第17話 リボンが黒く染まる時
拍手が、体育館を満たしていた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
顔のない観客たちは、ステージを見ている。
花守いろはを見ている。
そして、リノを見ている。
その視線には、目がなかった。
けれど、確かに見られていると分かる。
評価されている。
選ばれている。
比べられている。
黒い拍手が鳴るたびに、リノの胸元のリボンへ黒が広がっていく。
白かったはずの布地に、インクを落としたような染みが走る。
端だけではない。
中心へ。
結び目へ。
ブローチの近くへ。
灰色の糸が、きしむように震えた。
「リノちゃん!」
ミカの声が聞こえた。
でも、その声は遠かった。
黒い拍手の奥から聞こえる、かすかな音みたいだった。
リノは自分の胸元を見下ろす。
黒くなっていく。
白いリボンが、黒く染まっていく。
怖い。
そう思った。
でも、同時に別の気持ちがあった。
見られている。
体育館中の影が、自分を見ている。
そのことが、ほんの少しだけ嬉しい。
嬉しいと思ってしまった自分に、リノは息をのんだ。
「見てほしいって思うことは」
自分の口からこぼれた声が、自分のものではないみたいに聞こえる。
「そんなに悪いことなの?」
黒い観客たちが、一斉に拍手した。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
その音は、リノを歓迎しているようだった。
「そうだよ」
「見てほしいんだよ」
「選ばれたいんだよ」
「助ける子は主役になれる」
「かわいそうな子を救えば、あなたが一番になる」
「違う」
リノは小さく言った。
けれど、声は弱かった。
違う。
全部が違うわけじゃない。
いろはを助けたい。
それは本当。
でも、助けたら見てもらえるかもしれないと思ったことも、きっと嘘ではない。
ありがとうって言われたら、ここにいていい気がした。
誰かの特別になれたら、自分にも価値がある気がした。
助ける側でいれば、寂しい子だと気づかれずに済む気がした。
気づきたくなかった声が、拍手の中で起き上がっていく。
「リノ!」
ルル先輩の声が響いた。
星の光が天井から降り、リノの周囲を包もうとする。
けれど、リノの足元から黒いリボンが伸びた。
そのリボンは、星の光を弾いた。
ルル先輩が息をのむ。
「黒に寄りすぎてる……!」
ノアは少し離れた場所で、黒い観客たちを睨んでいた。
その顔から、いつもの余裕が消えている。
「白い子」
ノアの声が低くなる。
「そこから先は、戻り方を忘れるよ」
リノはノアを見る。
黒い拍手の中で、ノアの黒いリボンが揺れていた。
ノアは知っている。
黒く染まった先に何があるのか。
痛いと言えなくなること。
泣き方を忘れること。
戻りたい場所が分からなくなること。
でも、今のリノには、その警告すら遠く感じた。
「戻れなくても」
リノの口が勝手に動く。
「見てもらえるなら、いいのかも」
ノアの目が大きく開いた。
ほんの一瞬、そこに怒りではない何かが浮かんだ。
恐怖に近いもの。
「……それ、私の台詞じゃん」
ノアの声は、かすれていた。
ステージ中央では、いろはが黒いスポットライトに縛られていた。
顔のない観客たちは、いろはへ向かって拍手を送っている。
「主役」
「選ばれた子」
「かわいい子」
「一番の子」
いろはは震えていた。
最初は、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
でも今は違う。
嬉しさよりも恐怖が勝っている。
「もう、いい」
いろはの声が震えた。
「もう見ないで……」
観客たちは、拍手をやめない。
「もっと笑って」
「もっとかわいく」
「主役なんだから」
「失敗しないで」
「期待に応えて」
「やだ……」
いろはは両手で耳を塞ぐ。
「見てほしかっただけなのに」
リノの胸が痛む。
見てほしかっただけ。
その言葉は、リノの中にもある。
誰かに見てほしかった。
誰かに選んでほしかった。
誰かの一番になりたかった。
