第11話 黒い星の観測記録
天文準備室の扉は、少し重かった。
リノが取っ手に手をかけると、古い金具が小さく鳴る。
きい、と音を立てて開いた先には、思っていたよりも薄暗い部屋が広がっていた。
窓には黒い遮光カーテン。
壁には星座表。
棚には天体望遠鏡の部品や、古い観測ノートがぎっしり詰まっている。
けれど、それだけではなかった。
壁の一角に、新聞の切り抜きや写真、手書きのメモが貼られている。
赤い糸でつながれた紙の中心には、黒い星の絵があった。
その周りには、いくつもの言葉。
黒い羽根。
ノイズ。
善悪値。
白いリボン。
黒いリボン。
心の声。
見える子。
聞こえる子。
リノは思わず息をのんだ。
「……すごい」
隣でミカも、目を丸くしている。
ミミルはリノの鞄の中から、そっと顔を出した。
「ここまで調べてたなんて……」
部屋の奥から、ルル先輩の声がした。
「ようこそ、星を見る部屋へ」
見ると、星乃ルル先輩が机の前に立っていた。
いつもの制服姿。
星のヘアピン。
ふわりとした笑顔。
けれど昨日、図書室で見た姿を、リノはもう知っている。
白と淡い紫、星空の青をまとった魔法少女。
片方が欠けた胸元のリボン。
優しい光の奥に残っていた、古い痛み。
ルル先輩は軽く首を傾げた。
「まあ、本当に見てるのは星じゃなくて、人の心かもしれないけど」
リノは部屋の中へ一歩入った。
床には本が積み重なっている。
机の上には観測記録らしいノートが何冊も開かれていた。
古い写真もある。
夜の公園。
商店街。
学校の屋上。
黒い羽根が落ちた路地。
そして、空に浮かぶ黒い点。
ミカが小さく呟く。
「これ、全部ルル先輩が?」
「うん。少しずつね」
ルル先輩は机の上のノートを一冊閉じた。
「最初は、ただの星の観測だったんだよ。黒い星が落ちた夜、空に変な影が見えたから」
「黒い星は、落ちたんですよね?」
リノが尋ねると、ルル先輩は少しだけ黙った。
そして首を横に振る。
「たぶん、違う」
「違う?」
「落ちたんじゃない。見えるようになっただけ」
部屋の空気が、少し冷えた気がした。
ミミルが耳を伏せる。
「ルル……」
「ミミルは知ってたんだよね?」
ルル先輩の声は責めるものではなかった。
でも、ミミルは小さく視線を落とした。
「全部じゃない。でも……ノイズは、黒い星が落ちる前からあった」
リノは胸元のブローチを握る。
「人の心の中に、ずっとあったってこと?」
「うん」
ミミルは頷いた。
「寂しさとか、怒りとか、見てほしい気持ちとか。そういうものは、ずっと前からあった。ただ、形になりにくかっただけ」
ルル先輩が壁の黒い星の絵を見上げる。
「黒い星の夜から、それが見えるようになった。聞こえるようになった。心の奥にあったものが、ノイズとして外に出やすくなった」
「じゃあ、黒い星って……」
ミカが不安そうに言う。
「人の心を、壊すものなんですか?」
「壊す、というより」
ルル先輩は少し考えた。
「隠れていたものに、光を当ててしまうものかもしれない」
「光なのに、黒いんですね」
リノが言うと、ルル先輩は少しだけ笑った。
「うん。変だよね」
でも、その笑顔はすぐに消えた。
「でもね、黒いから悪い、白いから正しい、とは限らない」
その言葉に、リノは胸元のリボンを思い出した。
白いリボン。
黒い染み。
灰色の糸。
昨夜、ミカと手をつないだときに灯った、淡い桜色。
ルル先輩はリノを見た。
「白咲さんのリボンは、もう真っ白じゃない」
リノは反射的に胸を押さえた。
ミカがリノの方を見る。
心配そうな目だった。
「でも、それは失敗って意味じゃないよ」
「え?」
リノは顔を上げた。
ルル先輩は静かに続ける。
「真っ白でいようとしすぎると、自分の声が聞こえなくなる。真っ黒になりすぎると、誰かの声が聞こえなくなる」
