第16話 拍手のノイズ
花守いろはは、朝から笑っていた。
「おはよー! 今日からステージ練習も始めるよ!」
教室に入ってくるなり、いろははいつもの明るい声でそう言った。
その声につられるように、クラスの空気が少し華やぐ。
「お、ついに?」
「体育館使えるんだっけ?」
「リボン飾り、昨日の続きやらなきゃ」
「衣装班も今日集まるよね」
文化祭準備は、少しずつ本格的になっていた。
机の上には色紙や布の切れ端が置かれ、教室の後ろには途中まで作られた星の飾りが並んでいる。
黒板の端には、いろはが書いた大きな文字。
星とリボンのミニステージ。
かわいらしい星やハートで囲まれたその文字は、明るくて、楽しそうで。
だからこそ、リノには少しだけ怖かった。
昨日の夜、体育館で聞こえた黒い拍手。
ステージ中央に立っていた、いろはの影。
主役になりたい、と書かれた黒い文字。
あれは、まだ誰にも話せていない。
リノは席についたまま、いろはを見た。
いろはは笑っている。
でも、目の下に薄い影があった。
髪もきれいに整えているし、制服のリボンもかわいく結ばれている。
いつも通りに見える。
けれど、笑顔が少しだけ硬い。
「リノちゃん」
隣からミカが小さく声をかけてきた。
「見てるね」
「うん」
リノは頷いた。
「花守さん、昨日より無理してる気がする」
「分かる」
ミカは教室の前にいるいろはを見たまま、少しだけ眉を下げた。
「あの笑い方、ちょっと苦しい」
ミカがそう言うと、リノの胸が小さく痛んだ。
笑っていなきゃ。
大丈夫って言わなきゃ。
ちゃんとしなきゃ。
それはミカにも、セナにも、そしてリノ自身にもあった気持ちだ。
いろはの中にあるものは、きっと他人事ではない。
セナが予定表を持って、二人の席へ来た。
「今日の放課後、体育館でステージ練習。衣装班は教室と体育館を行き来することになると思う」
「セナちゃん、もう把握してるのすごいね」
ミカが感心したように言うと、セナは真面目に答えた。
「進行管理を任されたから」
その言い方があまりにもセナらしくて、リノは少しだけ笑った。
けれど、セナの表情はすぐに真剣になる。
「でも、予定がかなり詰まってる。ステージ練習、衣装合わせ、展示の装飾確認、全部今日やることになってる」
「今日、全部?」
「うん」
セナは予定表に視線を落とした。
「このままだと、誰かが少し遅れただけで全部崩れる」
ミカが小さく息を吐く。
「花守さん、全部成功させようとしてるんだね」
「たぶん」
セナは教室の前で笑っているいろはを見た。
「笑ってるけど、あれは大丈夫な笑い方じゃない」
その言葉に、リノは胸元をそっと押さえた。
制服の下のブローチは、まだ静かだった。
けれど、完全に眠っているわけではない。
奥の方で、何かを待つように冷えている。
放課後。
教室には、文化祭準備の音があふれていた。
ハサミで紙を切る音。
テープを引く音。
布を広げる音。
誰かが笑う声。
誰かが「これどうする?」と尋ねる声。
いろははその中心にいた。
「展示班、星の飾りもう少し増やせる?」
「衣装班、白リボンだけだと地味だからピンクも足そ!」
「ステージ班、立ち位置確認したいから体育館行こ!」
「大丈夫大丈夫、今日ちょっと頑張れば一気に進むから!」
明るい声。
でも、速い。
次から次へと指示が飛ぶ。
誰かが少し戸惑っても、いろはは笑顔で言う。
「ごめんね、でもここだけお願い!」
「あと少しだけ!」
「せっかくなら、かわいくしたいじゃん!」
その言葉は優しい。
でも、逃げ道が少しずつなくなっていく。
リノは衣装用のリボンを結びながら、いろはの後ろ姿を見ていた。
主役になりたい。
昨日見た文字が、頭の中に浮かぶ。
誰かの一番になりたい。
選ばれたい。
かわいいって言われたい。
その気持ちは、悪いものではないはずだ。
でも、いろはの笑顔は、どんどん細い糸で吊られているみたいに見えた。
「白咲さん!」
いろはが振り返る。
「そのリボン、すごくかわいい! やっぱり白咲さんに頼んでよかった!」
「ありがとう」
嬉しい。
そう思った瞬間、リノは少しだけ怖くなった。