リノはステッキを握りしめた。
ハートの飾りが、黒く濁っている。
いつもの優しい光ではない。
黒いリボンが、ステッキから溢れる。
「大丈夫」
リノはステージへ歩き出した。
自分の声が、いつもより低く聞こえる。
「私が、花守さんを主役にしてあげる」
ミカの顔が青ざめた。
「リノちゃん……?」
リノは振り返らない。
「誰も見てくれないなら」
黒いリボンが床を走る。
客席へ。
壁へ。
天井へ。
顔のない観客たちを縛り上げ、その顔を無理やりステージ中央へ向ける。
「私が、みんなを見させてあげる」
体育館全体が軋んだ。
黒いリボンが、観客たちの首を縛るように絡みつく。
顔のない影たちは、拍手を続けたまま、いろはを見る。
全員が見ている。
全員がいろはを見ている。
いろはは、ステージ中央で叫んだ。
「違う!」
その声に、リノの足が止まる。
「違う、こんなのじゃない!」
いろはの目に涙が浮かんでいた。
「主役になりたかった」
「かわいいって言われたかった」
「選ばれたかった」
黒いスポットライトが、いろはをさらに強く照らす。
「でも、こんなの怖い!」
いろはの声が体育館に響いた。
「ずっと見られるのは怖い!」
「失敗できないのは苦しい!」
「笑ってないといけない主役なんて、もう嫌!」
オーディエンス・ノイズが大きく歪む。
黒い観客たちの拍手が、さらに激しくなった。
ぱちぱちぱちぱち。
音が刃になる。
リノの黒いリボンと、オーディエンス・ノイズの拍手がぶつかり合い、体育館全体が揺れた。
壁から廊下へ、黒いリボンが伸びていく。
ルル先輩が叫ぶ。
「学校全体に広がる!」
星の杖を掲げ、ルル先輩は大きな魔法陣を展開した。
「スターライト・バリア!」
体育館の外へ伸びようとする黒いリボンを、星の結界が押しとどめる。
しかし、リノの黒い魔法とノイズの拍手が混ざり合い、結界は何度も揺らいだ。
「白咲さん!」
ルル先輩の声は必死だった。
「その魔法は、相手を救うものじゃない!」
リノはステージを見つめたまま答えた。
「でも、見てもらえないのは苦しい」
「分かるよ」
ルル先輩は苦しそうに言った。
「でも、強制したら、今度は相手の声を消してしまう」
その言葉に、リノの胸が一瞬だけ痛んだ。
ルル先輩の過去。
正しく救おうとして、アヤメの声を聞けなかった夜。
リノは分かっているはずだった。
分かっているはずなのに、黒い拍手がそれを上書きしていく。
「じゃあ」
リノの声が震えた。
「見てもらえない子はどうしたらいいの?」
黒いリボンがさらに広がる。
「誰にも選ばれない子は、ずっと笑ってればいいの?」
その言葉に、体育館が静まりかけた。
でも、すぐに拍手が戻る。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
セナは体育館の入口付近で、生徒たちを避難させていた。
一般生徒たちは、まだ半分眠ったような状態だった。
黒い拍手に飲まれ、焦点の合わない目でステージを見ている。
セナは震える手で進行表を握りしめる。
目の前では、白咲リノが魔法少女として戦っている。
信じられない。
でも、信じられないからといって、動けない理由にはならない。
「こっちへ」
セナは近くの生徒に声をかける。
「壁沿いに移動して。ステージを見ないで」
「月森さん……?」
「大丈夫じゃなくてもいいから、今はこっち」
自分で言って、セナは少しだけ驚いた。
大丈夫じゃなくてもいい。
あの日、リノが自分に教えてくれた言葉だった。
今度は、自分が誰かに使っている。
セナは体育館全体を見渡した。
ステージ班。
衣装班。
司会のミカ。
魔法少女のリノ。
星の結界を張るルル先輩。
黒いリボンを構えるノア。
普通ではない。
何もかも普通ではない。
でも、今できることはある。
「三枝さん!」
セナは叫んだ。
「入口側は半分下がった! でもステージ側がまだ残ってる!」
「分かった!」
ミカはマイクを握りしめていた。
黒い拍手のノイズが混ざり、音は不安定だ。
それでも、ミカは声を出す。
「みんな、こっちを見て! ステージじゃなくて、こっち!」