その言葉は、リノの胸にゆっくり落ちた。
「ルル先輩は……白くなりすぎたんですか」
言ったあとで、リノは少し後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない。
けれどルル先輩は怒らなかった。
むしろ、少しだけ寂しそうに笑った。
「うん。たぶんね」
ルル先輩は古いノートを開いた。
そこには、いくつもの数値と記録が書かれていた。
善悪値。
感情反応。
ノイズ発生地点。
浄化結果。
その中に、何度も同じ名前が出ている。
久遠アヤメ。
リノはその名前を見た。
「久遠……アヤメ?」
ルル先輩の指が、ページの上で止まる。
「私の友達だった子」
だった。
その言い方が、少しだけ引っかかった。
ミカも、何かを感じたように黙っている。
「アヤメは、すごく静かな子だった。何でも笑って流す子で、嫌なことを言われても、傷ついてないふりをするのが上手だった」
ルル先輩の声は穏やかだった。
でも、手元のノートを押さえる指に少し力が入っていた。
「私は、その子を救いたかった」
リノは何も言わずに聞いた。
「でも、私はアヤメの声を聞く前に、正しいと思うことをしてしまった」
「正しいと思うこと……?」
「いじめていた子たちを止めた。先生に話した。アヤメを守るために、全部を表に出した」
それだけ聞けば、間違っていないように思えた。
でもルル先輩の表情は暗い。
「私は、アヤメを助けたつもりだった。でもアヤメは、まだ自分で言う準備ができていなかった」
リノの胸が痛んだ。
図書室で現れた、秘密を閉じ込めるノイズの声を思い出す。
見ないで。
知られたくない。
言えないまま閉じていたい。
「アヤメは、私に言ったの」
ルル先輩は目を伏せた。
「ルルちゃんは正しいね。でも、私の気持ちはどこにあるのって」
天文準備室が静まり返る。
ミミルは何も言わなかった。
ルル先輩は続ける。
「私は悪いことをしたつもりはなかった。助けたかっただけ。だから、余計に怖いんだ」
小さく息を吸う音がした。
「正しいと思って誰かを傷つけることもあるって、知ってしまったから」
リノは胸元のリボンを握った。
白くなりすぎる。
それは、きっと「良い子でいること」と似ている。
誰かを助けたい。
間違えたくない。
正しくありたい。
その気持ちは悪いものではない。
でも、相手の声を聞かないまま「正しい救い」を押しつけたら、それは救いではなくなるのかもしれない。
「ノアは」
ルル先輩がぽつりと言った。
リノは顔を上げた。
「ノアを知ってるんですか?」
「名前を知ったのは最近。でも、黒いリボンの子は見たことがあった」
ミミルの耳が小さく震える。
ルル先輩は壁に貼られた一枚の写真を見た。
夜の屋上。
ぼやけた写真の端に、黒い羽根のようなものが写っている。
「ノアちゃんは、自分を守るために黒くなった子なんだと思う」
ルル先輩は言った。
「私は、正しくあろうとして白くなりすぎた」
リノの胸が、静かに鳴った。
白に寄りすぎた魔法少女。
黒に寄りすぎた魔法少女。
その間に、自分がいる。
白いリボンに、黒い染みと灰色の糸を抱えたまま。
「じゃあ、私は……」
リノは小さく呟いた。
ルル先輩がリノを見る。
「白咲さんは、まだ選べる」
「選ぶ……?」
「白だけにならなくてもいい。黒だけにならなくてもいい」
ルル先輩は優しく言った。
「誰かを救いたい気持ちも、自分を守りたい気持ちも、どちらも捨てなくていい」
リノは言葉を失った。
その言葉は、昨日からずっと胸の奥で探していたものに近かった。
誰かを助けたい。
でも、本当は見てほしい。
優しくしたい。
でも、自分も助けられたい。
それらを全部、片方だけに決めなくてもいいのだとしたら。
