第13話 黒いリボンの言い分
黒い羽根に浮かんだ文字は、天文準備室の空気を一瞬で凍らせた。
――聞いたんだ。
そして、次の言葉。
――じゃあ次は、私の番だね。
リノは息を止めた。
胸元のブローチが、鼓動に合わせるように小さく震えている。
白いリボン。
黒い染み。
灰色の糸。
その全部が、窓の外にいる黒いリボンの少女へ向かって、静かに反応していた。
校舎の屋上。
そこに、黒羽ノアが立っている。
夜風に黒い髪を揺らし、黒いリボンを指先で弄びながら、こちらを見下ろしていた。
笑っている。
けれどリノには、その笑顔が泣いているようにも見えた。
「ノア……」
名前を呼んだ瞬間、天文準備室の窓に黒いリボンが走った。
カーテンのように、窓一面を覆っていく。
夕焼けの光が消えた。
部屋の温度が、一段下がる。
「リノちゃん!」
ミカがリノの袖を掴んだ。
ミミルが机の上で耳を立てる。
「来る……!」
その言葉が終わるより早く、黒い羽根が部屋中に舞った。
壁に貼られていた観測記録がはためく。
星図が揺れる。
赤い糸で結ばれていた資料が、夜の風にあおられたように震えた。
そして。
「こんばんは」
いつの間にか、ノアは天文準備室の中央に立っていた。
黒いリボンのブローチ。
黒と紫のフリルドレス。
夜の羽根のようなケープ。
彼女がいるだけで、部屋の星明かりまで黒く塗りつぶされていく気がした。
「人の過去を資料にして、みんなでお勉強?」
ノアはゆっくり周囲を見回した。
「楽しそうだね、白い子たち」
その声は軽い。
でも、言葉の先は鋭かった。
ルル先輩が一歩前に出る。
「ノアちゃん」
「その呼び方、懐かしい」
ノアは笑った。
「まだそう呼ぶんだ、ルル先輩」
ルル先輩は何か言おうとした。
けれど、ノアの方が先に口を開いた。
「相変わらずだね」
「え?」
「正しい顔して、誰かの傷を整理するのが上手」
ルル先輩の表情が凍った。
リノは思わずルル先輩を見る。
ルル先輩は何も言い返さなかった。
唇を引き結び、ただノアを見つめている。
ノアは机の上に置かれた古い観測記録に目を落とした。
黒羽ノア。
星乃ルル。
同じ日付に並んだふたつの名前。
ノアはそのページを指先でなぞった。
「間違ってはないよ」
静かな声だった。
「ルル先輩が話したこと。たぶん、だいたい合ってる」
リノは息をのむ。
「でも」
ノアは顔を上げた。
「それはルル先輩から見た話」
黒いリボンが、床の上をゆっくり這う。
まるで夜そのものが形を持ったみたいだった。
リノは胸元のブローチを握る。
「じゃあ、ノアから見たら?」
ノアはリノを見た。
その瞳は暗い。
けれど、奥でかすかに光っているものがあった。
「もっとくだらなくて」
ノアは笑う。
「もっと痛い話」
部屋の壁が歪んだ。
天文準備室の星図が、夜空へ変わっていく。
観測記録の紙がひとりでにめくれ、黒い羽根と白いリボンが混ざった幻を映し始めた。
ルル先輩が身構える。
「ノアちゃん、何を」
「大丈夫」
ノアはルル先輩を見ずに言った。
「今回は壊さないよ。ただ、見せるだけ」
その言葉を合図に、部屋は過去の夜へ沈んだ。
リノの目の前に、白いリボンの少女がいた。
黒羽ノア。
けれど、今のノアではない。
白いリボンを胸につけ、夜空のように深い青のドレスをまとっている。
髪には白いリボン。
手には白いステッキ。
その目は、今よりずっと柔らかかった。
でも、どこか必死だった。
「私はね」
今のノアの声が、幻の上から重なる。
「最初から、きれいな優しさで動いてたわけじゃない」
白いノアは、路地裏のノイズに手を伸ばしていた。
小さな影。
泣き声。
ほどけたリボン。
「助けたかったよ。本当に」
白いノアが、ノイズの声を聞く。
痛い。
見てほしい。
置いていかないで。
そのたびに、ノアは頷いていた。
