第14話 中途半端な子の戦い
旧天文台は、町の外れの丘の上にあった。
今はもう使われていない建物だ。
白かったはずの壁は雨風でくすみ、丸いドームの屋根には、ところどころ黒い錆が浮いている。
入口へ続く石段には雑草が伸び、古びた案内板は半分ほど文字がかすれていた。
夕方と夜の境目。
空の端に残った赤い光が、ゆっくりと沈んでいく。
リノは石段の前で立ち止まった。
胸元のブローチが、かすかに熱い。
「ここが、旧天文台……」
隣でミカが小さく呟く。
その声には、少しだけ緊張が混ざっていた。
ミカは魔法少女ではない。
けれど、もう何も知らないままではいられない。
そう言って、ここまで一緒に来てくれた。
リノはそのことが嬉しくて、同時に怖かった。
「ミカちゃん、本当に大丈夫?」
「大丈夫、って言ったら嘘になるかも」
ミカは少し困ったように笑った。
「でも、来たいって思ったのは本当」
「……そっか」
「うん。それに、リノちゃんが大丈夫じゃない時、隣にいるって言ったし」
その言葉に、リノの胸元のリボンがほんの少し温かくなる。
白いリボン。
黒い染み。
灰色の糸。
淡い桜色の光。
その全部が、今のリノの中にある。
前を歩いていたルル先輩が、石段の上から振り返った。
「旧天文台は、黒い星が初めて観測された場所だよ」
ルル先輩の声は落ち着いている。
でも、その横顔は少し硬かった。
胸元の欠けたリボンを、無意識に指先で押さえている。
ミミルはリノの肩の上で、耳を伏せていた。
「ここは、あまり長くいたくない場所だね」
「ミミルも、来たことあるの?」
リノが尋ねると、ミミルは小さく頷いた。
「あの夜、ノアを追ってここまで来た」
あの夜。
ノアの白いリボンが黒く染まった夜。
ルル先輩のリボンが欠けた夜。
黒い星が、初めてはっきり瞬いた夜。
リノは足元を見る。
石段の隙間に、黒い羽根が落ちていた。
風もないのに、それはふわりと浮き上がる。
羽根の先が、旧天文台の扉を指した。
まるで招いているみたいに。
「行こう」
リノは言った。
声は少し震えていた。
けれど、引き返したいとは思わなかった。
石段を上るたびに、空が暗くなる。
一段。
また一段。
町の明かりが背中の方で遠くなる。
旧天文台の扉は、少しだけ開いていた。
中から、冷たい空気が流れてくる。
リノが扉に手をかけると、黒いリボンが内側から伸びてきた。
扉を押し開けるように、するりとほどける。
その先に、ノアがいた。
天文台の中央。
古い望遠鏡の前に、黒いリボンの魔法少女が立っている。
夜よりも深い黒のドレス。
黒い羽根のようなケープ。
胸元のリボンは、あの日からずっと黒いまま。
ノアは振り返った。
「来たんだ」
いつものように笑っている。
でも今日は、その笑みが少しだけ疲れて見えた。
「待ってるって言ったでしょ」
リノは一歩前に出た。
「ノアが呼んだから」
「素直だね、白い子」
「白だけじゃない」
リノが言うと、ノアは薄く笑った。
「そうだった。中途半端な子」
その言い方は意地悪だった。
でも、リノはもうそこに前ほど刺されなかった。
中途半端。
たぶん、それは間違っていない。
白にも黒にもなりきれない。
誰かを救いたいのに、自分も救われたい。
誰かを守りたいのに、傷つけることが怖い。
でも、それでもいいと思いたい。
「今日は、話してくれるんだよね」
リノが言うと、ノアは望遠鏡に手を置いた。
古い金属が、ぎしりと鳴る。
「私の話を聞きたいんでしょ?」
「うん」
「聞いたら、救える気になる?」
「分からない」
リノは正直に答えた。