頼んでよかったと言われること。
ありがとうと言われること。
必要とされること。
それが嬉しい自分を、リノはもう知っている。
嬉しいだけならいい。
でも、それがなくなった時、自分はどうなるのだろう。
リノがリボンを握りしめた時、胸元のブローチが一瞬だけ冷たくなった。
「リノちゃん?」
ミカの声。
リノは慌てて顔を上げた。
「大丈夫」
言ってから、少しだけしまったと思った。
ミカがじっと見てくる。
「本当に?」
「……大丈夫じゃないかも。でも、今は動ける」
ミカは少しだけ安心したように笑った。
「それならよし」
体育館へ向かう時間になった。
ステージ班、司会役のミカ、進行管理のセナ、衣装確認のためのリノ。
そして、中心にいるいろは。
何人かの生徒たちと一緒に、リノたちは体育館へ向かった。
体育館の扉の前に立った瞬間、リノの足が止まる。
中が、暗い。
まだ夕方なのに。
窓から光は入っているはずなのに、体育館の奥だけが黒い布で覆われているみたいだった。
「どうしたの?」
セナが尋ねる。
「……ううん」
リノは首を振った。
でも、ミミルの声が鞄の中から小さく聞こえた。
「リノ。いる」
リノは息をのむ。
いる。
何が、とは聞かなくても分かった。
ノイズだ。
いろはは何も気づいていない様子で、体育館の扉を開けた。
「よし、練習始めよ!」
体育館の中へ入る。
ステージの幕は閉まっていた。
でも、昨日の夜に見た黒いスポットライトの跡が、まだ床に残っているような気がした。
ステージの端に置いてあった白いリボン飾りは、端が少し黒ずんでいる。
「これ、汚れてる?」
ミカが小さく言った。
リノはリボンに近づいた。
触れようとした瞬間。
ぱち。
拍手の音がした。
リノは固まる。
ぱち。
もう一度。
誰も手を叩いていない。
体育館にいる生徒たちは、立ち位置を確認したり、台本を読んだりしている。
気づいていない。
いや。
気づいているのに、気づいていないふりをしているようにも見えた。
「今、聞こえた?」
リノがミカに尋ねる。
ミカは青ざめた顔で頷いた。
「聞こえた」
セナも表情を変えた。
「拍手?」
その瞬間、ステージの照明が一つだけ灯った。
光は、いろはの上に落ちる。
いろははステージの中央に立っていた。
偶然だったのかもしれない。
でも、スポットライトに照らされたいろはは、一瞬だけ動きを止めた。
「……やっぱり」
小さな声だった。
リノにしか聞こえないくらい。
「真ん中って、いいな」
その言葉が落ちた瞬間、体育館の扉が一斉に閉まった。
大きな音が響く。
「え?」
「何?」
「扉、閉まった?」
生徒たちがざわめく。
次の瞬間、体育館の照明がすべて落ちた。
悲鳴が上がる。
けれど、その声はすぐに黒い拍手に飲み込まれていった。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
闇の中、客席に黒い影が現れる。
一人。
二人。
三人。
顔のない観客たち。
その数はどんどん増えていく。
客席だけでは足りず、体育館の壁際にも、二階ギャラリーにも、黒い影が並んでいった。
影たちは、全員がステージを見ている。
そして、手を叩いている。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
リノの胸元のブローチが熱くなる。
「ノイズ……!」
ミミルが鞄の中から飛び出した。
その姿を見たセナが、目を見開く。
「え……?」
ミミルは一瞬しまったという顔をしたが、もう隠れている余裕はなかった。
「説明はあと!」
体育館の空気が変わっていく。
一般生徒たちの目から、少しずつ焦点が消えていった。
まるで夢の中に立たされているみたいに、ぼんやりとステージの方を見ている。
「主役は誰?」
黒い観客たちが声を揃えた。
「いちばんかわいい子は誰?」
「選ばれたい子は誰?」
「拍手が欲しい子は誰?」
ステージ中央で、いろはが動けなくなっていた。
黒いスポットライトが彼女を縛っている。
いろはの足元から、黒いリボンが伸びていた。