「でも、それだけじゃない」
幻の中のノアが、浄化された光を見上げる。
助けられた人が、涙を流してノアに言った。
ありがとう。
その言葉を聞いた白いノアは、少しだけ安心したように笑った。
「ありがとうって言われるたびに、まだ消えなくていいんだって思ってた」
リノの胸が、強く痛んだ。
その言葉は、自分の中にもあった。
誰かを助けたら、必要とされる。
必要とされたら、ここにいていいと思える。
第8話のリボンケージ・ノイズの声が、頭の奥で蘇る。
ありがとうって言われなきゃ。
誰かの特別じゃなきゃ。
私は、ここにいられない。
ノアはリノを見た。
「分かるでしょ?」
リノは答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
ノアは小さく笑う。
「あなたも同じだよ」
黒いリボンがリノの足元に触れる。
「誰かを助けたい顔をして、本当は誰かに選ばれたい」
「……違う、とは言えない」
リノは小さく言った。
ノアの目が少しだけ細くなる。
「へえ。認めるんだ」
「認める」
リノは胸元のリボンを握った。
「でも、それだけじゃない」
ノアは笑った。
「それだけじゃないって言えば、きれいに聞こえるね」
「きれいじゃないよ」
リノの声は震えていた。
「見てほしいって思う。必要とされたいって思う。助けたから好きになってほしかったって、思った」
ミカが隣で息をのむ気配がした。
でも、リノは続けた。
「でも、その気持ちで誰かを縛りたくない」
ノアは、ほんの一瞬だけ黙った。
けれどすぐに、口元を歪める。
「それで?」
「え?」
「認めたら、何か変わった?」
ノアの声が低くなる。
「大丈夫じゃないって言えたら、全部戻るの?」
リノは言葉を失った。
「壊れたリボンが元に戻る? 泣き方を忘れた子が、もう一度泣けるようになる? 傷つけた相手が、笑って許してくれる?」
ノアは一歩近づいた。
「言葉にしたくらいで救われるなら、誰も黒くならないよ」
胸が冷える。
ノアの言葉は、正しいわけではない。
でも、間違っているとも言い切れない。
リノは唇を噛んだ。
そのとき、ミカが小さく前に出た。
「戻らなくても」
ノアの視線がミカへ向く。
ミカは少し震えていた。
けれど、逃げなかった。
「戻らなくても、隣にいることはできると思います」
天文準備室の空気が止まった。
ノアの表情が、初めてはっきり変わった。
怒り。
悲しみ。
それから、もっと古い何か。
「……何も知らないくせに」
ノアの声は、冷たかった。
「ごめんなさい。全部は知りません」
ミカはまっすぐ言った。
「でも、知らないからって、何も言っちゃいけないわけじゃないと思います」
黒いリボンが、ミカの足元で鋭く跳ねた。
リノは反射的にミカの前へ出る。
「ノア!」
ノアは笑った。
さっきよりずっと冷たい笑顔だった。
「いいね。守るんだ」
黒いリボンが部屋中に広がっていく。
「じゃあ、見せてよ」
ノアのブローチが黒く光った。
「その中途半端なリボンで、どこまで守れるか」
リノはブローチを握る。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
白とピンクの光が広がる。
制服がほどけ、フリルドレスへ変わる。
胸元の白いリボンには、黒い染みと灰色の糸。
その端に、淡い桜色がかすかに灯っていた。
リノはステッキを構えた。
ルル先輩も星のブローチに手を添える。
「私も」
「ルル先輩は黙ってて」
ノアの黒いリボンが、ルル先輩の足元に突き刺さった。
床が黒く染まる。
「あなたの正しさ、まだ痛いから」
ルル先輩の顔がこわばる。
でも、リノは首を振った。
「ルル先輩は、正しいだけじゃない」
ノアがリノを見る。
「昨日、ちゃんと大丈夫じゃないって言えた。間違えたことを、間違えたままにしないでいる」