「それが、灰色の道……ですか」
リノが言うと、ルル先輩は少し驚いた顔をした。
それから、柔らかく笑った。
「いい言い方だね」
ミカがリノの隣で小さく頷く。
「私は、その方がリノちゃんらしい気がする」
「私らしい……?」
「うん」
ミカは少し照れたように笑った。
「リノちゃん、白だけでも黒だけでもなさそうだから」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ」
リノは少しだけ笑った。
その瞬間、胸元のブローチが微かに温かくなった。
白い光でもない。
黒い影でもない。
灰色の糸が、ほんの少しだけ柔らかく光った気がした。
けれど、穏やかな時間は長く続かなかった。
部屋の壁に貼られていた観測記録が、かさりと音を立てた。
一枚、また一枚と紙が揺れる。
赤い糸が勝手にほどけていく。
ルル先輩の表情が変わった。
「……まずい」
「ノイズ?」
ミミルが耳を立てる。
「うん。近い」
壁の黒い星の絵から、墨のような影がにじみ出した。
写真。
新聞記事。
手書きのメモ。
観測記録。
それらが次々に浮き上がり、空中でぐるぐると回り始める。
「見ないで」
声がした。
リノはステッキを握るように、胸元のブローチに手を当てる。
「記録しないで」
紙片が重なり合い、巨大な目のような形になった。
中心には黒い星。
その周りを、たくさんのメモがまぶたのように取り囲んでいる。
「わたしを、資料にしないで」
ルル先輩が一歩下がった。
顔色が悪い。
「オブザーブ・ノイズ……」
その声は震えていた。
「私の記録から生まれたんだ」
「ルル先輩の?」
「うん」
ルル先輩は唇を噛む。
「私は、知りたかった。黒い星のことも、ノイズのことも、魔法少女のことも。でも……誰かの痛みを、ただの記録みたいに扱ってしまっていたのかもしれない」
オブザーブ・ノイズが、壁一面の紙を大きく広げる。
「見ないで」
「名前をつけないで」
「痛みを分類しないで」
「わたしは、資料じゃない」
その声は、ルル先輩に向かっていた。
ルル先輩の星のブローチが微かに光る。
けれど、その光は揺らいでいる。
「先輩」
リノが声をかける。
ルル先輩は笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「大丈夫。これは、私が」
「大丈夫じゃないなら、言ってください」
リノの言葉に、ルル先輩は動きを止めた。
リノは一歩前へ出る。
「昨日、先輩も言ってくれました。大丈夫じゃないかもって」
「白咲さん……」
「だから、今は一緒に向き合いましょう」
ミカも隣に立った。
「私も、見たものをなかったことにはしたくないです」
ルル先輩がミカを見る。
ミカは少し怖そうだった。
でも、逃げなかった。
「知らないままの方が怖いって思ったから、ここに来ました」
オブザーブ・ノイズの目が、三人を見下ろす。
見られる。
それは怖い。
自分の痛みを勝手に覗かれること。
名前をつけられること。
記録されること。
リノにも、その怖さは分かった。
でも。
「見ることと、決めつけることは違うと思います」
リノは言った。
オブザーブ・ノイズの動きが止まる。
「でも、見たなら、ちゃんと向き合わなきゃいけない」
ルル先輩は静かに息を吸った。
「そうだね」
星のブローチが光る。
「私は、もう一度ちゃんと見る。記録じゃなくて、声として」
ルル先輩の姿が星の光に包まれる。
「マジカル・スター・ドレスアップ」
白と淡い紫、星空の青をまとった魔法少女の姿。
欠けたリボンはそのまま。
でも、その光は昨日より少しだけ澄んでいた。
リノもブローチを握る。
「マジカル・リボン・ドレスアップ!」
白とピンクの光が広がる。