「でも、聞かないまま決めたくない」
ノアの目が細くなる。
「そういうところ、嫌いじゃないよ」
それは、褒め言葉なのか分からなかった。
ノアはゆっくりと天井を見上げる。
古いドームの隙間から、夜空が見える。
雲はない。
星がいくつか瞬いている。
けれど、その奥に。
黒い星があった。
目で見えるはずがないのに、そこにあると分かる。
光らない星。
影だけで瞬く星。
「ここで、灯里が泣いた」
ノアの声が静かに落ちた。
リノたちは何も言わなかった。
「町中のノイズが集まって、灯里の声も混ざって、何が誰の痛みなのか分からなくなった」
ノアは望遠鏡のレンズに指先を当てる。
「でも、灯里の声だけは聞こえた」
来ないで。
助けて。
ノアを返して。
私のせいで壊れないで。
リノの胸が痛む。
ノアはその声を全部聞いた。
矛盾していて、苦しくて、受け止めきれないほどの声を。
「灯里は、私に来ないでって言った」
ノアは笑った。
笑っているのに、声が冷えている。
「でも、そんなの無理だった」
「どうして?」
ミカが思わず尋ねた。
ノアの視線がミカに向く。
ミカはびくりとしたけれど、逃げなかった。
ノアは少しだけ黙ってから答えた。
「灯里が泣いてたから」
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
泣いている子を見捨てられなかった。
大切な友達が苦しんでいるのを、止められなかった。
ノアはきっと、ただそれだけで走ってしまった。
「灯里は、私にとって唯一だった」
ノアは言った。
「魔法少女じゃない私を見てくれる子だった。助けた数とか、浄化の成功とか、善悪値とか、そういうものじゃなくて」
ノアの指先が、黒いリボンに触れる。
「ただ、私を見てくれる子だった」
リノは黙って聞いた。
「でも、だから怖かった」
「怖い?」
「灯里の前で弱くなったら、私はどこにも戻れなくなる気がした」
ノアの笑みが少し崩れる。
「魔法少女としても、普通の女の子としても、どっちにもいられなくなる気がした」
その言葉に、リノは息を止めた。
自分にも分かる気がした。
誰かに弱いところを見せるのは怖い。
助ける側でいたいのに、助けられる側になるのは怖い。
必要とされたいのに、必要としている自分を見られるのは怖い。
ノアは自分の胸元を見下ろした。
「だから、私は大丈夫って言い続けた」
黒いリボンが、ゆっくり揺れる。
「痛いって言わなかった。怖いって言わなかった。止めてって言わなかった」
ノアは少しだけ目を伏せた。
「その結果が、これ」
黒いリボンが広がった。
天文台の床を這い、壁を登り、古いドームの内側へ伸びていく。
リノは反射的にステッキを握ろうとした。
けれど、まだ変身していないことに気づく。
ノアは言った。
「私は、灯里を救った」
黒いリボンが天井に届く。
「でも、灯里は私を見て泣いた」
ドームが軋む。
「助けたのに、泣かせた」
空気が震えた。
それはノアの声なのか、天文台の声なのか分からなかった。
黒い星が、天井の向こうで大きく瞬いた。
ミミルが叫ぶ。
「まずい、ノア! ここはもう黒い星に近すぎる!」
「知ってる」
ノアは静かに言った。
「だから呼んだんだよ」
「え?」
リノが聞き返した瞬間、旧天文台全体が大きく揺れた。
床にひびが入る。
壁に貼りついていた古い星図が、黒く染まっていく。
望遠鏡のレンズが、ぎょろりと目のように動いた。
「見たい」
「見たくない」
「覚えている」
「忘れたい」
「助けた」
「壊した」
「返して」
「返せない」
いくつもの声が重なった。