ミカの声に、何人かの生徒が顔を上げる。
「拍手しなくていい! 笑わなくていい! まず、ステージから離れて!」
それは戦いだった。
魔法ではない。
でも、確かに戦いだった。
誰かを黒い拍手から引き戻すための、声の戦い。
その時、黒いリボンがミカの足元へ伸びた。
「ミカちゃん!」
リノが叫ぶ。
けれど、そのリボンはリノのステッキから伸びたものだった。
リノ自身も、はっとする。
止めようとしても、黒いリボンは言うことを聞かない。
ミカの足首に絡みつき、マイクから引き離そうとする。
ノアが動いた。
黒い羽根が鋭く飛び、リノの黒いリボンを切り払う。
ミカはその場に膝をついた。
「っ……」
ノアはリノを睨んだ。
「見た?」
その声は冷たかった。
「それが黒いリボンだよ。守りたいものまで縛る」
リノの心臓が、強く鳴った。
守りたいものまで、縛る。
黒いリボンはまだ床を這っている。
いろはを主役にするため。
ミカを守るため。
観客を止めるため。
そう思っていた。
でも、今の魔法は、ミカを縛ろうとした。
リノはステッキを握る手を震わせる。
「私……」
黒い拍手が囁く。
「大丈夫」
「守るためなら仕方ない」
「見てもらうためなら仕方ない」
「縛れば、離れない」
「縛れば、見てくれる」
「違う」
リノは呟く。
でも、声はまだ弱い。
ノアが一歩近づいた。
「戻りたいなら、今のうち」
「ノアは」
リノは顔を上げる。
「ノアは、どうして戻らなかったの?」
ノアの表情が止まった。
黒い拍手の中で、ノアはしばらく黙っていた。
「戻る場所が、分からなくなったから」
短い答えだった。
でも、それだけで胸が痛かった。
「だから言ってるの」
ノアは低く続ける。
「そこから先は、やめなよ」
それは、ノアらしくないほど真っ直ぐな言葉だった。
リノはそれを聞いて、初めて少しだけ怖くなった。
自分は今、ノアが止める場所に立っている。
あの黒いリボンの少女が、本気で止めようとする場所に。
その時、ミカが立ち上がった。
足元にはまだ黒いリボンの残りが絡んでいる。
それでも、ミカは一歩前に出た。
「リノちゃん!」
ミカの声が、黒い拍手を裂いた。
リノは振り返る。
ミカは泣きそうな顔をしていた。
でも、逃げていなかった。
「それは助けるじゃないよ!」
リノの胸が、強く痛んだ。
「じゃあ!」
声が荒くなる。
「じゃあ、見てもらえない子はどうしたらいいの?」
黒いリボンが、リノの周りで揺れる。
「誰にも選ばれない子は、ずっと笑ってればいいの?」
ミカは首を横に振った。
「違う」
「じゃあ何?」
「笑わなくていいって」
ミカの声が震える。
「リノちゃんが教えてくれたんだよ」
リノの中で、何かが止まった。
ミカのノイズを救った時。
笑ってなくてもいい、と言った自分。
あれは、嘘ではなかった。
ミカは一歩ずつ近づいてくる。
黒いリボンが足元を絡めようとする。
けれど、ミカは止まらない。
セナが叫ぶ。
「三枝さん、危ない!」
「分かってる!」
ミカはリノを見たまま言った。
「でも、今言わなきゃだめだから!」
リノは動けなかった。
ミカは黒いリボンに足を取られながらも、手を伸ばす。
「見てほしいって思っていいよ」
その言葉は、黒い拍手よりもはっきり聞こえた。
「選ばれたいって思っていい」
「誰かの特別になりたいって思っていい」
リノの目が揺れる。
「でも」
ミカは涙をこらえるように笑った。
「誰かに無理やり見させなくてもいい」
黒いリボンの動きが鈍る。
「私は、リノちゃんが主役じゃない時も見るよ」
リノの胸元で、灰色の糸がかすかに光った。
ミカは続ける。
「リノちゃんが誰かを助けた時だけじゃなくて」
「失敗した時も」
「大丈夫じゃない時も」
「黒くなりそうな時も」
ミカの手が、リノへ届く。
「見るよ」
その瞬間、黒い拍手の音が少しだけ遠のいた。
リノはミカを見た。
ステージでもない。
主役でもない。
スポットライトの中心でもない。
でも、ミカは見てくれている。
リノを。
魔法少女としてではなく。
助けてくれる子としてでもなく。
白咲リノを。
「私」
リノの声が震えた。