「花守さん!」
リノが走ろうとすると、床から別のリボンが伸びて道をふさいだ。
ステージの幕が勝手に開く。
そこに現れたのは、巨大な黒い観客の顔だった。
顔はない。
ただ、拍手する手だけが無数に浮かんでいる。
それがひとつのノイズになっていた。
「オーディエンス・ノイズ……」
ミミルが震える声で言った。
オーディエンス・ノイズは、体育館全体をステージに変えていく。
床には黒いスポットライトの円。
壁には「評価」「選抜」「失敗」「かわいい」の文字。
天井からは黒く染まったリボンが垂れ下がる。
いろはを照らす拍手は、どんどん大きくなっていく。
「主役」
「選ばれた子」
「かわいい子」
「一番の子」
いろはの表情が揺れた。
怖がっている。
でも、ほんの一瞬、嬉しそうにも見えた。
リノは胸が痛くなった。
選ばれたい。
その気持ちは、リノにも分かる。
分かってしまう。
「リノちゃん」
ミカの声がした。
リノは振り返る。
体育館の照明は落ち、生徒たちは半分夢の中のように立ち尽くしている。
今なら、一般生徒にははっきりとは見えていない。
でも、ミカとセナだけは違った。
ミカはリノを見ている。
知っている目で。
そしてセナは、まだ何も知らないまま、それでもリノから目をそらさなかった。
「白咲さん」
セナの声は震えていた。
「あなた、何を知ってるの?」
リノは胸元のブローチを握った。
時間がない。
でも、セナを置き去りにはしたくなかった。
「あとで、ちゃんと話す」
「……分かった」
セナは一度だけ深く息を吸った。
そして、驚きを飲み込むように頷いた。
「じゃあ今は、私にできることをする」
その言葉に、リノの胸が熱くなる。
「ありがとう」
リノはステージへ向き直った。
黒い観客たちの拍手が迫ってくる。
オーディエンス・ノイズの声が響く。
「もっと笑って」
「もっとかわいく」
「失敗した子はいらない」
「主役なら、最後まで立って」
リノはブローチを掲げた。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
白とピンクの光が、闇の体育館に広がった。
一般生徒たちは、その光を夢の中の出来事のように見ていた。
誰かがステージに立った気がする。
白いリボンが揺れた気がする。
でも、はっきりとは分からない。
ただ、ミカとセナだけは見ていた。
制服姿の白咲リノが、白とピンクのフリルドレスをまとった魔法少女へ変わる瞬間を。
セナは小さく息をのんだ。
「白咲さん……なの?」
リノは振り返らずに言った。
「うん」
ステッキを握る手に力を込める。
「でも今は、花守さんを助けたい」
セナはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「分かった」
リノはステージへ走る。
黒い拍手が刃のように飛んでくる。
「マジカル・リボン・シールド!」
白いリボンの盾が、拍手の衝撃を受け止める。
ぱちん。
ぱちん。
手を叩く音が、まるで石のようにリノへぶつかってくる。
そのたびに、声が響く。
「助けたい?」
「本当は見てほしいだけ」
「誰かを救えば、主役になれる」
「ありがとうって言われたいんでしょ?」
「違う……!」
リノは叫ぶ。
でも、胸の奥が揺れる。
違わない部分がある。
助けたい。
それは本当。
でも、見てほしいと思ったことも本当。
その二つを切り離せないことが、苦しかった。
「リノちゃん!」
ミカがステージ脇にあったマイクを掴んだ。
ノイズ混じりの音が体育館に響く。
「みんな、ステージから離れて! 大丈夫って言わなくていいから、まず下がって!」
ミカの声に、ぼんやりしていた生徒たちが少しだけ反応する。
焦点の消えていた目が、かすかに戻る。
セナもすぐに動いた。
床に落ちていた進行表を拾い、周囲を見渡す。
「体育館にいるのはステージ班と衣装班の一部。展示班はまだ教室にいるはず」
セナは震える声を押さえながら、はっきり言った。
「三枝さん、入口側の生徒を右へ。私はステージ側を下がらせる」
「分かった!」
