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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
祝福されし者たちの冒険譚_IRIS.log

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献身

 あの怪物と再び相対するまで、二日もかからなかった。


 町へ戻って報告したあと、斡旋所も教会も一気に慌ただしくなった。採石場周辺の道は閉鎖、近隣の村へは注意喚起、正規の護衛や討伐経験者にも声がかけられた。

 けれど、相手の正体は結局分からないままだった。


 獣でもない。見たこともない魔物でもない。

 ただ危険で、異様に強い。


 俺たちも、無関係ではいられなかった。

 一度遭遇して生き残ったからこそ、地形も動きも少しは分かる。だから、補助でもいいから同行してほしい。そう頼まれて断れるほど、俺たちは割り切れていなかった。


 戦う前から、嫌な予感はしていた。


 空が低い。風が重い。

 町を出る前、剣を握る手が妙に湿っていたのを覚えている。


「アキ」


 出発前、プリストラが呼び止めた。


「なに?」


「今日は、無茶しないでね」


「お互いさまだろ」


「私はいいの」


「よくないだろ」


 いつもの軽口みたいに返したのに、プリストラは笑わなかった。

 その代わり、ほんの少しだけ目を伏せて、それから無理に口元を上げた。


「……じゃあ、お互い生きて帰ろうね」


「ああ」


 その会話が、妙に胸に残った。


 怪物は、採石場へ続く細道の途中で現れた。


 周囲には町の討伐役が四人。俺たち五人はその少し後方から支援に回る手はずだった。地形は前回より開けている。囲める。逃がしても追跡しやすい。

 少なくとも、そう考えていた。


 岩陰が弾けるように崩れ、あの異形が姿を見せた瞬間、その甘さは全部吹き飛んだ。


「来るぞ!」


 誰かの怒鳴り声。

 次の瞬間、討伐役のひとりが吹き飛ばされていた。盾ごと。人間の体が、木片みたいに。


 速すぎる。


 俺は反射で前へ出た。

 ソラも、リーフデも、プリストラも、ベゼッセンも同時に動く。


 怪物の尾が唸る。地面が裂ける。石が砕ける。

 前回より、明らかに容赦がなかった。


「右、抑えて!」


 ベゼッセンの声に合わせて俺が踏み込み、ソラが死角へ回る。プリストラの糸が前脚を絡め、リーフデが正面から拳を叩き込んだ。


 ――そのときだった。


 怪物が、初めてはっきりと止まった。


「え……?」


 俺だけじゃない。

 その場にいた全員が一瞬、動きを止めたと思う。


 リーフデの拳を受けた怪物は、前回とは違って明確に怯んでいた。

 ただの衝撃じゃない。

 もっと深い、内側へ刺さる何かを受けたみたいに、その体がぶれた。


「効いてる!」


 俺が叫ぶと、リーフデは低く息を吐いた。


「ならば、通します!」


 彼女の踏み込みは重い。拳も肘も膝も、全部が凶器みたいだった。

 美しいとか華麗だとか、そういう戦い方じゃない。

 ただ真っ直ぐで、強くて、容赦がない。


 けれどそれ以上に異様だったのは、怪物の反応だ。


 俺の接続が、勝手に触れる。

 前回みたいに深くはない。けれど、今度は確かに何かがあった。


 痛い。


 感情じゃない。

 ただの反応。

 でも確かに、そこに“痛み”だけが生まれていた。


 そして、その奥に――


 やっと、見つけた。


 言葉じゃない。

 なのに、そうとしか思えない感覚が流れ込んできて、背筋が凍った。


 怪物はリーフデを見ていた。

 俺たちじゃない。

 ただ、彼女だけを。


「リーフデさん、下がって!」


 叫んだときには遅かった。


 怪物が踏み込む。

 狙いは一直線にリーフデ。

 まるで他の全員が視界から消えたみたいな突進だった。


 ソラが割り込むように細剣を振るう。プリストラの糸が尾を引き、ベゼッセンの術が足元を崩す。

 それでも止まりきらない。


 リーフデは退かなかった。


「ソラ様の前で――」


 拳を握る。

 正面から受ける気だった。


 鈍い衝突音が響いた。

 怪物の前脚と、リーフデの拳がぶつかる。普通ならそこで吹き飛ぶ。けれど彼女は一歩だけずれて耐え、そのまま渾身の一撃を怪物の顔面へ叩き込んだ。


 怪物が、確かに苦悶みたいな動きをした。


「リーフデさん!」


「今です!」


 その声に押されるように、俺たちは一斉に攻めた。

 俺の剣が首筋を裂く。ソラの細剣が眼の下を穿つ。プリストラの糸が後脚を引き、ベゼッセンの魔術が横腹を抉る。


 押せる。

 そう思った瞬間だった。


 怪物の尾が、信じられない軌道で返った。


 狙われたのは、またリーフデだった。


 彼女はとっさに身をひねり、致命傷を避けようとした。

