっていた。
黒い星はまだある。
メルも、星の裏側も、星結びの庭も、分からないことだらけだ。
それでも、今はこのリボンを結ぶ。
明日、誰かが笑えるように。
自分も、ちゃんと笑えるように。
リノは結び目をそっと整えた。
きつすぎず。
ほどけすぎず。
今の自分にできる、ちょうどいい強さで。
その時、鞄の中のミミルが小さく言った。
「リノ」
「ん?」
「ありがとう」
リノは少しだけ驚いた。
「どうしたの、急に」
「言いたくなった」
ミミルは照れたように耳を揺らした。
「今日、待ってくれて」
リノは少し微笑む。
「うん」
ミミルは続けた。
「ぼくも、ちゃんと結び直したい。ノアのことも、ルルのことも、リノのことも。魔法少女を、ただ導くんじゃなくて」
小さな声だった。
でも、確かな声だった。
「一緒に帰れるようにしたい」
リノは胸元に手を当てた。
「うん」
夕方の教室に、やわらかな風が入ってくる。
星とリボンの飾りが、静かに揺れた。
その日は、ノイズも出なかった。
黒い門も開かなかった。
誰かが泣き叫ぶことも、黒い拍手が響くこともなかった。
ただ、文化祭の準備をして。
リボンを結んで。
少し話して。
少し笑った。
それだけの日だった。
でもリノには、その「それだけ」が、とても大切に思えた。
明日が来る。
文化祭が始まる。
その先には、きっとまた黒い夜が待っている。
それでも今は、教室に残ったリボンの端を、そっと結び直す。
白だけじゃない。
黒だけでもない。
少し灰色の混ざった結び目が、夕日の中で静かに光っていた。