「見てほしかった」
黒いリボンが揺れる。
「助けたら、好きになってもらえると思ってた」
「ありがとうって言われたら、ここにいていい気がした」
「誰かの特別になりたかった」
涙がこぼれそうになる。
「でも」
リノはステッキを握る。
黒く濁ったハートの奥で、小さな桜色が灯った。
「誰かを縛りたいわけじゃなかった」
胸元のリボンが光る。
黒い染みは消えない。
でも、灰色の糸がその上を走った。
黒を隠すのではなく、縫い止めるように。
広がり続けようとする黒を、そっと留めるように。
リノは深く息を吸った。
「マジカル・リボン」
黒い拍手が激しくなる。
「主役になれ」
「選ばれろ」
「見られろ」
「拍手を浴びろ」
リノは首を横に振る。
「アンコール!」
リノのステッキから、灰色と白と淡い桜色が混ざったリボンが広がった。
それは拍手を止めるための魔法ではなかった。
評価を消す魔法でもない。
もう一度、自分の声を聞くための魔法。
黒い観客たちの手が止まる。
ぱち。
最後の拍手が、体育館に落ちた。
リノのリボンは、客席の影たちを縛らなかった。
代わりに、影たちの足元へ小さな光を灯していく。
ステージの中央だけではない。
客席にも。
体育館の隅にも。
扉の近くにも。
ステージに立たなかった子の足元にも。
小さな光が、ひとつずつ灯る。
ルル先輩が息をのんだ。
「主役だけを照らすんじゃなくて……」
リノは頷いた。
「みんなの場所を、戻す」
星の結界がリノの魔法に重なる。
ルル先輩が杖を掲げた。
「ステラ・チャート・フィールド!」
星の光が、体育館全体を星図のように結ぶ。
セナが避難誘導を続けながら、はっと顔を上げた。
「生徒たちの意識が戻ってきてる!」
ミカはマイクを握り直す。
「みんな、聞こえる? 拍手しなくていいよ。無理に笑わなくていい。自分の足元を見て!」
その声に、生徒たちの目に少しずつ焦点が戻っていく。
ノアは黒いリボンを振るい、暴れ出したオーディエンス・ノイズの本体を押さえた。
「ほんと、面倒な舞台」
そう言いながらも、その黒いリボンはリノの魔法を邪魔しなかった。
「でも、幕引きくらいは手伝ってあげる」
リノはステージ中央へ向かった。
いろはは黒いスポットライトの中で膝をついていた。
大きなリボンが、彼女の体を縛っている。
リノはその前にしゃがむ。
「花守さん」
いろはは顔を上げた。
涙で目が濡れている。
「私、主役になりたかった」
「うん」
「かわいいって言われたかった」
「うん」
「選ばれたかった」
「うん」
リノはひとつずつ頷いた。
否定しなかった。
いろはのリボンを、無理にほどこうともしなかった。
「でも、怖かった」
いろはの声が崩れる。
「見てもらえないのも怖いのに、ずっと見られるのも怖かった」
「失敗したら嫌われるって思った」
「主役になれなかったら、私なんか何にもないって思った」
リノは胸元のリボンを握った。
黒い染みはまだ熱い。
「私も、そう思う時がある」
いろはがリノを見る。
「白咲さんも?」
「うん」
リノは小さく笑った。
「選ばれなかったら、ここにいていいのかなって思う時がある」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
いろはの声は幼い子どもみたいだった。
「誰にも選ばれなかったら、私、何にもならないの?」
リノは首を横に振る。
「ならないよ」
自分に言い聞かせるように、リノは言った。
「選ばれなくても、ここにいていい」
リノの声が少し震える。
「私も、そう思いたい」
いろはの目から、涙がこぼれた。
その瞬間、彼女を縛っていた黒いリボンがゆるむ。
リノは灰色の糸を伸ばした。
「マジカル・リボン・アンコール」
リボンは、いろはの胸元にそっと触れた。
「もう一度、聞かせて」
いろはは涙を拭うこともできずに、ぽつりと言った。
「主役になりたかった」
黒いリボンがほどける。
「でも、主役じゃない私も、嫌いにならないでほしかった」
その言葉と同時に、オーディエンス・ノイズが大きく叫んだ。
顔のない観客たちが崩れていく。
