第18話 鏡の中の黒いリボン
体育館での出来事は、学校中では「ちょっとした停電」として片づけられていた。
「昨日さ、急に暗くなったよね」
「ステージ練習してたはずなのに、途中から記憶あいまいなんだけど」
「私、立ったまま寝てた?」
「花守さん、大丈夫だったのかな」
教室には、そんな声があちこちで浮かんでいた。
けれど、誰も本当のことは覚えていない。
顔のない観客。
黒い拍手。
ステージを縛ったスポットライト。
そして、黒く染まりかけたリノのリボン。
それをはっきり覚えているのは、ほんの数人だけだった。
リノは自分の席に座ったまま、胸元をそっと押さえた。
制服の下に隠したブローチは静かだ。
けれど、その奥にあるリボンの変化を、リノは知っている。
白いリボンは、もう真っ白ではない。
黒い染みが残っている。
灰色の糸が、それを縫い止めるように走っている。
戻ったわけじゃない。
でも、染まりきったわけでもない。
その中途半端さが、今は少しだけ怖かった。
「リノちゃん」
ミカが隣に来た。
いつもより声がやわらかい。
「昨日、眠れた?」
「……少しだけ」
「そっか」
ミカはリノの顔をじっと見た。
「大丈夫?」
リノは反射的に「大丈夫」と言いかけた。
けれど、言葉が喉の手前で止まる。
大丈夫。
そう言えば、楽だったかもしれない。
心配させずに済む。
普通に戻れたふりができる。
黒く染まりかけたことを、なかったことにできる。
でも、なかったことにはできない。
リノは小さく息を吸った。
「大丈夫、って言いたいけど」
ミカの目が少しだけ揺れる。
「たぶん、まだ怖い」
そう言うと、胸の奥が少し軽くなった。
ミカはすぐに頷いた。
「うん」
ただ、それだけだった。
責めない。
急かさない。
理由を無理に聞かない。
その「うん」が、リノにはとてもありがたかった。
少し離れた席で、セナがこちらを見ていた。
昨日、セナは見た。
リノが魔法少女に変身するところを。
ステージで黒いリボンに飲まれかけたところを。
そして、ミカの声で戻ってきたところを。
セナは、朝から何度かリノに話しかけようとして、やめていた。
きっと、聞きたいことはたくさんあるはずだ。
それでも今は、リノの様子を見ている。
セナらしい。
朝のホームルームが終わると、文化祭準備の話になった。
花守いろはは、黒板の前に立っていた。
けれど昨日までとは少し違う。
声は明るい。
でも、無理やり押し上げたような明るさではなかった。
「昨日、ちょっと色々ぐちゃぐちゃになっちゃったから、予定表、見直しました」
いろはは苦笑しながら、黒板に新しい予定を書いた。
「衣装の仮完成、三日後じゃなくて五日後にします。ステージ台本も、今日全部決めるのはやめます。あと、写真スポットも、できる範囲で」
教室が少しざわつく。
「え、いいの?」
「間に合う?」
いろはは少しだけ笑った。
「間に合わなかったら、間に合う形にする」
その言い方に、リノは顔を上げた。
いろはは続ける。
「全部完璧にしようとすると、たぶん誰かがつらくなるから。私も含めて」
教室が少し静かになった。
いろはは恥ずかしそうに笑う。
「だから、主役だけが目立つステージじゃなくて、みんながちゃんと楽しかったって言える文化祭にしたいです」
その言葉に、誰かが小さく拍手した。
ぱち。
リノの体が一瞬こわばる。
でも、それは黒い拍手ではなかった。
普通の拍手だった。
顔のある誰かが、いろはの言葉に返した音だった。
やがて、教室のあちこちから拍手が広がる。
リノは、少しだけ安心した。
いろはは主役になりたい気持ちを消したわけではない。
きっと、まだ残っている。
でも、それだけに全部を任せるのをやめようとしている。
それは、リノにも必要なことだった。
放課後。
文化祭用の衣装合わせのために、教室の隅には大きな姿見が運び込まれていた。
普段は被服室に置かれているものらしい。
リノは衣装班として、白いリボン飾りの位置を確認していた。
布の端を持ち上げ、胸元に当てる。
鏡に映る自分を見る。