リノの耳に、町中のざわめきが流れ込んでくる。
遠くの学校。
駅前。
商店街。
住宅街。
誰かの小さな不安が、黒い星に引っぱられていた。
ミカが窓の外を見る。
「町の方……!」
旧天文台の窓から見える町の上に、黒い粒がいくつも浮かんでいた。
小さなノイズだ。
一つ、二つではない。
星屑みたいに、町中へ降り始めている。
ルル先輩の顔色が変わる。
「黒い星の欠片……」
ミミルが震える声で言う。
「ここが中心になってる。旧天文台が、黒い星と町をつないでるんだ」
ノアの黒いリボンが、さらに大きく広がった。
リノはノアを見る。
「ノア、これを止めるために私たちを呼んだの?」
ノアは答えなかった。
ただ、口元に笑みを浮かべる。
「さあ?」
「ノア!」
「止めたいなら止めれば」
ノアは黒いリボンを振る。
その瞬間、天文台の中央に巨大な影が生まれた。
古い望遠鏡。
黒い星図。
灯里の涙。
ノアの黒いリボン。
町中から集まった言えなかった声。
それらが混ざり、ひとつの巨大なノイズになる。
丸いドームの天井が、黒い宇宙へ変わっていく。
星ではなく、目が瞬く夜空。
中央には、穴のような黒い星。
そこから無数のリボンと羽根が垂れ下がっていた。
「ホロウ・スター・ノイズ……」
ルル先輩が呟く。
その声には、明らかな恐怖があった。
ホロウ・スター・ノイズは、天文台のドームそのものを体にしていた。
望遠鏡は首のように伸び、レンズの奥に黒い瞳がある。
壁から生えた星図の線が腕になり、床を這うリボンが脚のようにうねる。
その体から、町中へ黒い糸が伸びていた。
糸の先で、小型のノイズが生まれ続けている。
「助けて」
「見ないで」
「置いていかないで」
「正しくして」
「壊さないで」
「選んで」
「忘れて」
「覚えていて」
声が、降ってくる。
雨のように。
星屑のように。
痛みの欠片のように。
ミカが耳を押さえた。
「声が……多すぎる……!」
リノはすぐにミカの前へ立つ。
「ミカちゃん、下がって!」
「でも!」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫にする!」
自分で言って、少し変な言葉だと思った。
でもミカは、泣きそうな顔で頷いた。
「うん!」
リノは胸元のブローチを握る。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
白とピンクの光が広がる。
フリルのドレス。
リボンのステッキ。
胸元の白いリボンに走る黒い染みと灰色の糸。
ルル先輩も星のブローチに触れる。
「マジカル・スター・ドレスアップ!」
星の光が舞い、淡い紫と星空の青のドレスが現れる。
欠けたリボンが、静かに揺れた。
ノアはすでに魔法少女の姿のまま、黒いリボンを構えている。
リノはノアに言った。
「一緒に戦って」
ノアは眉を上げる。
「命令?」
「お願い」
「私に?」
「うん」
リノはまっすぐノアを見る。
「ノアひとりで受け止めたら、また壊れる」
ノアの表情が、ほんの一瞬だけ険しくなる。
「壊れた子に言う言葉じゃないね」
「じゃあ、ほどける前に言う」
リノはステッキを構えた。
「ひとりで抱えないで」
ノアは黙った。
ホロウ・スター・ノイズが叫ぶ。
黒い星図の腕が振り下ろされる。
「スターライト・バリア!」
ルル先輩が星の盾を張る。
けれど、衝撃が重すぎる。
バリアにひびが入った。
「っ……!」
「先輩!」
リノが白いリボンでバリアを支える。
ミカは後ろで、落ちてくる資料や星図の破片を避けながら叫んだ。
「町の方、黒い糸が増えてる!」