セナは近くの生徒に声をかける。
「こっち。壁沿いに移動して。走らないで」
その姿は、いつもの優等生のままだった。
でも、前とは違う。
全部を一人で抱えるためではなく、今ここにいる誰かを動かすために、その力を使っている。
リノはその姿に少しだけ勇気をもらった。
しかし、オーディエンス・ノイズは体育館だけで終わらなかった。
壁から伸びた黒いリボンが、扉の隙間を抜けて廊下へ広がっていく。
ミミルが叫ぶ。
「リノ! 学校全体に広がる!」
リノが振り返った瞬間、体育館の天井に星の光が走った。
「スターライト・バリア!」
ルル先輩の声。
体育館の上部に星の結界が広がり、黒いリボンの一部を押し戻した。
入口付近に、魔法少女姿のルル先輩が立っていた。
「遅くなってごめん」
「ルル先輩!」
「これは厄介だね。拍手と期待を媒介にして広がってる」
ルル先輩は杖を構えた。
「体育館だけじゃない。教室の文化祭準備にも糸が伸び始めてる」
「止められますか?」
「抑えることはできる。でも、中心をほどかないと無理」
中心。
リノはステージ中央を見る。
黒いスポットライトの中に、いろはがいる。
いろはは両手で自分の腕を抱きしめていた。
顔は青ざめている。
それなのに、黒い観客たちは拍手をやめない。
「主役」
「選ばれた子」
「もっと笑って」
「もっとかわいく」
「失敗しないで」
「期待に応えて」
「やめて……」
いろはの声が聞こえた。
小さな声。
「見てほしかっただけなのに」
リノはステージへ向かって駆け出した。
その前に、黒い羽根が降った。
リノは足を止める。
羽根の向こうに、ノアが立っていた。
黒いリボンの魔法少女。
いつものように、冷たい笑みを浮かべている。
「楽しそうなステージだね」
「ノア……!」
ノアは黒いリボンを振るい、周囲の黒い観客をまとめて薙ぎ払った。
拍手が一瞬途切れる。
「拍手くらいで壊れるなら、最初からステージになんて立たなきゃいいのに」
その言葉に、リノは胸がざわついた。
「立ちたかった気持ちまで、否定しないで」
ノアはリノを見る。
「じゃあ、あなたが受け止めてみなよ」
黒いリボンが、リノの足元に伸びる。
「その子の拍手も」
ノアの目が細くなる。
「あなた自身の欲しさも」
リノは言い返せなかった。
オーディエンス・ノイズの声が、今度はリノに集中する。
「助けたい?」
「本当は見てほしいだけ」
「主役になれなかった子を助けたら」
「あなたが主役になれるよ」
「選ばれなかった子同士、手を取り合えばいい」
違う。
そう言いたい。
でも、声が喉で止まる。
リノの視界に、黒い観客が映る。
その顔のない影たちが、全部自分を見ている。
怖い。
でも、ほんの少しだけ。
見られていることが、嬉しい。
その自分に気づいた瞬間、リノの胸元のリボンが熱を持った。
白い布地に、黒い染みが走る。
今までよりも速く。
じわり、ではない。
黒いインクを落としたように、一気に広がっていく。
「リノちゃん!」
ミカの叫びが聞こえた。
セナもリノを見る。
「白咲さん!」
ルル先輩の星の杖が震える。
「まずい……リボンが」
ノアは黙っていた。
ただ、リノを見ていた。
その目には、笑みがなかった。
リノは胸元を押さえる。
黒く染まっていくリボン。
きしむ灰色の糸。
ステッキのハートの光が、少しだけ濁る。
客席の影たちが、一斉に拍手した。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
それは、いろはを選ぶ音だった。
そして、リノの奥に眠っていた声を起こす音だった。
「見てほしいって思うことは」
リノは黒いスポットライトの中で呟いた。
自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえる。
「そんなに悪いことなの?」
拍手が大きくなる。
体育館の闇が、リノを歓迎するように広がっていく。
ミカがもう一度叫んだ。
「リノちゃん!」
その声は届いている。
届いているはずなのに。
黒い拍手の音が、それを少しずつ遠ざけていった。