制服姿の白咲リノ。
普通の女の子。
でも、その胸元の奥には、魔法少女のリボンがある。
黒い染みを持ったリボンが。
「……」
リノは、そっと胸元に手を当てた。
その時だった。
鏡の中のリノが、笑った。
リノは息を止めた。
自分は笑っていない。
なのに、鏡の中の自分だけが、ゆっくりと口角を上げていた。
教室の音が遠ざかる。
紙を切る音も、話し声も、椅子を引く音も、全部が水の中みたいにぼやけていく。
鏡の中のリノは、こちらを見ていた。
同じ顔。
同じ髪。
同じ制服。
でも、胸元に結ばれたリボンだけが違う。
鏡の中のリボンは、ほとんど黒かった。
白い部分は、ほんの少しだけ。
その黒いリボンは、まるで最初からそうだったみたいに、自然にリノの胸元で揺れている。
「久しぶり」
鏡の中のリノが言った。
声は、リノと同じだった。
でも、少しだけ甘くて、少しだけ冷たい。
「少し、こっちに近づいたね」
リノの手が震える。
「あなたは……」
「忘れたふりしてたの?」
鏡の中のリノは首を傾げた。
「私は、あなたが捨てた気持ちだよ」
その言葉を、リノは覚えている。
鏡の中に初めて現れた時も、彼女はそう言った。
あなたが捨てた気持ち。
見てほしい。
選ばれたい。
誰かの特別になりたい。
それを、黒いリボンのリノは拾っている。
「昨日のあなた、きれいだったよ」
鏡の中のリノは優しく笑った。
「みんながあなたを見てた」
「やめて」
「やっと、主役になれたね」
「違う」
リノは首を横に振った。
「あれは助ける魔法じゃなかった」
「でも、気持ちよかったでしょ?」
鏡の中のリノが、そっと鏡の内側に手を触れる。
「見られること」
「必要とされること」
「誰かのためって言いながら、自分も満たされること」
リノは言い返せなかった。
言い返せないことが、苦しかった。
鏡の中のリノは責めてこない。
むしろ、全部分かっているような顔で、リノの痛いところを撫でてくる。
それが怖かった。
「黒い気持ちは、悪いものじゃないよ」
鏡の中のリノは言う。
「隠すから苦しいんだよ」
「分かってる」
「本当に?」
黒いリボンが、鏡の中でゆっくりほどける。
「だったら、使えばいいじゃない」
「使う……?」
「誰かを救うために、少しくらい縛ってもいいじゃない」
「見てもらうために、少しくらい嘘をついてもいいじゃない」
「優しいだけじゃ、また誰かに置いていかれるよ」
リノの胸が冷たくなる。
黒いリノは、ノアとは違う。
ノアは突き放す。
黒くなれと笑う。
白いままだと壊れると警告する。
でも鏡の中のリノは、もっと近い。
もっと甘い。
あなたは悪くないよ、と言いながら、黒い方へ手を引く。
「リノちゃん?」
遠くでミカの声がした。
リノは振り返ろうとした。
けれど、体が動かない。
鏡の中のリノが笑う。
「あの子、優しいね」
ミカのことだ。
「でも、いつまで見てくれるかな」
「やめて」
「ずっとあなたを見続けるなんて、できるのかな」
「やめてってば」
「ミカちゃんにも、ミカちゃんの日常がある」
「セナちゃんにも、花守さんにも、ルル先輩にも」
「みんな、いつか自分の場所に戻るよ」
リノの心の奥が、ぐらりと揺れた。
そんなこと、分かっている。
誰かが隣にいてくれるからといって、永遠ではない。
ずっと見ていてほしいなんて、言えない。
でも。
でも、本当は怖い。
また一人になるのが。
鏡の中のリノは、その怖さを知っている顔で言った。
「だから、離れないように結んでおけばいい」
鏡の表面が、黒く波打った。
そこから、黒いリボンが伸びてくる。
鏡の中から、現実へ。
リノは一歩下がろうとした。
でも、足が動かない。
「リノちゃん!」
今度は、ミカの声がはっきり聞こえた。
黒いリボンがリノの手首に触れようとした瞬間、教室の明かりが大きく揺れた。
姿見の周囲に、黒いひびが走る。
鏡の中のリノの笑顔が、少しだけ深くなる。
「ほら」
その声と同時に、鏡から黒い影があふれた。
教室の壁に、いくつもの鏡の破片のような光が浮かび上がる。
文化祭の衣装。