拍手の手が、黒い紙吹雪のように散る。
ノアの黒いリボンが本体を押さえ、ルル先輩の星の結界が体育館を包む。
リノはステッキを掲げた。
「拍手がなくても、終わりじゃない」
淡い桜色の光が広がった。
白いリボン。
灰色の糸。
黒い染み。
その全部を抱えたまま、光はステージを満たしていく。
オーディエンス・ノイズは、最後に小さく呟いた。
「見て」
リノは頷いた。
「見てるよ」
ノイズは光になってほどけた。
体育館の照明が戻る。
床に広がっていた黒いスポットライトは消えていた。
客席の影もいない。
ステージの幕も、普通の布に戻っている。
生徒たちは、ぼんやりと周囲を見回していた。
「え、停電?」
「なんか、途中から記憶ないんだけど」
「ステージ練習してたよね?」
「誰か倒れてない?」
ざわめきが戻ってくる。
普通の体育館の音。
リノは変身を解き、体育館の隅で膝をついた。
ミカがすぐに駆け寄ってくる。
「リノちゃん!」
「ミカちゃん……」
「大丈夫?」
リノは少しだけ笑った。
「大丈夫じゃない」
「うん」
ミカはリノの手を握った。
「知ってる」
その手が温かかった。
セナも近づいてきた。
まだ混乱している顔だった。
けれど、逃げる様子はない。
「白咲さん」
「セナちゃん……」
「聞きたいことは、たくさんある」
「うん」
「でも、今じゃなくていい」
セナは体育館を見渡した。
「今は、花守さんと他の子たちの確認が先」
リノは頷いた。
「ありがとう」
セナは少しだけ表情をゆるめた。
「あとで、ちゃんと話して」
「うん。約束する」
ステージの上では、いろはが座り込んでいた。
彼女はぼんやりとリノを見ている。
「白咲さん」
いろはの声はかすれていた。
「あの時……何か、言ってくれた?」
リノは少しだけ迷った。
いろはは全部を覚えているわけではない。
魔法少女の姿も、確信はしていない。
でも、何かは残っている。
リノは静かに答えた。
「花守さんは、主役じゃない時も消えないよって」
いろはの目が揺れた。
そして、泣きそうな顔で笑った。
「そっか」
小さな声だった。
「それ、聞けてよかったかも」
ルル先輩は少し離れた場所で、体育館に残ったノイズの気配を確認していた。
ノアは、もう窓辺に立っていた。
リノが気づくと、ノアはいつものように黒い羽根を指先で弄んでいる。
「黒くなりかけたね」
ノアが言った。
リノは胸元を押さえる。
「うん」
「怖かった?」
「怖かった」
「でも、少し嬉しかったでしょ」
リノは黙った。
否定はできなかった。
ノアは薄く笑う。
「正直でいいじゃん」
「ノア」
「何?」
「止めてくれて、ありがとう」
ノアの表情が嫌そうに歪む。
「止めたつもりない」
「でも、言ってくれた。戻り方を忘れるって」
「経験談だから」
ノアは視線をそらす。
「あなたが本当に黒くなったら、つまらないだけ」
「つまらない?」
「うん」
ノアは窓の外を見る。
「私と同じになったら、ほどいてくれる子がいなくなるでしょ」
その言葉を残して、ノアは黒い羽根に包まれた。
消える直前、リノには一瞬だけ見えた気がした。
ノアの表情が、ほんの少しだけ寂しそうだった。
体育館に、日常のざわめきが戻っていく。
文化祭の準備は、きっと止まらない。
でも、何かは変わった。
いろははもう、「全部大丈夫」とは言わなかった。
セナは予定表を見直し、無理のある部分に赤い線を引いている。
ミカはリノの隣で、ずっと手を離さずにいてくれる。
リノはそっと胸元のリボンを見た。
白いリボンは、もう真っ白には戻らない。
黒い染みが残っている。
それは、消えない傷跡のようだった。
けれど、黒く染まりきることもなかった。
灰色の糸が、黒い染みをそっと縫い止めるように伸びている。
それは傷跡みたいで。
でも、たぶん道しるべでもあった。
リノはそのリボンを握りしめる。
見てほしい。
選ばれたい。
誰かの特別になりたい。
その気持ちは、まだ消えない。
消えないまま、歩いていくしかない。
黒い拍手の音は、もう聞こえなかった。
ただ、ミカの手の温かさだけが、リノの隣に残っていた。