 でも、避けきれなかった。


 尾の骨刃が脇腹を深く裂く。

 分厚い装甲ごと。

 血が、遅れて噴き出した。


「――っ!」


 音にならない息が漏れる。

 それでもリーフデは膝をつかない。

 両手を怪物の尾に叩きつけ、そのまま抱え込むようにして動きを止めた。


「ソラ、様……!」


 その呼びかけに、ソラの瞳が揺れた。

 俺は初めて、彼女が本気で焦る顔を見た気がした。


「離れて!」


「嫌です……!」


 リーフデは血を吐きながら、それでも笑おうとした。

 まるで、これで役に立てるならそれでいいとでもいうみたいに。


「私、は……貴女のために……」


 怪物が暴れる。

 尾を拘束しているリーフデの体が持ち上がる。

 次の瞬間、前脚の一撃が、真正面から彼女を捉えた。


 鈍い音がした。


 大きな体が、地面へ叩きつけられる。

 今度こそ、俺には間に合わなかった。


「リーフデ!!」


 ソラの声が、初めて上擦った。


 俺たちは怪物を一時的に押し返し、リーフデのもとへ駆け寄る。

 でも、見た瞬間に分かってしまった。


 助からない。


 脇腹の傷だけじゃない。胸も、腕も、呼吸の音も、全部が壊れている。

 それでもリーフデは、血に濡れた口元で、必死にソラを探していた。


「ソラ、様……ご無事、で……」


「いるわ。ここにいる」


 ソラが膝をつく。

 金色の髪が地に触れるのも構わず、リーフデの頭を抱き起こした。


 俺は、そのときこそ彼女が泣くんだと思った。

 誰よりも慕っていた従者で、誰よりも傍にいた相手だ。

 だから当然、悲しむんだと。


 けれど、ソラの顔に浮かんでいたのは、俺の知っているどんな表情とも違っていた。


 困惑。

 興味。

 ほんのわずかな、熱。


「……ああ、そう」


 ソラは小さく呟いた。


「貴女、ここで終わるのね」


 その声音に、俺の背中が冷えた。


 リーフデはうっすら笑っていた。

 満足したような、安堵したような顔で、ただソラだけを見ている。


「よかっ、た……ソラ様、が……」


「ねえ、リーフデ」


 ソラは、血に濡れた彼女の頬に触れた。


「今、どんな気分?」


 その場の空気が、凍った。


 俺は耳を疑った。

 プリストラが息を呑む。

 ベゼッセンの表情が、初めてはっきりと変わった。


 ソラは続けた。静かに、優しく、いつものやわらかな声のままで。


「痛い? 苦しい? それとも、少し嬉しいのかしら。私のためにここまで壊れられて」


「ソラさん……?」


 俺の声は、自分でも分かるくらい掠れていた。


 ソラはそこで、ようやく自分が何を言ったのか気づいたみたいに目を瞬かせた。

 でも、もう遅かった。


 リーフデの唇が、かすかに動く。


「……はい」


 それが最後だった。


 大きな体から力が抜ける。

 目から光が消える。


 ソラの腕の中で、リーフデは静かに息を引き取った。


 しばらく、誰も動けなかった。


 怪物でさえ、その瞬間だけは距離を取っていた。

 いや、違う。

 接続の端で分かった。あれは見ていた。

 リーフデの死を。

 痛みをくれた相手の終わりを。


 その虚ろな目が、わずかに揺れた気がした。


「……殺す」


 ソラが立ち上がった。


 その声には、今までの柔らかさがほとんど残っていなかった。


 細剣を握る手が震えている。

 悲しみなのか、怒りなのか、それとも別の何かなのか、俺には分からない。


 ただひとつ分かったのは、もうさっきまでのソラじゃないということだけだった。


「アキ、下がって!」


 プリストラの叫びで我に返る。

 怪物が再び動く。

 けれど今の俺たちは、これ以上戦える状態じゃなかった。討伐役は半壊、俺たちも消耗しきっている。リーフデの亡骸を抱えたまま、ここで決着をつけるなんて無理だ。


「撤退だ!」


 ベゼッセンの判断は正しかった。

 悔しくても、それしかない。


 俺たちは怪物を牽制しながら、どうにかその場を離れた。

 怪物は少しだけ追ってきたが、深追いはしなかった。まるで、もうひとつの目的が終わったからだと言わんばかりに。


 帰路の空気は、前回よりもずっと重かった。

 リーフデは動かない。

 ソラは何も言わない。

 プリストラは俺のすぐ横を離れず、ベゼッセンはずっと無言だった。


 俺の頭の中では、さっきの言葉だけが何度も響いていた。


 今、どんな気分?


 あれは、仲間の死を前にした言葉じゃない。

 少なくとも、俺の知っている“優しい令嬢”の言葉ではなかった。


 けれど、じゃあ何だったのかと問われても、答えは出ない。


 ただ確かなのは、あの瞬間から何かが決定的にずれてしまったということだけだった。


 街道の先に見える町の灯りが、ひどく遠く思えた。

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