リボン飾り。
机。
窓ガラス。
あらゆる反射に、黒いリノの姿が映った。
ミミルが鞄から飛び出す。
「ミラー・リボン・ノイズ!」
ミカがリノの方へ駆け寄ろうとする。
けれど、床から伸びた黒いリボンが道を塞いだ。
「リノちゃん!」
セナも異変に気づき、すぐに周囲を見る。
教室に残っていた生徒たちは、鏡の光に目を奪われていた。
また、夢の中に引き込まれそうになっている。
セナは息を吸った。
「三枝さん、窓側の子を下がらせて。鏡を見ないように声をかけて」
「分かった!」
ミカがすぐに動く。
「みんな、鏡を見ないで! こっちに来て!」
セナは近くにあった布を手に取り、姿見へ向かって走った。
リノはまだ鏡の前に立ち尽くしている。
黒いリボンが足元に絡まり始めていた。
「白咲さん!」
セナの声が飛ぶ。
「今見ているのは、現実じゃない!」
その言葉に、リノの意識が少しだけ戻る。
現実。
鏡の中の自分は、現実ではない。
でも、嘘でもない。
それが苦しい。
リノは胸元のブローチを握った。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
光が広がる。
けれど、その光はいつもより少し揺れていた。
白とピンクのフリルドレス。
リボンのステッキ。
胸元の白いリボン。
そのリボンには、黒い染みが残っている。
鏡の中のリノは、変身したリノを見て微笑んだ。
「似合ってるよ」
「あなたを消す」
リノはステッキを構えた。
でも、口にした瞬間、胸が痛んだ。
鏡の中のリノが静かに言う。
「消すの?」
黒いリボンが鏡の内側で揺れる。
「また、見てほしい気持ちをなかったことにするの?」
リノの手が止まる。
「それなら、昨日と同じだよ」
昨日。
黒い拍手の中で、リノは自分の本音を認めた。
見てほしかった。
選ばれたかった。
誰かの特別になりたかった。
その気持ちを消してしまったら、また同じ場所に戻ってしまう。
リノはステッキを下ろしかけた。
その瞬間、ミラー・リボン・ノイズが動いた。
鏡の破片が空中に浮かび、刃のようにリノへ飛んでくる。
「マジカル・リボン・シールド!」
白いリボンの盾が現れる。
しかし、鏡の破片はリノの魔法を反射した。
跳ね返った光が、逆にリノの腕をかすめる。
「っ……!」
「リノちゃん!」
ミカが叫ぶ。
ミラー・リボン・ノイズは、攻撃するたびに声を重ねてくる。
「本当は迷惑だと思ってる」
「本当は置いていく」
「本当は見ていない」
「本当は、あなたが助けたから隣にいるだけ」
その声はリノへだけではなく、ミカやセナにも届いていた。
ミカの顔が歪む。
「違う……」
セナは歯を食いしばりながら、姿見に布をかけようとする。
けれど布は黒いリボンに弾かれた。
「私は戦えない」
セナは小さく呟いた。
それでも、もう一度布を掴む。
「でも、白咲さんが戻る場所くらいは作れる」
セナは教室の照明のスイッチへ走った。
蛍光灯が落ち、教室の反射が少し減る。
窓にはカーテンを引く。
ミカが生徒たちを廊下へ誘導していく。
「こっち! 鏡を見ないで、足元見て!」
セナは姿見の正面へ回り込む。
黒いリボンが足元をかすめる。
怖い。
それでも、セナは布を投げた。
大きな布が、姿見の半分を覆う。
鏡の中のリノの姿が、少しだけ薄くなった。
「今!」
セナが叫ぶ。
リノはステッキを握り直した。
でも、まだ迷っていた。
消していいのか。
消してしまえば楽なのか。
鏡の中のリノは、布の隙間からリノを見ている。
「私は、あなたの一部だよ」
「分かってる」
「じゃあ、どうするの?」
リノはゆっくり息を吸った。
黒いリボン。
見てほしい気持ち。
選ばれたい気持ち。
ひとりになりたくない気持ち。
それは、確かに自分の中にある。
でも。
「消さない」
リノは言った。
鏡の中のリノの目が少しだけ見開かれる。
「でも、あなたに全部決めさせない」
胸元の灰色の糸が光る。
リノはステッキを掲げた。
「マジカル・リボン・リフレーム」
リノのステッキから、灰色のリボンが伸びた。