窓の外。
町の上空に伸びた黒い糸から、小型ノイズが次々と落ちていく。
今すぐ止めなければ、町全体が巻き込まれる。
ルル先輩が歯を食いしばった。
「私が星の結界で町側への拡散を抑える」
「ひとりでできますか?」
リノが聞くと、ルル先輩は少しだけ笑った。
「大丈夫、とは言わない」
その言葉に、リノは頷いた。
「じゃあ、私が支えます」
ルル先輩は目を細める。
「ありがとう」
ノアが小さく息を吐いた。
「甘いね」
そして、黒いリボンを一気に広げる。
そのリボンは天文台の床を走り、ホロウ・スター・ノイズの脚を絡め取った。
「ブラック・リボン・バインド」
黒いリボンが、巨大なノイズを縛る。
ホロウ・スター・ノイズが暴れた。
黒い糸が何本も切れ、町へ向かう欠片が少しだけ減る。
でも、同時にノアの胸元のリボンが濃く光った。
黒が、さらに深くなる。
リノは叫ぶ。
「ノア、それ吸い込んでない!?」
「少しね」
「だめ!」
「黙って。これが一番早い」
ノアの黒いリボンが、ホロウ・スター・ノイズの痛みを吸い上げる。
泣き声。
叫び声。
言えなかった言葉。
灯里の声に似た何か。
それがノアへ流れ込んでいく。
ノアの表情は変わらない。
でも、指先がわずかに震えていた。
リノは走り出す。
「マジカル・リボン・グレイス!」
白と灰色と淡い桜色のリボンが、ノアの黒いリボンに重なる。
ノアは目を見開いた。
「邪魔しないで」
「邪魔じゃない」
リノは黒いリボンの横に立つ。
「隣にいるだけ」
ノアの顔が揺れた。
ほんの少しだけ。
その一瞬、ホロウ・スター・ノイズの攻撃がリノへ向かった。
黒い星図の腕が、横から薙ぎ払う。
「リノちゃん!」
ミカが叫ぶ。
リノは避けきれない。
そう思った瞬間、黒いリボンがリノの体を引いた。
ノアだった。
リノはノアのすぐ横に引き寄せられる。
星図の腕が、二人の目の前を通り過ぎた。
「ぼーっとしないで」
ノアは顔をそらしたまま言った。
「ありがとう」
「言わなくていい」
「言うよ」
「ほんと、面倒」
そのやり取りに、リノは少しだけ笑いそうになった。
でもすぐに、次の攻撃が来る。
ルル先輩が杖を掲げた。
「ステラ・プロテクト・フィールド!」
天文台の床に星座の円が広がる。
そこから光の柱が立ち上がり、町へ伸びる黒い糸を包み込んだ。
窓の外で、町に落ちかけていた黒い欠片がいくつか消える。
けれど、まだ多い。
ホロウ・スター・ノイズは天文台全体を震わせる。
ドームの内側に、たくさんの幻が映った。
泣いている灯里。
白いリボンのノア。
欠けたリボンを押さえるルル。
教室で笑えなくなったアヤメ。
鏡の中で笑うリノ。
リボンケージの中で膝を抱えるリノ。
そして、町の人たちの影。
誰もが、言えなかった言葉を抱えていた。
「多すぎる……」
リノは息をのむ。
こんなにたくさんの痛みを、どうやってほどけばいいのか分からない。
ホロウ・スター・ノイズの声が響く。
「全部聞いて」
「全部救って」
「ひとつも落とさないで」
「できないなら、最初から助けるって言わないで」
リノの胸が締めつけられる。
できない。
全部は救えない。
全部を聞いたら、ノアみたいに壊れてしまうかもしれない。
全部を正しく扱おうとしたら、ルル先輩みたいに誰かを傷つけてしまうかもしれない。
それでも。
「リノちゃん!」
ミカの声が響いた。
振り返ると、ミカが散らばった資料の中から、古い避難用の放送マイクを見つけていた。
「これ、まだ使えるか分からないけど、町に届くかも!」
リノは目を見開く。
