怪物
最初に異変を感じたのは、匂いだった。
街道を外れて、低い岩場の続く道へ入ったとき。風に混じって、獣とも腐臭とも違う、妙に乾いた匂いが鼻についた。血の匂いに近いはずなのに、温度がない。生き物の匂いなのに、生きている感じがしない。
「……なんか変じゃない?」
先を歩いていたプリストラが足を止めた。
俺も頷く。
同じことを感じていた。
その日の依頼は単純だった。近くの採石場へ向かった作業員たちの帰路が遅れているから、様子を見てほしい。獣が出ることはあるが、大きな魔物の報告はない――そう聞いていた。
けれど、道に散らばる荷の破片を見た瞬間、そんな説明を信じる気はなくなった。
「荷車の残骸……」
リーフデが低く言う。
車輪が割れ、木箱は砕け、中身の石材や道具が無造作に転がっていた。人影はない。争った痕だけが残っている。
しかも妙だった。盗賊なら持ち出せるものを持ち出すはずだし、獣ならもっと肉や血の痕があるはずだ。なのに、ここには“壊された”痕だけがある。
ベゼッセンがしゃがみ込み、木片に触れる。
「切られたんじゃない。叩き割られてる……いや、潰された?」
「そんなことできる獣、いるのか?」
「いるかもしれないけど、僕は知らない」
それは嫌な答えだった。
ソラが辺りを見回しながら、静かに言う。
「まず、生存者を探しましょう。警戒は強めに」
その言葉に、全員が短く頷いた。
岩場の道は見通しが悪い。大きな石がいくつも突き出していて、陰になる場所も多い。俺たちは自然と距離を詰め、いつでも互いを庇える位置で進んだ。
少し先へ行ったところで、倒れている男を見つけた。作業着を着ていて、腕に深い裂傷がある。けれど息はあった。
「まだ生きてる!」
俺が駆け寄ると、男は怯えた目でこちらを見た。
「逃げ……ろ……」
「何がいたんです?」
問いかけても、男の目は焦点を結ばない。震える唇から、かすれた声が漏れる。
「獣じゃ……ない……」
その瞬間だった。
背筋を何かが走った。
接続、と呼ばれる俺の祝福が、いつもとは比べものにならないくらい強くざわついた。
近い。
来る。
「伏せろ!!」
叫ぶと同時に、横の岩陰が砕けた。
轟音。石片が飛ぶ。
現れたそれを見て、俺は一瞬、自分が何を見ているのか分からなかった。
獅子のような胴体。硬そうな外殻みたいな毛並み。長い尾の先には、刃物のように尖った骨。顔つきは獣に近いのに、どこか歪で、目だけが妙に虚ろだった。
知っている獣のどれとも違う。
けれど、生き物であることだけは確かで、そして圧倒的に危険だと本能が理解した。
「――っ!」
リーフデが真っ先に前へ出た。
俺も剣を抜いて踏み込む。間に合わせないと、後ろの三人に届く。
怪物の前脚が振り下ろされる。
速い。重い。
受けた瞬間、腕が痺れた。剣越しに、まともじゃない力が伝わってくる。
「アキ!」
プリストラの声。
横から短刀が閃き、怪物の視線が一瞬だけ逸れる。その隙に俺は体勢を立て直した。
ソラの細剣が脇腹を狙い、ベゼッセンの魔術が足元を揺らす。連携はできている。いつもなら十分通じる動きだった。
なのに、相手はそれを意に介した様子もなかった。
尾が唸りを上げる。
俺はとっさに身体強化を脚へ集中させて跳ぶ。さっきまでいた場所の岩が、紙みたいに裂けた。
「なんだよ、こいつ……!」
声が勝手に出る。
理屈じゃない。強すぎる。
怪物は吠えない。怒鳴らない。
ただ、淡々と殺そうとしてくる。
それが余計に不気味だった。
リーフデが拳で前脚を打ち払う。鈍い衝撃音。普通の獣なら怯むはずの一撃なのに、怪物は少し体勢をずらしただけで、すぐに反撃へ移る。
「リーフデさん、下がって!」
「まだです!」
ソラの声にも、リーフデは前から退かない。
あの大きな体で壁になるつもりなんだ。俺たちを通さないために。
ベゼッセンが杖を突き出した。
「右、三歩!」
その声に従って動いた次の瞬間、頭上を石槍のような魔術が走る。怪物の肩口に命中し、硬い殻みたいな部分をわずかに砕いた。
効いてはいる。
でも浅い。
プリストラの糸が前脚に絡みつく。ほんの一瞬、動きが止まる。
そこへ俺とソラが同時に斬り込んだ。俺の剣は首筋を、ソラの細剣は眼を狙う。