「それで許されるの?」
「分からない」
リノは答えた。
「でも、向き合わないよりはいい」
ノアは目を細めた。
「ほんと、白いね」
「白だけじゃない」
リノの胸元で、灰色の糸が光る。
「黒だけでもない」
「じゃあ何?」
ノアが黒いステッキを振った。
「灰色?」
黒いリボンが、蛇のようにリノへ襲いかかる。
「そんな中途半端な色で!」
リノはステッキを振る。
「マジカル・リボン・シールド!」
白いリボンが盾になり、黒いリボンを受け止める。
衝撃が重い。
リノの足が後ろへ滑った。
ノアのリボンは、ただの攻撃ではなかった。
触れた瞬間、声が流れ込んでくる。
痛い。
でも痛いって言ったら、灯里が泣く。
怖い。
でも怖いって言ったら、誰も救えない。
誰か、止めて。
でも、止めないで。
私を見て。
でも、こんな私を見ないで。
「っ……!」
リノは息をのむ。
ノアの本音。
一瞬だけ流れ込んだそれは、黒くて、苦しくて、泣き声みたいだった。
「見た?」
ノアが言う。
「気持ち悪いでしょ」
「違う」
「違わないよ」
ノアはさらにリボンを振る。
黒い羽根が刃のように舞い、リノの周囲を切り裂いた。
床に置かれていた観測記録が飛び散る。
星図が破れ、赤い糸が宙へ舞う。
リノは必死に避ける。
攻撃を返そうとステッキを構えた。
でも、撃てない。
ノアを傷つけたいわけじゃない。
その迷いを、ノアは見逃さなかった。
「ほら」
黒いリボンがリノの腕に絡みつく。
「そうやって迷うから、誰も守れない」
「リノちゃん!」
ミカの声がする。
リノは振り返ろうとした。
その瞬間、別の黒いリボンが足を縛る。
体が引き倒されそうになる。
「リノ!」
ミミルが叫んだ。
ルル先輩が動こうとする。
けれどノアの黒い羽根がルル先輩の前に降る。
「来ないで」
ノアの声は静かだった。
「ルル先輩に救われるくらいなら、私は黒いままでいい」
ルル先輩の星のブローチが震える。
「ノアちゃん……」
「その顔やめて」
ノアの声が少しだけ荒くなる。
「かわいそうって顔。間違えたって顔。助けられなかったって顔」
黒いリボンが激しく揺れる。
「私は、失敗作じゃない」
リノはその言葉に胸を突かれた。
ノアは叫んだ。
「私は間違えたんじゃない!」
黒いリボンが天井まで広がる。
「白いままだと、誰も守れなかっただけ!」
その叫びは、部屋を黒く染めた。
リノの胸元のリボンが軋む。
黒い染みが熱い。
リノは腕に絡むリボンを見た。
力任せに切ることはできる。
でも、それではノアの声ごと切ってしまう気がした。
リノは目を閉じる。
聞く。
飲み込まれないように。
でも、耳を塞がないように。
灰色の糸が、胸元で光る。
「マジカル・リボン・アンタイ」
リノのステッキから、細い灰色のリボンが伸びた。
それは黒いリボンを切らなかった。
結び目を探し、そっとほどこうとする。
黒いリボンが震えた。
ノアの表情がわずかに歪む。
「何してるの」
「ほどいてる」
「やめて」
「切らない」
「やめてって言ってる!」
黒いリボンが暴れる。
リノの灰色のリボンは弾かれ、リノの体が机に叩きつけられた。
「リノちゃん!」
ミカの叫びが響く。
リノの視界が一瞬白くなる。
痛い。
でも、立たなきゃ。
リノは震える足で立ち上がる。
ノアは荒く息をしていた。
その表情には、怒りだけではなかった。
怖がっている。
ほどかれることを。
見られることを。
黒いリボンの奥にある、まだ泣いている自分に触れられることを。
リノは気づいてしまった。
ノアは、闇を選んだ強い子なんかじゃない。
白いままでいられなくなった子だ。
痛いって言えなかった子だ。
泣き方を忘れるまで、誰かの声を聞いてしまった子だ。
「ノア」
リノは小さく呼ぶ。
「私は、ノアを救いたい」
ノアの目が大きく開かれた。