それは鏡を割らなかった。
黒いリノを攻撃しなかった。
代わりに、姿見の縁へそっと触れる。
ひび割れた鏡に、リボンで新しい額縁をかけるように。
教室のあちこちに浮かんでいた鏡の破片が、ひとつずつ向きを変えていく。
そこに映るのは、黒いリノだけではなくなった。
ミカがリノの名前を呼ぶ姿。
セナが布を投げる姿。
いろはが予定表を書き直す姿。
ルル先輩が大丈夫じゃないと認めた夜。
ノアが「戻り方を忘れる」と警告した顔。
全部が映る。
黒い自分だけが真実じゃない。
白い自分だけが正解でもない。
見てほしい自分も。
誰かを縛りたくない自分も。
どちらも、同じリノの中にある。
「見てほしかった私は、消さない」
リノは鏡の中の自分へ言った。
「でも、誰かを縛ってまで見てもらう私にはならない」
鏡の中のリノは黙っていた。
「あなたも私なら」
リノは手を伸ばす。
「一緒に来て」
黒いリノの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「鏡の中じゃなくて、こっちで」
灰色のリボンが、鏡の中へ伸びる。
黒いリボンと絡み合い、ほどけていく。
ミラー・リボン・ノイズが叫んだ。
「見ないで」
「見て」
「消さないで」
「決めさせて」
リノは首を横に振る。
「決めるのは、私」
鏡の破片が光になって砕けていく。
黒いリノは、最後に小さく笑った。
さっきまでの甘い笑みではなかった。
少しだけ寂しそうな笑みだった。
「……また呼ぶよ」
リノは何も言わない。
「あなたが、見ないふりをしたら」
その言葉を残して、鏡の中のリノは奥へ下がっていった。
姿見を覆っていた黒いひびが消える。
教室に、普通の夕方の光が戻ってくる。
ミラー・リボン・ノイズは、最後に細い黒いリボンになってほどけた。
リノは変身を解き、その場に膝をついた。
「リノちゃん!」
ミカが駆け寄ってくる。
リノは顔を上げた。
「ミカちゃん……」
「大丈夫?」
リノは少しだけ笑う。
「大丈夫じゃないけど、戻ってきた」
「うん」
ミカは安心したように息を吐いた。
「おかえり」
その言葉が、リノの胸にじんわり広がった。
セナも近づいてきた。
手には、さっき姿見にかけようとした布を持っている。
「白咲さん」
「セナちゃん」
「聞きたいこと、増えた」
「……だよね」
リノは少し困ったように笑った。
でも、逃げるつもりはなかった。
「話す」
リノは胸元に手を当てた。
「私、魔法少女なんだ」
セナは静かに頷く。
「昨日見たから、知ってる」
「でも、きれいなだけじゃない」
リノの声は小さくなる。
「黒くなることもある。誰かを助けたいのに、縛りたくなることもある」
ミカは何も言わず、リノの隣に座った。
セナは少し考えてから言った。
「今日、少し分かった」
「え?」
「白咲さんは、ひとりで抱えると危ない」
鋭い。
でも、その通りだった。
リノは苦笑する。
「うん。たぶん、すごく」
ミカが軽く手を上げた。
「じゃあ、ひとりにしない作戦でいこう」
「なにそれ」
リノが思わず笑うと、ミカは真面目な顔で言った。
「作戦名は大事だよ」
セナも少しだけ頷く。
「悪くないと思う」
「セナちゃんまで」
三人の間に、少しだけ笑いが戻った。
それだけで、教室の空気が軽くなる。
リノは姿見を見た。
鏡には、普通の自分が映っている。
制服姿の白咲リノ。
その後ろに、ミカとセナがいる。
鏡の中の黒いリノは、もういない。
でも、消えたわけではない。
リノには分かっていた。
あの子はまだ、どこかにいる。
リノが自分の気持ちから目をそらしたら。
黒い染みをなかったことにしようとしたら。
きっとまた、鏡の中から笑いかけてくる。
それでも今は、鏡の前にリノひとりではなかった。
ミカの手。
セナの視線。
胸元で黒い染みを縫い止める灰色の糸。
それだけで、少しだけ息ができた。
リノは鏡の中の自分へ、小さく頷いた。
見ないふりはしない。
消しもしない。
でも、全部を渡しもしない。
黒いリボンは、鏡の奥で静かに眠っていた。