――そのはずだった。
怪物が振り向く。
目が合った。
その瞬間、接続が勝手に開いた。
いつものように、気配の端に触れる感じじゃない。
もっと深く、もっと強く、何かに手を突っ込んでしまったみたいだった。
感情が、ない。
怒りも、恐怖も、飢えもない。
あるのは、動作だけ。目的だけ。
いや、違う。目的と呼べるものすら曖昧で、ただ“そうするようにできている”何かがあるだけだ。
空っぽだ。
ぞっとした。
心の内側に触れたはずなのに、そこに何もない。
生き物に触れた感覚じゃなかった。
底のない穴を覗き込んだみたいな、嫌な空白だけがあった。
「アキ!!」
誰かの叫びで意識が戻る。
気づいたときには、怪物の尾が目の前まで来ていた。
間に合わない。
――がつん、と横から衝撃が来た。
俺の体が弾き飛ばされる。地面を転がって、岩に背中を打ちつけた。息が詰まる。
目を上げると、そこにはリーフデがいた。
いや、正確には、いた場所にいた。
彼女は俺を突き飛ばし、その代わりに尾の一撃を受けていた。腕甲ごと横に薙がれて、巨体が数歩ぶん後ろへずれる。
「リーフデさん!」
「問題、ありません!」
あるに決まってる。
腕の装甲はへこみ、肩口から血が滲んでいる。
けれどその間にも、ソラが前へ出た。
金髪が揺れる。
細剣がまっすぐ怪物の視線を引きつけるように走り、ベゼッセンの魔術がその足元を束ねる。プリストラの糸が尾の軌道を逸らし、俺は立ち上がって再び剣を構えた。
「アキ、いける!?」
「……いける!」
本当は背中が痛んだ。腕も痺れていた。
でも、ここで怯んだら終わる。
怪物へ踏み込む。
今度は目を見ない。
あれに触れたくない。あの空白を、二度と覗き込みたくなかった。
剣を打ち込み、すぐ引く。受けるんじゃなく躱す。身体強化を細かく使って、致命傷だけ避ける。
ソラが逆側から鋭く刺突を入れ、プリストラが脚を絡め取る。リーフデは傷を押してなお前に出る。ベゼッセンは俺たちの動きに合わせて最適な位置へ術を置いていた。
全員で、どうにか押し返した。
倒せてはいない。
でも、こちらがただの獲物じゃないとは思わせたはずだ。
怪物が一歩引く。
そして、虚ろな目で俺たちを見た。
何も映していないみたいな眼だった。
けれど、その空虚さの奥で、何かがわずかにこちらを測った気がした。
「……下がった?」
プリストラが息を呑む。
怪物はすぐには飛びかかってこなかった。
俺たちの陣形、傷、位置を見ているようで、でも本当に“見て”いるのか分からない。そんな気味の悪い間が流れる。
次の瞬間、そいつは岩場を蹴って跳んだ。
前じゃない。後ろへ。
離脱だ。
「待て!」
俺が一歩踏み出しかけた瞬間、ベゼッセンが鋭く言った。
「追うな!」
その声で、足が止まった。
怪物は岩の向こうへ消え、乾いた匂いだけがあとに残る。
しばらく、誰も動けなかった。
最初に口を開いたのはソラだった。
「……全員、無事ですか」
「なんとか」
俺が答えると、プリストラも小さく息を吐く。
リーフデは傷口を押さえながら、それでも真っ先にソラの無事を確認していた。
「ソラ様、お怪我は」
「私は平気です。貴女こそ」
「問題ありません」
いや絶対に問題ある。
でも、今ここで言い合っている余裕もない。
怪我人の作業員を回収し、俺たちはすぐにその場を離れた。
帰り道の空気は重かった。誰も軽口を叩かない。ベゼッセンは何かを考え込み、プリストラは珍しく黙っていて、ソラはずっと前を見ていた。
俺は、自分の手を何度も握り直していた。
あの感触が抜けない。
接続で触れた、あの空白。
獣じゃない。
人でもない。
何かもっと別の――そう考えかけて、やめた。
今の俺に分かることなんて、ひとつしかない。
あれは危険だ。
今まで戦ってきた何よりも、ずっと。
町へ戻った頃には、空はすっかり暗くなっていた。
けれど俺の中では、岩場で見た虚ろな目だけが、まだはっきりと残っていた。
あの怪物は何だったのか。
なぜ、あんなものがこの辺りにいるのか。
そして、あの空っぽの感触は何だったのか。
答えはどこにもない。
ただひとつ確かなのは、あれがもう一度現れたら、次はもっと酷いことになるかもしれないということだけだった。