次の瞬間、黒いリボンがリノの頬をかすめる。
鋭い痛みが走った。
「簡単に言わないで」
ノアの声は低かった。
「救いたいなんて」
黒い羽根が舞う。
「私の何を知ってるの?」
「全部は知らない」
「じゃあ黙ってて」
「でも、聞きたい」
リノは言った。
「ノアがどうして黒くなったのか。何が痛かったのか。何をまだ言えてないのか」
「言ったところで何になるの」
「分からない」
「ほら」
「でも」
リノはステッキを握った。
「言わないままだと、ずっとひとりになる」
ノアの動きが止まった。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬で十分だった。
ミカの声が響く。
「リノちゃん!」
その声が、リノを引き戻す。
黒いリボンに飲み込まれかけていた意識が、ミカの声でつながる。
リノの胸元に、淡い桜色が灯った。
白でも黒でも灰色でもない。
誰かが隣にいることで生まれた、小さな光。
「マジカル・リボン・グレイス!」
リノのリボンが広がる。
白い光と灰色の糸、淡い桜色が重なり、黒いリボンを押し返した。
ノアは後ろへ跳ぶ。
黒いリボンを翻し、窓辺に立つ。
部屋を覆っていた闇が、少しずつほどけていった。
ノアはリノを見た。
その目には、さっきまでの余裕はない。
けれど、負けた顔でもなかった。
「灰色の道なんて、きれいごとだよ」
ノアは静かに言った。
「白にも黒にもなれない子は、最後にいちばん苦しむ」
リノは息を整えながら、ノアを見る。
体中が痛い。
心も痛い。
でも、逃げたくなかった。
「それでも」
リノは言った。
「私はまだ、選びたくない」
「何を?」
「誰かを捨てることも、自分を捨てることも」
ノアは黙った。
天文準備室の空気が、少しだけ揺れる。
ルル先輩も、ミカも、ミミルも、何も言わなかった。
ノアはやがて、小さく笑った。
「ほんと、中途半端」
「うん」
リノは頷いた。
「そうかもしれない」
ノアの笑みが、少しだけ歪んだ。
「じゃあ見せてよ」
黒い羽根が一枚、ノアの指先に現れる。
「その中途半端なリボンで」
羽根が、リノの足元へ落ちた。
「私をほどけるかどうか」
羽根に黒い文字が浮かぶ。
――旧天文台。
ルル先輩の顔色が変わった。
「旧天文台……」
ミミルも小さく震えた。
リノは羽根を拾う。
冷たい。
でも、そこには確かにノアの声が残っている気がした。
ノアは窓辺に立ったまま、夜空を見上げた。
「次は、誰かの記録じゃなくて」
黒いリボンが風に揺れる。
「私が、私の話をする」
その横顔は、いつものように強く見えた。
でもリノには、ほんの一瞬だけ見えた。
白いリボンをつけていた頃の、泣き方を忘れる前のノアが。
「待ってるよ、白い子」
ノアはそう言って、黒い羽根の中へ溶けるように消えた。
天文準備室に、静けさが戻る。
破れた星図。
散らばった観測記録。
机の上に落ちた黒い羽根。
リノはその羽根を握りしめた。
ミカがそっと近づいてくる。
「リノちゃん、大丈夫……じゃないよね」
リノは少しだけ笑った。
「うん。大丈夫じゃない」
「座る?」
「うん。座りたい」
ミカが隣にいてくれる。
ルル先輩は旧天文台という言葉を聞いたまま、青ざめた顔をしていた。
ミミルは机の端で、黒い羽根を見つめている。
誰も、すぐには動けなかった。
でも、リノの中にはひとつだけはっきりした気持ちがあった。
ノアを怖いと思う。
黒いリボンに触れるのは、苦しい。
でも。
あの子を、ひとりのままにしたくない。
リノは胸元のリボンに触れた。
白いリボン。
黒い染み。
灰色の糸。
淡い桜色の光。
まだ、道とは呼べないかもしれない。
でも、歩きたいと思った。
誰かを捨てることも。
自分を捨てることも。
どちらも選ばないために。
窓の外では、黒い星が静かに瞬いていた。