旧天文台には、昔使われていた町内放送設備が残っていたのかもしれない。
ミカは震える手でスイッチを入れる。
ざざ、とノイズが走った。
ホロウ・スター・ノイズの声が混ざる。
ミカは怖そうに息を吸った。
それでも、マイクに向かって言った。
「聞こえている人がいたら、落ち着いてください!」
声が天文台に反響する。
そして、外へ広がっていく。
「黒い影を見ても、ひとりで近づかないでください! 近くの明るい場所に集まってください!」
ミカの声は震えていた。
でも、はっきりしていた。
「誰かが怖がっていたら、一緒にいてあげてください! 大丈夫って無理に言わせなくていいです!」
リノの胸が熱くなる。
戦えなくても、ミカは戦っている。
魔法ではなく、言葉で。
誰かの隣にいるために。
窓の外で、小型ノイズの動きが少し鈍った。
町のあちこちに、人の明かりが集まり始める。
ひとりで抱えていた不安が、少しずつ隣の誰かへ渡っていく。
ルル先輩が微笑んだ。
「すごいね、三枝さん」
ミカはマイクを握りしめたまま叫ぶ。
「リノちゃん、今!」
リノは頷いた。
ノアとルル先輩を見る。
「町の糸を切るんじゃなくて、結び直そう」
ルル先輩がすぐに理解する。
「星図にするんだね」
ノアは顔をしかめる。
「またきれいごと?」
「うん。たぶん」
リノは笑わずに答えた。
「でも、試したい」
ノアはしばらくリノを見ていた。
そして、小さく舌打ちする。
「失敗したら、私が全部飲み込む」
「飲み込ませない」
「本当に面倒」
でもノアは、黒いリボンを引いた。
ホロウ・スター・ノイズを縛るのではなく、町へ伸びる黒い糸を一か所へ集めていく。
ルル先輩が星の杖を掲げた。
「ステラ・チャート・フィールド!」
天文台のドームに星図が広がる。
黒い糸が星の線になる。
町中の痛みの欠片が、ばらばらのノイズではなく、ひとつの大きな星座として浮かび上がる。
リノは胸元のリボンを握った。
灰色の糸が光る。
「マジカル・リボン・スターチャート!」
リノのリボンが星図へ伸びる。
白い光が、黒い糸を消そうとする。
でもリノは、消さない。
黒い痛みを黒いまま見つめる。
白い光で隠さない。
全部を自分の中へ吸い込まない。
灰色のリボンが、糸と糸の結び目を探す。
痛みをほどき、孤独を結び直す。
「全部は救えない」
リノは言った。
ホロウ・スター・ノイズの巨大な目がリノを見る。
「でも、全部をひとりにもしない」
ミカの声が、町へ響く。
「近くの人と一緒にいてください!」
ルル先輩の星の光が、町を包む。
「見守るよ。決めつけないために」
ノアの黒いリボンが、暴れるノイズを押さえる。
「……落ちる分は、私が拾う」
リノはノアを見る。
ノアは目をそらした。
「見ないで」
「見るよ」
「最悪」
それでも、ノアはリボンを離さなかった。
三つの魔法が重なる。
白いリボン。
黒いリボン。
星の光。
その中心に、灰色の糸が通る。
ホロウ・スター・ノイズが叫んだ。
「助けて」
「来ないで」
「見つけて」
「忘れて」
「ひとりにしないで」
リノはステッキを両手で握る。
「ひとりにしない」
胸元のリボンから、淡い桜色の光が広がった。
「でも、私ひとりで抱えない」
その言葉とともに、星図が大きく輝いた。
町へ降り注いでいた黒い欠片が、夜空へ吸い上げられていく。
小型ノイズが光になってほどける。
天文台のドームに浮かんだ黒い宇宙が、少しずつ本物の夜空へ戻っていく。
ホロウ・スター・ノイズの体が崩れ始めた。
望遠鏡の目が閉じる。
黒い星図の腕がほどける。
床を這っていたリボンが、灰色の糸に変わっていく。