胸元のリボンには、黒い染みと灰色の糸。
そして、ほんの少しの桜色。
リノはステッキを構えた。
オブザーブ・ノイズが、無数の観測記録を刃のように飛ばす。
ルル先輩が杖を振る。
「スターライト・バリア!」
星の盾が紙片を受け止める。
けれど、紙片に書かれた言葉が盾に染み込む。
ノイズ発生。
感情反応。
浄化失敗。
善悪値低下。
対象者、観測不能。
ルル先輩の顔が歪む。
「っ……」
「先輩!」
リノがリボンを伸ばし、盾を支える。
ミカは後ろで、散らばった紙を押さえた。
「これ、全部大事な記録なんですよね?」
「うん」
ルル先輩が答える。
「でも、ただ貼っておくだけじゃなくて、ちゃんと向き合わなきゃいけなかった」
オブザーブ・ノイズが叫ぶ。
「見ないで!」
「でも、見つけて!」
「名前をつけないで!」
「でも、忘れないで!」
矛盾した声。
けれど、リノには分かった。
見られたくない。
でも、誰にも気づかれないのは苦しい。
秘密のノイズと少し似ている。
ルル先輩が杖を掲げる。
「ステラ・チャート!」
星の光が空中に散り、天文図のように点を結ぶ。
リノはそれに合わせてステッキを振った。
「マジカル・リボン・スターチャート!」
リノのリボンが星の点を結んでいく。
観測記録の紙片が、乱暴に貼られた資料ではなく、夜空に浮かぶ星座のように並び直されていく。
ひとつひとつの痛みが、ただの記録ではなくなる。
帰る場所を探す星のように、静かに光り始める。
「あなたを資料にしない」
リノは言った。
「でも、あなたの痛みをなかったことにもしない」
ルル先輩が続ける。
「ごめんね。見方を間違えていた」
オブザーブ・ノイズの巨大な目が揺れる。
「忘れないで」
小さな声がした。
リノは頷いた。
「忘れない」
灰色のリボンが、星図の中心にそっと結ばれる。
黒い星の絵が、ひとつ瞬いた。
次の瞬間、オブザーブ・ノイズは光の粒になってほどけた。
天文準備室に、静けさが戻る。
壁に貼られていた資料は、さっきより整っていた。
赤い糸は乱れておらず、ひとつひとつの記録が星座のようにつながっている。
ルル先輩は、その壁を見つめていた。
「……ありがとう」
「私、何かできましたか?」
リノが言うと、ルル先輩は笑った。
「できたよ」
その笑顔は、少しだけ軽く見えた。
ミカが床に落ちていた一冊の古いノートを拾う。
「あれ、これ……」
表紙はかなり古びていた。
天文部観測記録。
今のルル先輩の字ではない。
もっと古い字で、表紙にそう書かれている。
ルル先輩の顔色が変わった。
「それ、一番古い記録……」
ミカはそっとノートを机に置いた。
リノたちは、そのページを開く。
古い紙の匂いがした。
最初のページには、黒いインクで日付が書かれている。
黒い星が、初めて観測された夜。
その下に、ふたつの名前があった。
黒羽ノア。
リノの呼吸が止まる。
そして、その隣にもうひとつ。
星乃ルル。
ふたりの名前の横には、同じ日付が書かれていた。
ルル先輩は、何も言わなかった。
ミミルも、黙っていた。
リノはノートを見つめたまま、胸元のリボンを握る。
黒い星。
黒いリボンのノア。
欠けたリボンのルル先輩。
そして、灰色の糸を抱えた自分。
その全部が、ひとつの星図みたいにつながっていく気がした。
「ルル先輩」
リノは静かに言った。
「教えてください」
ルル先輩は、ゆっくりとリノを見る。
その瞳は、星を読んでいる人の目ではなかった。
自分の過去から、もう逃げないと決めた人の目だった。
「うん」
ルル先輩は小さく頷いた。
「話すね。あの夜のこと」
窓の外では、まだ夕焼けが残っていた。
けれど東の空には、ひとつだけ早い星が光っている。
その奥で、見えない黒い星が静かに瞬いた気がした。