最後に、黒い星の中心から、小さな声がした。
「覚えていて」
リノは頷いた。
「忘れない」
ホロウ・スター・ノイズは、星屑のように散った。
旧天文台に、静けさが戻る。
ミカはマイクを握ったまま、その場に座り込んだ。
「こ、怖かった……」
リノは駆け寄る。
「ミカちゃん!」
「大丈夫じゃないけど、怪我はない……と思う」
「よかった」
リノは胸をなで下ろした。
ルル先輩は杖を下ろし、息をつく。
かなり消耗しているようだった。
ミミルは天文台の中央で、ほどけた黒い羽根を見つめている。
ノアは少し離れた場所に立っていた。
黒いリボンの端が、わずかに震えている。
リノはノアの方へ歩いた。
「ノア」
「来ないで」
短い拒絶。
でも、リノは足を止めなかった。
近づきすぎない距離で立ち止まる。
「さっき、助けてくれた」
「勘違いしないで。あなたが倒れたら面倒だっただけ」
「それでも、ありがとう」
ノアは眉を寄せた。
「お礼言われるの、嫌い」
「じゃあ、何て言えばいい?」
「何も言わなくていい」
リノは少し考えた。
そして言った。
「じゃあ、隣にいてくれて助かった」
ノアの表情が、ほんの少しだけ崩れた。
怒るでもなく、笑うでもなく。
泣きそうにも見えた。
「……そういう言い方、ずるい」
ノアは背を向ける。
黒い羽根が足元に集まる。
ルル先輩が呼んだ。
「ノアちゃん」
ノアは振り返らなかった。
「ルル先輩」
「何?」
「アヤメ、まだこの町にいるよ」
ルル先輩の息が止まった。
リノもミカも、ノアを見る。
ノアは静かに続けた。
「会う気があるなら、探してみれば」
「ノアちゃん、あなたは」
「私は灯里に会わない」
その声は、とても冷たかった。
でも、冷たいほどに痛かった。
「会ったら、灯里がまた泣くから」
リノは思わず言う。
「でも、灯里さんは」
「知らないくせに」
ノアは振り返った。
その目は、黒い星みたいだった。
「灯里が今、何を願ってるか。あなたは知らない」
リノは何も言えなかった。
ノアは黒い羽根に包まれていく。
「次は、町がもっと大きく揺れるよ」
「どういう意味?」
「黒い星は、もう隠れない」
ノアは夜空を見上げる。
旧天文台の壊れかけたドームの向こうで、黒い星が一度だけ大きく瞬いた。
「人の心って、思ってるより簡単に連鎖するんだよ」
その言葉を残して、ノアは消えた。
旧天文台には、星の光だけが残った。
リノは夜空を見上げる。
さっきまで町へ降っていた黒い欠片は消えている。
でも、安心はできなかった。
ノアの言葉が耳に残っている。
町がもっと大きく揺れる。
黒い星は、もう隠れない。
リノは胸元のリボンに触れた。
黒い染みは、少し濃くなっている。
でも灰色の糸も、確かに光っていた。
ミカが隣に立つ。
「リノちゃん」
「うん」
「怖いね」
「うん。怖い」
リノは正直に言った。
「でも、ひとりじゃない」
ミカは頷いた。
ルル先輩も、ミミルも、静かにリノのそばへ来る。
旧天文台の上で、夜風が吹いた。
白いリボンと、黒い羽根と、星の光が、同じ空の下で揺れている。
リノは思った。
これは、まだ始まりなのかもしれない。
小さなノイズをほどくだけでは終わらない。
町全体を巻き込む黒い星の夜が、これから何度も来るのかもしれない。
それでも。
全部をひとりで抱えない。
誰かを捨てない。
自分も捨てない。
そのために、リノはステッキを握り直した。
丘の下の町では、まだいくつもの明かりが揺れている。
その明かりのひとつひとつに、きっと誰かの言えなかった気持ちがある。
黒い星は、静かにそれを見下ろしていた。




